第10話 ケンカ(1)

 運の良し悪しがもし本当にあるとしたら、私は運がいい方ではないだろう。そんなことを言ったら怒られるだろうか。そこそこ人に好かれる容姿で生まれ、高校でも、入ってすぐに涼夏すずか絢音あやねのような友達が出来た。十分に幸運だと言う人もいるだろう。

 ただ、サマセミで絢音がバンドを手伝うと言い、その日程を聞いた時、私には嫌な確信があった。3日間に渡って開催されるサマーセミナーの中で、ステージ企画でバンド演奏が行われるのは初日の土曜日。それは丁度、奈都なつから部活で地域のイベントに出るから見にきて欲しいと言われていた日だった。

 その日程は随分前に決まっていて、私は二つ返事でOKした。その時はまだ絢音が音楽をすることすら知らなかったし、サマセミの日程を聞いた後も、何とかなると期待していた。会場は遠いが、例えば絢音の出番が午前なら十分はしごできる距離だった。言ったところでどうなるわけでもないから、私はそのことを絢音のタイムテーブルが確定するまで誰にも言わなかったのだが、それがいけなかったのだろうか。

 終業式まで数日になり、絢音から出演時間を聞かされて、私は思わず頭を抱えた。どう考えても間に合わない時間。嫌な確信は現実に変わった。

「どうしたの? もしかして、何か予定があった?」

 絢音が心配そうに私の肩に手を乗せる。私は涙目で首を横に振った。

「いいの。絢音は悪くない。全部私の業のせい」

 絶望しながら奈都の部活の話をすると、絢音は眉根を寄せて険しい表情をした。

「それは、残念だけど仕方ないね」

「うん。奈都に謝る」

「えっ? そっち?」

 絢音が驚いたように顔を上げた。私はキョトンと首を傾げて絢音を見つめた。

「どうして?」

「先にナツと約束してたんでしょ?」

「私は先か後かだけで、優先度を決めないけど」

 極端な例を挙げれば、友達とカフェに行く約束をした日に結婚式が入ったら、結婚式に行く。同じ帰宅部の絢音が、センターでギターを弾きながらステージで歌うのと、元々入ることすら反対したバトン部の発表を比べたら、当然絢音の方が楽しみだ。そのために絢音のいないぼっちの日々も我慢してきた。

 何でもないようにそう伝えると、絢音は難しい顔で唸った。

「バンドとバトンのどっちが大事かはわかった。でも、バンドとナツのどっちが大事かは考えてね。私はその理由で千紗都ちさとが来れなくても、1ミリも千紗都を非難しない」

 絢音が重苦しい息を吐く。そんな絢音を見ながら、私はまだ、心のどこかで事態を楽観視していた。


 翌朝、いつものように奈都と駅で合流して学校に向かった。奈都は夏休みになったら一緒に宿題をしようと、明るい顔で笑っていた。バトン部は元々そんなに本気の部活ではなく、夏休みの部活も週に2日しかない。まるで長く入院していた子が病院から出て来たように、最近は夏休みに遊ぶ話ばかりしている。奈都も私と遊びたがってくれるのは、本当に嬉しい。

 だから、大丈夫だと思った。上ノ水で電車を降りて騒音がなくなると、私は静かに切り出した。

「奈都、土曜日なんだけどね」

「うん」

「行けなくなっちゃった。ごめん」

 胸の前で軽く手を合わせてそう告げると、奈都はパチクリとまばたきしてから、微かに首を傾けた。

「用事が入っちゃったならしょうがないけど、どうしたの?」

「うん。話してた絢音のバンドの時間が決まって、奈都の方に行けそうにない。ほんとごめん」

 きつく目を閉じて謝ると、奈都が足を止める気配がした。そして、私の想像とはまったく違う言葉が私の耳朶を打った。

「どういうこと? 意味がわからないんだけど」

 いつもより低くて、ゆっくりな口調。弾かれるように顔を上げると、奈都は可愛らしく小首を傾げ、しかしまったく笑っていない目で私を見つめていた。私は思わず息を呑んで背筋を伸ばした。

