第14話 宿題(1)

 夏休みで唯一憂鬱なものと言えば、宿題である。それぞれの先生が他の教科のことなど考えずに宿題を出すから、全体として山のような量になるのは中学時代と同じだ。いや、むしろ高校では悪化したかもしれない。あるいは、中学の頃は私は夏休みは一人で暇していたから、宿題の量が気にならなかっただけかもしれない。

 帰宅部の面々に宿題との向き合い方を聞いたら、絢音はいかにも優等生らしく、7月中には大半を終わらせたいと言っていた。私も絢音同様、前半に終わらせる派だが、理由が違う。私は8月に後顧の憂いなく遊ぶためだが、絢音は自分のしたい勉強をするのに、宿題は邪魔だと言っていた。意味がわからない。夏休みにやる勉強など、宿題だけで十分ではないか。

 涼夏は後半に一気にやると言っていた。先延ばしにしたところで、量が減るわけではない。絢音が冷静にそう指摘すると、涼夏は笑いながら持論を述べた。

「先にやったら、実テの前にまた勉強しなくちゃいけないじゃん? でも、最後に宿題をやったら、それがそのまま実テの勉強になるでしょ?」

 涼夏の言葉に、私は思わず絢音と顔を見合わせた。確かに、8月上旬までに一気に詰め込んだ内容は、9月の実力テストの時まで覚えていない。涼夏の言うことにも一理ある。あながち間違ったことは言っていないが、どうも言い訳がましく聴こえるのはどうしてか。

「じゃあ、宿題は二人でやろうか」

 仕方なさそうに絢音と二人で頷き合うと、涼夏が血相を変えて割り込んだ。

「待って。そういうことなら一緒にやるから!」

「でも、内容忘れちゃうよ?」

「お許しください、絢音様。わたくしめには、あなた様のお力が必要なのです」

 泣きすがる涼夏の頭を、絢音が微笑みながら撫でた。ひどい茶番だ。

 そんなわけで、私も涼夏もバイトのない日に、宿題会を開くことにした。私がお昼に涼夏の手料理を所望したら、慣れた台所がいいと言って、涼夏の家でやることになった。母親は仕事だし、妹は部活で夕方までいないらしい。絢音も夜は塾があるので、丁度いい。

 奈都も部活もバイトもなかったので声をかけると、喜んで参加すると言った。クラスは違うが、宿題は同じである。

「誘ってくれてよかった。去年までは一緒にやってたけど、今年はチサ、きっと私のことなんて忘れて、帰宅部の友達と仲良くやるんだろうなって一人で泣いてた」

 奈都がわざとらしく鼻をすすって目元を拭った。こんな滑稽な芝居をするような子だっただろうか。帰宅部に毒されてきたように見えるが、それなら嬉しい。

「涼夏も絢音も、奈都のこと好きだよ」

「歓迎の空気は感じてるよ。でも、帰宅部は結束が強すぎて、誘われたら入れるけど、自分からは声をかけづらい」

「そんな遠慮、要らないのに」

 私が呆れながら言うと、奈都はわかってないなぁと苦笑いを浮かべた。確かに、そんなようなことを言うのは奈都だけではない。クラスの中でもそういう声はあるが、実際に彼女たちのことは求めていない。だが、奈都は私の大事な親友だし、涼夏も帰宅部に引き込もうとしている。他の子のように距離を置かれるのは少し寂しい。

 涼夏の家の最寄り駅で待ち合わせて合流すると、涼夏が仲間を求めるように奈都の肩に手を置いた。

「そういえば、ナッちゃんは期末の順位はどうだった?」

「んー、可もなく不可もなく」

「半分より上?」

「半分よりは上だけど、半分よりは上ってくらいだよ」

 奈都が明るく笑う。誇れるような成績ではないが、悪いとも思っていないようだ。みんな同じように勉強しているのだから、半分より上なら上等ということだろう。

「じゃあ、私と同じくらいだ」

 涼夏がにこにこしながら奈都の手を握った。

「相変わらず、帰宅部はスキンシップが多めだね」

 奈都が困惑気味に笑う。嫌そうではないので、大丈夫だろう。涼夏が繋いだ手を子供のように振りながら、もう片方の手で私を指差した。

「この人が、いつも私のことをバカだって言うんだよ。ナッちゃんも同じくらいの成績なら、つまり……」

 涼夏がニヤッと笑って、私は慌てて手を振った。

「違う。そういう意味じゃない!」

「チサ、人にバカとか言っちゃダメだよ。チサにはできなくて、涼夏にだけできることだって、たくさんあるでしょ?」

 奈都が声を低くする。本気で少し怒っているようだ。涼夏が困ったように微笑む。絢音が口元を押さえて肩を震わせる横で、私は冷静に頭を振った。

「違うの。逆なの。涼夏が可愛いし優しいし女子力高いし天使だし、あまりにも完璧ガールだから、私は涼夏の欠点を探す旅の途中なの」

「嫌な旅だね」

 奈都が呆れたように笑った。帰宅部ジョークだと理解してくれたらしい。

 そもそも涼夏の頭は悪くない。ユナ高に入学できた時点で一定の偏差値はあるし、学年でも半分より上なのだから、決してバカではない。あくまで、学年6位と33位との比較で話しているだけだ。

