第十六話 木の上で
「もうダメだ……嫌われた……」
裏庭から繋がる雑木林の一本の木の上で、幹にしがみついたジェラルドが切々と訴えた。
「絶対に嫌われた……うう……あ、あんないい子に俺はなんてことを……もうダメだ。塵になりたい……」
「おい、ジェラルド」
地面から見上げていたアレスが呆れて呼びかけた。
「いい加減に降りてこいよ。授業が始まる」
「授業……俺と同じ教室にいるのも嫌になっただろうなぁ……クラスを変えてもらう……いや、俺なんて廊下で教室の中の声を聴いているのがお似合いだ……」
卑屈な台詞を吐いてだくだく涙を流すジェラルドに、アレスとオスカーは肩を落として溜め息を吐いた。
「嫌われていないかもしれないだろ」
「嫌われたに決まっているだろう!」
ジェラルドが力一杯叫んだ。
「俺のような男に胸を揉まれたんだぞ!今頃、傷ついて泣いているに違いない!俺は最低だ!俺なんかの婚約者になってくれた優しい女の子を傷つけて!」
ジェラルドの脳裏に、リートの笑顔が蘇った。あの笑顔を、もう二度と向けてくれることはあるまい。
「俺はリートに嫌われた!」
「なぜ、決めつけるのですか?」
凛とした声が響いた。
アレスとオスカーの声ではない。
「リ、リート!」
ジェラルドは悲鳴のような声を上げた。
リートはずんずんとジェラルドが登った気に近寄ると、自分もその枝に手を掛けて木に登り始めた。ジェラルドのみならず、アレスとオスカーもぎょっとした。
「おい!やめろ、危ない!」
「やめません!私は怒っているので!」
リートの言葉に、ジェラルドはぐっと息を飲み込んだ。
「す、すまない……」
リートの怒りは当然だ。令嬢が公衆の面前で身を穢されたのだ。ジェラルドが皇太子の立場でなければ、手厳しい処罰が下されてしかるべき行いだ。
「出来得る限りの詫びをする。望みを言ってくれれば……」
「私は今日、ジェラルド様にお礼を言いたかったのです」
ジェラルドの言葉を遮って、リートが言った。
「そのことで頭がいっぱいで、失敗しました」
木の幹にしがみついて上に登ろうと唸りながら、リートは言う。
「私は自分に怒っています。こんな失敗をして、ジェラルド様を下敷きにしてしまって、嫌われてしまったんじゃないかと不安なのです」
「え?」
「不安なんです。すっごく」
木に登ろうとしていたリートだが、上手くは登れなくて幹にしがみついたままぷるぷると震えた。腕の力が足りなくて、今にもずり落ちてしまいそうだ。アレスとオスカーがはらはらとしながら、落ちてきたリートを受け止められるように待機する。
「き、キミが不安に思うことなど何もない」
「でも、ジェラルド様に嫌われたかも!」
「俺が、キミを嫌いになるわけが……」
「きっと、ジェラルド様は私のことを「ドジで貧相」と思ったに違いないです。私の胸がもっと豊かだったら嫌われずに済んだかもしれないのに」
「そんなことは言ってない!」
ジェラルドは思わず怒鳴った。
リートの言い方では、まるでジェラルドが胸の大きさが気に入らなくてリートを嫌ったみたいに聞こえてしまう。そんなことは絶対にありえないのに。
「じゃあ、安心させてください」
「へ?」
「私のこと、嫌いになっていないなら、木から降りてきてください。そして、私の目を見て、嫌いになっていないと言ってください」
必死にしがみついているが、リートの体はちょっとずつずり落ちていっている。それでも、リートは上を向いてジェラルドを見ていた。
そのまっすぐな目に射抜かれて、ジェラルドはどうしようもなく心が震えるのを感じた。
「……じゃあ、キミも降りろよ。俺のことを……嫌いになっていないなら」
ジェラルドがそう言うと、リートが少しほっとしたようにずずーっと下がっていった。腕の力が限界だったようだ。
その後を追って、ジェラルドも木から軽やかに飛び降りた。
「ジェラルド様!」
リートが笑顔でジェラルドの前に立つ。木にしがみついたせいで、制服の前がぐちゃぐちゃだ。しかし、この令嬢はそんなこと気にも留めていないらしい。
リートはポケットからハンカチを取り出して、満面の笑顔を咲かせた。
「ハンカチ、ありがとうございます!とってもうれしいです!」
「……ああ」
逆光でもないのに、何故だかひどくまぶしいような気がして、ジェラルドは目を細めて自分に笑いかけるリートを見つめた。
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