「その、同じ日なのは知ってたんだけど、時間が確定してなくて」

「私の方は日程も時間も確定してたよ。だいぶ前から」

「そうだね。だから、本当にごめんね?」

 謝る以外に出来ることはない。悪いのは完全に私であり、弁明の余地もない。私が頭を下げると、奈都は目を見開いて、いよいよ余裕のない顔で歩き始めた。

「全然意味がわからない。後から入った予定を優先するの?」

「もちろん、奈都の演技だってすごく楽しみにしてたよ? 私が一番悔しい感じ」

 首を振って無念を訴えたが、奈都は見たこともないような冷たい眼差しで私を睨んだ。

「言ってること、わかってる? 私よりアヤの方が大事ってことだよね?」

「そんなこと言ってない! 絢音のバンド演奏の方が楽しそうっていうだけで、絢音と奈都の優先度じゃない!」

「私の方は楽しそうじゃないってこと?」

「だから、比較の話だって」

「チサ、元々私がバトン部に入るの、反対だったもんね。いいよもう。二度と誘わない」

 怒りを隠すことなくそう吐き捨てて、奈都がスタスタと歩いて行く。私は思わず眩暈がして、慌てて追いついて奈都の手を取った。その手を、奈都が乱暴に振り解く。

「今日は一人で行く。明日の朝もいいや」

 そう言って、奈都は私の顔も見ずに小走りで行ってしまった。私は呆然と立ち尽くし、それからゆっくりと歩き出した。


 教室に入ると、涼夏が私の椅子に後ろ向きに座って、絢音の机に突っ伏していた。その髪を絢音が苦笑しながら撫でている。

「おはよ。どうしたの?」

 私がバッグを机に置くと、涼夏が顔を上げて私にすがりついた。

「前髪切りすぎた。もう人前に出られない!」

 そう言って顔を上げる涼夏をじっと見つめたが、確かに切った分短くはなっていたが、切りすぎたというほどでもなかった。

「大丈夫。可愛いよ?」

「でも、昨日より短い!」

「そりゃ、切れば短くなるでしょ」

 呆れながらそう言うと、絢音が笑いを堪え切れないように肩を震わせた。涼夏を押し退けて座ると、椅子が生温かかった。夏には要らないサービスだ。

 通学路での奈都との喧嘩を思い出してため息をつくと、涼夏が「ん?」と首を傾げて私の髪に指を滑らせた。

「どうした?」

 顔を上げて二人を見ると、絢音は何かを察したように、真剣な目で私を見つめていた。私はもう一度ため息をついてから、絶望的な声で言った。

「奈都と喧嘩した」

 簡単に事情を話すと、絢音がやれやれと首を振った。

「だから言ったのに」

「そんなイベントがあったなんて、全然知らなかった。どうしてそれを、私も絢音も知らないのか。正妻イベントだから内緒にしてた?」

 涼夏がおどけるように訴える。その声に嫉妬の色はない。二人を誘っていなかったのは、何となく恥ずかしかったからだ。奈都が自分で誘うならともかく、私から声をかけるのも変な気がした。

 いや、それも言い訳かもしれない。私は奈都が可愛い衣装を着て人前で踊るところを、人に見られたくない。それは友達であってもだ。もし奈都が、先程の会話からそういう私の差別意識や嫌悪感を感じ取ったのなら、ますます事態は深刻だ。

「私の方はいいから、今からでもナツに謝って、そっちに行った方がいいと思う」

 絢音が冷静にそう言ったが、私は否定するように首を振った。

「私がそっちに行きたいの。絢音のためじゃない。それに、もう宣言した今、意見を変えたって、奈都は喜ばないと思う」

「それはそうかもだけど。私、ナツに恨まれたくないよ?」

「奈都はそういう子じゃないよ」

 そんな話をしていたらチャイムが鳴った。また後でと言って、涼夏が席に戻って行く。

 結局のところ、どうすればいいのだろう。私は奈都に人前で踊って欲しくないし、絢音の方に行きたいという気持ちも変えられない。謝る以外に出来ることはないが、奈都は許してくれそうにない。

 一日中考えたが、結論は出なかった。心配する絢音と別れて、涼夏と二人で帰路につく。「それにしても」と前置きしてから、涼夏が言った。

「千紗都、意外と平気そうだよね。ナッちゃんはわかってくれるっていう、正妻ビリーブ?」

「んー、わかんない。やれることがないから、天運に任せるしか……」

 平気ではない。奈都に嫌われたら、本当に悲しい。

 だが、奈都に好かれるために自分の大事な信念を変えるつもりはない。この件で奈都が私を許せないのなら、私もそんな奈都のことが好きなのかよくわからない。涼夏のいう正妻ビリーブとは、そういうことだろうか。訥々とそう語ると、涼夏は困ったように苦笑いを浮かべた。

「それは、私は変わる気がないから、そっちが合わせないならおしまいだねって脅してるだけ。信頼でも何でもない」

 目から鱗な意見だった。突き放しているだけと言われたらそうかもしれない。そんなつもりはなかったが、今まで奈都と大きな喧嘩をしたことがないから、落とし所がわからない。

 バイトに行くからと、涼夏が手を振って帰って行く。

「終業式までに仲直りしなきゃダメだよ」

 涼夏が心配そうにそう言ったが、いくら考えても何も浮かんでこなかった。

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