第8話 バンド(2)
バイトに行く涼夏と別れて二人になると、絢音はいつものように私の手を握って、餌を欲しがる猫のように私を見上げた。今日は絢音から話をしてくれるのではないかと、無言で絢音の顔を見つめていたら、しばらく睨めっこした後、絢音がほのかに頬を染めた。
「やっぱり千紗都の顔、可愛い」
「いや、今そういうのはいいから」
冷静に手を振ると、絢音がいたずらっぽく笑った。私はやれやれとため息をついてから、適当な道を歩き出した。
「帰宅部のことは置いといて、絢音の演奏とか歌とか、ステージで見てみたいよ?」
それは偽りのない感想だった。そもそも、絢音と涼夏には、私が寂しいかどうかで何かを決めて欲しくない。二人にとって大事な存在にはなりたいが、それは重荷になることとイコールではない。
「私も今のところ、帰宅部のこと以外に、誘いを断る理由はないかな。勝手に作って勝手に辞めた身だけど、向こうから出てほしいって言うなら、久しぶりに人前で演奏するっていう刺激もいいかも」
「私の知ってる絢音さんの発言じゃないわー。人前で演奏する刺激とか」
想像してみたが、何も思い浮かばなかった。そもそもバンド演奏というもの自体、画面の中でしか見たことがないし、それもほとんどがプロの演奏だ。ステージで歌うのはどんな気分だろう。私は注目されるのが好きではないし、たくさんの視線を受けたら逃げ出したくなりそうだ。
「やっぱり見てみたいな。私のことはいいから。幼児じゃないんだから、別に一人で暇くらい潰せる」
「ならいいんだけど。でも、プロの演奏しか聴いたことがない人には、退屈なレベルだよ? 所詮素人なんだし」
そう言いながら、絢音が私の手を引いて道を折れた。どこに行くのか聞いたら、近くに楽器屋があると言う。私が人生で一度も足を踏み入れたことのない場所だ。
店に連れていかれると、ガラスの向こうにズラリとギターが並んでいた。雰囲気からすると中古店のようだ。縁のない店には入りづらい。迷うことなく自動ドアの前に立った絢音に、大人しくついて行く。
二人でギターを眺めていると、店員さんがやってきた。絢音が試奏をお願いすると、店員さんが快くギターを取ってアンプにケーブルを差した。絢音が椅子に座って、借りたピックで弾き下ろす。スピーカーからグワンとうなるような音がした。
演奏のテクニックはわからないが、絢音はピロピロとメロディーを奏でてからジャカジャカと弾いて、よく聴く歌を歌った。絢音の歌は相変わらず上手いし、カラオケ音源ではなく、ギターも自分で弾いているのがとにかくかっこいい。
2番を飛ばして1曲弾き切ると、店員さんが口笛を吹いた。
「いいねぇ。バンドやってるの?」
「中学の時に。高校で辞めちゃったから、新しい友達に見せつけてみた」
「へぇ。どうだった?」
店員さんが楽しげに私を見る。私は壊れた人形のように単調に頷いてから、どうにか喉から声を出した。
「すごかった。いつもは勉強しかしてないような、大人しい子だから」
「惚れてもいいよ?」
絢音が誇らしげに胸を張る。もう2台ほど試奏してから、何も買わずに店を出た。いきなり行って、弾くだけ弾いて、何も買わずに帰るとか大丈夫なのかと思ったが、店員さんは「またいつでも来てね」と手を振っていた。音楽系の人のノリはよくわからない。
なんだか胸がいっぱいで、言葉もなく歩いていたら、絢音が大きな目で私の顔を覗き込んだ。
「イメージ、湧いた?」
「うん。歌が上手なのは知ってたけど、なんか、ミュージシャンって感じだった」
「やったね」
「私の絢音が遠くに行っちゃった……」
「行ってない」
コンビニでアイスを買って、食べながら歩いた。腰を落ち着けられそうな場所があったので座ると、私は胸に溜まった息を吐き出した。
「私さ、一人だとやることがないの」
静かにそう話し始めると、絢音はアイスモナカをかじりながら私の横顔を見つめた。
「一人だと寂しいっていうのは、別に私だけじゃなくて、涼夏や奈都にだってあると思うし、絢音も少なからずあるよね?」
「まあ、一人は一人だけど、千紗都や涼夏といる時間の方が好きだね」
「カラオケもショッピングも小説も、何をしても一人だとダメ。音楽だって、私は音楽を聴いて楽しむっていうより、聴いた音楽の話を誰かとしてる時間が楽しい」
何をやっても楽しめない。ため息混じりにそう独白すると、絢音は複雑な顔をした。
「そういう子は少なくないと思うよ? 趣味もなくて、家ではSNSとかゲームばっかりやってるような」
「SNSか……」
私は苦い顔で呟いた。奈都がTwitterをやっているが、私は会うつもりもない知らない人たちと交流しようという気持ちがまるで起こらない。それならまだ、クラスメイトと仲良くした方がだいぶいいが、過去のトラウマもあってそれすらしていない。
「もっとたくさん友達を作った方がいいかな」
「私と涼夏はそれを望んでないけど、涼夏も時々一緒にご飯食べる友達とかいるし、止めはしない。ただ、もう7月だけどね」