「ナッちゃんは宿題は先にやる派? 後にやる派?」

 話を変えるように涼夏が聞いた。涼夏の住むマンションまでは、日差しを遮るものが少なく、歩いているだけで汗が滴り落ちる。涼夏と奈都はずっと手を握っているが、暑くないのだろうか。

「たぶん、放っておいたら溜まりそう。中学の時はチサと一緒にやってたから、自然と早く終わってたよ」

「じゃあ、今年もそうなるね」

「だといいけど。部活もバイトもあるから、あんまり参加できないかも」

「バイトって言うと、カラオケどう? っていうか、別にバイトする気なかったんでしょ? 千紗都への愛を感じるよ」

 涼夏が喋り続ける。しかも、一方的にではなく、ちゃんとキャッチボールになっているから、相変わらずのコミュニケーション力だ。

 奈都のバイトの話を聞いている内に、マンションに到着した。10階建てで玄関はオートロックだが、建てられてからそれなりに年月が経っていそうだ。私が薄汚れた壁をじっと見つめていると、涼夏が陽気に笑った。

「今度、大々的に壁の補修をするって。そしたら、きっと綺麗になるよ」

「いや、違う。別にそんなことを思ってたわけじゃない」

 私は思わず顔が熱くなって、慌ててそう言い繕った。少し古く感じたのは事実で、しかもそれを住んでいる本人に見透かされた。恥ずかしい上に、失礼すぎる。しばらく手をバタつかせてから、しゅんとして「ごめん」と呟くと、涼夏が私の背中をバシッと叩いた。

「壁の汚れとか知らんし。千紗都もそうでしょ?」

 確かにそうだ。うちもマンションで、築浅だから綺麗だが、それは野阪家とは何も関係がない。古いから家賃が安いというわけでもないし、そもそも比較したわけでも見下したわけでもない。ただ、リンゴを見て「赤い」という感想を抱いたような、その程度の話だ。そう力説すると、涼夏は「わかったわかった」と笑いながら、私たちを中に導いた。

 リビングの方が広いので、誰もいないしリビングでやろうと、涼夏は真っ直ぐ私たちを一番奥に導いた。先程のことがあったので、私が本音を遠慮すると、絢音がくすっと笑って涼夏の腕に触れた。

「涼夏の部屋が見たいな」

「まあ、そうだよね。別にいいよ」

 そう言って、部屋のドアを開ける。物で溢れているが、散らかっている感じではない。全体的に淡い色味の物が多いが、布団カバーとカーテン、カーペットの色に統一感がなく、どうもオシャレな涼夏らしくない。

 私が難しい顔でカーテンを見つめていると、涼夏がベッドの端に座って、ポンポンと布団を叩いた。

「私が買ったわけじゃないんだよ」

「ねえ、涼夏。私の心が読めるの? 私が声に出してないことに、さもそう言ったかのように反応しないで」

 先程のマンションの壁もそうだ。確かに私は失礼なことを思ったかもしれないが、声に出してはいない。私が思うより顔に出ているのだろうか。不安に思うと、涼夏が実に明快な答えをくれた。

「私もそう思ってるからね。壁は汚いし、色はバラバラだし」

 涼夏の笑顔に、私は大きく息を吐いた。そのまま鼻から空気を吸い込むと、涼夏の香りがした。

「いい匂い」

 うっとりと微笑むと、涼夏は「それは声に出すんだ」と苦笑いを浮かべた。

「私も、千紗都の部屋は千紗都の匂いがするって、行くたびに思うけど、声には出してない」

「チサの部屋、いい匂いがするよね」

 奈都が笑って頷いて、私は思わず目を丸くした。

「奈都、そんなこと考えてるの?」

「昔からずっとそう思ってるけど、私も声には出してない」

「千紗都、いい匂いだよね。時々椅子を引いてる時、嗅ぎたくなる」

 絢音が便乗するようにふふっと笑った。私は思わず顔を赤くして首を振った。

「やめてよ。後ろで絢音がそんなこと考えてると思ったら、授業に集中できない」

「授業が退屈な時は、髪の毛綺麗だなとか、下着は何色かなとか、噛みたいうなじとか、色んなこと考えながら眺めてるよ」

 絢音がいたずらっぽくそう言って、意味もなく舌先で唇を舐めた。涼夏と奈都がニヤニヤした目で私を見ている。ここにいたらヤラれる。私は一歩後ずさりすると、脱兎のごとく涼夏の部屋を飛び出した。

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