絢音が冷静にそう告げた。入学してから丸3ヶ月が経ち、グループは完全に出来上がっている。クラスの中で部活に入っていない3人は無事に仲良くやっているし、今さらどこかの輪に入るのは、私の動機とコミュ力では難しいだろう。
「さっきの絢音、すごかった。私には何もない」
「そう?」
「そうだよ。絢音は勉強もできるし、歌も上手でギターも弾ける。涼夏はコミュ力があって、バイトもしてて、それに料理も裁縫もできる。奈都だって部活頑張ってるし、中学の時は部長だった。前に胸張ってアニソンが好きだって言ってたのも、すごいなって思った。私はそんなに、自信を持って好きだって言えるものがない」
今日何度目かのため息をつく。ダメだ。どんどん思考がネガティブになっていく。こういう愚痴は奈都にしかしなかったのに、いよいよ我慢ができなくなってしまった。これでもし絢音に、「こっちまで気が滅入るからやめてほしい」と言われたら、すべてが終わってしまう。
一体どうすればいいのだろう。思わず頭を抱えると、絢音がそっと私の腰に手を回して、うっとりと微笑んだ。
「うじうじ悩んでる千紗都も可愛い」
「いや、可愛くないし。嫌いにならないの?」
「なんで? 自分の前で弱音を吐いてくれるって、すごく嬉しいことだと思うけど」
当たり前のように絢音がそう言って、私は呆けたように絢音を見つめた。その発想はなかった。確かに、もし絢音や涼夏が何かを悩んでいたら、私に相談してほしい。たとえそれが取り留めもない愚痴だったとしても、聞いてあげたいと思う。
「私は千紗都の悩みを解決できない。全部捨てて千紗都のそばにいることはできるけど、千紗都はそれは嫌でしょ?」
「絶対に嫌」
「じゃあ、やっぱり自分で一人の過ごし方を見つけてもらうしかない。あれしたらどうとか、これしたらどうとかいう提案はできるけど」
「それだけでも、十分嬉しいけど」
私が弱気になってお願いすると、絢音は私の体にぴったり身を寄せて、至近距離で私を見つめた。そして、どこか冷たい微笑みを浮かべて言った。
「私はナツみたいに優しくないし、ナツみたいな冒険もできない」
「奈都? 冒険って?」
「ナツは千紗都が私や涼夏と仲良くしてることに感謝してるけど、私はもし千紗都に新しい心の拠り所ができたら、絶対に嫉妬する。それなら、一人の時は今みたいにうじうじ悩んで、寂しがって、泣きついてくれた方が嬉しい」
私はゴクリと息を呑んだ。絢音がグイッと顔を近付ける。腰に回した手に力を入れて、もう片方の手を私の頬に添えた。吐息が顔にかかる。
「涼夏も私と同じはずだけど、私の方がもう少し独占欲が強いかもしれない。私は千紗都を、帰宅部の外に出したくない」
そう言って、絢音は目を開けたまま、私の唇に自分の唇を押し付けた。ぷるんとした柔らかな感触。私も目を閉じられず、キスをしたまま見つめ合う。
通行人がいない場所でもないのに、絢音は挑発的な目で私を見つめたまま私の唇をむさぼって、やがて顔を離した。
絢音が私の隣に座り直す。私は唇を指でなぞりながら、顔が熱くなるのを感じた。元々絢音も私とキスしたがっていて、私もいつしても良かったが、絢音はまるでこの時を待っていたかのように、記憶に残るキスを演出した。
「最後にもう1回聞くけど、私は帰宅部を休部してバンドの協力をした方がいい? それとも、断って千紗都といた方がいい? 千紗都が決めて」
これは枷だ。私が涼夏につけたのと同じ類の、相手の心を束縛する枷。
「バンドを手伝ってあげて。私はその心の穴を、少なくとも他の人には求めない。それで、もし寂しくなったら、絢音と涼夏に泣きつけばいいんだよね?」
「うん。ナツでもいいよ。正妻だから」
そう言って、絢音がいつもの笑顔を浮かべた。それを見て、私も少しだけ笑った。大丈夫。このキスも、私たちの仲を深めるだけで、壊しはしない。
「絢音、怖い子。私と涼夏についてくるふうを装って、心は完全に掌握してる」
元々自分たちの方が上だとは思っていなかったが、ここまで強い子だとも思っていなかった。12歳で自分のバンドを作るような子を、私なんかがどうこうできるはずがない。
私が感嘆の声を漏らすと、絢音は少しだけ照れたようにはにかんだ。
「そんなことないよ。本当は結構ドキドキしてる」
「よく言うわ」
「前に言った通りだよ。ギリギリを追及してるつもりだけど、もし一線を見誤ったら言ってね」
ほんのわずかに、怯えたように眉をゆがめる。本当にドキドキしているのなら、随分と可愛い子だ。
「大丈夫。超えてないよ」
そっと抱きしめて、私からもキスをした。涼夏の時と同じ。私からもすれば、絢音も安心できるだろう。
もうじき梅雨が終わって夏が来る。奈都も夏休みは大量に時間があると言っていた。大好きな友達と存分に楽しむ想像をして、これからしばらく、平日の寂しさを乗り切ることにしよう。
私だって、出来れば新しい心の拠り所など作らずに生きたい。
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