第九話 婚約宣言
ジェラルド・イルデュークスのこれまでの人生で、女の子の方から「触りたい」と望まれたことなど一度もなかった。
まだ幼い頃、周りにいた女性が母親や侍女達だけだった時は何も問題がなかった。幼児とはいえ皇子であるジェラルドを誰もが丁重に扱ったからだ。
すべてが狂いだしたのは六歳で開かれた茶会の席からだ。
伯爵家以上の年頃の子供達が集められたそれは、今思うと婚約者候補を見定めるための催しだった。
その席で、皇太子殿下に挨拶をしてきなさいと親に促された令嬢達が、一斉に泣き喚くという尋常ではない事態が起きたのだ。
幼いとはいえ、高位貴族の令嬢達だ。皇太子妃の座を狙う親達から皇太子に近づくよう言い含められていた者もいたであろうに、普段は優秀で淑やかな令嬢も身を捩って「いやだいやだ」と皇太子の傍に寄ることを拒絶したのだ。
阿鼻叫喚の茶会の後、令嬢達の身に起きた異変を誰も説明出来なかった。
その後も同年代の令嬢と交流しようとする度に、似たようなことが繰り返された。ジェラルドが話しかけようとしただけで、女の子は怯えるし逃げるし泣く。
誰にも理由はわからず、ただ、ジェラルドがどうしようもなく女の子から嫌われているらしいということはわかった。
そんな状態が何年も続き、誰も婚約者どころか友達にすらなってくれないという惨めな有様で十五の誕生日を迎えてしまった。もはや、確実に何かに呪われているとしか思えないのだが、皇妃が呼びつけた祈祷師の祈りもむなしく、ジェラルドはモテないまま帝国学園への入学を迎えた。
同性の友人達からは学園に入学すれば環境が変わるから、とか、特待生の平民に声をかけてみろ、とか励まされて、入学式で平民の女子生徒に話しかけてみたが、声をかけただけで叫ばれた。もう他にどうすればいいのかわからなくて思わず縋ってしまったが、無駄に恥を掻いただけだった。
もうこうなったら諦めて一人で生きていくしかない。そんな悲壮な決意を固めた時だった。
「大丈夫ですか?」
肩にそっと触れたぬくもりに、ジェラルドは目を見開いた。
まっすぐな黒髪に藍色の瞳の少女が、ジェラルドをみつめて微笑んでいた。
リート・クーヴィット伯爵令嬢。
ジェラルドを前にしても泣くことも嫌な顔をすることもなく、優しく微笑む少女を目にして、ジェラルドは動揺のあまり気を失ってしまった。
目覚めた時には「夢だったのか」と肩を落としたが、号泣しながら飛び込んできた両親からあの令嬢は実在したと聞かされ、頭が真っ白になった。
それでも、我に返ったジェラルドは「期待するな」と自分に言い聞かせた。きっと、あまりにも憐れなジェラルドを見かねただけだ。彼女の優しさに甘えてはいけない。
そう自分を律したジェラルドだったが、翌日、登校した彼の耳に教室から聞こえてきたのはあの少女の声だった。
「とてもお優しい方だと思いましたが」
ジェラルドの胸が震えた。
「殿下も含めた皆様と仲良くしたいと思っております」
仲良くしたい、なんて、女の子から言われたのは本当に初めてで、そう言ってくれる彼女にどんな態度をとればいいかジェラルドにはわからなかった。
昨日に引き続き、ジェラルドをみつめて微笑んでくれる彼女に感情が揺さぶられて、きつい言い方をしてしまった。
それでもめげずに触れてくる少女に、ジェラルドは確信した。
(天使だ……っ!)
心優しき天使が、「触らせてくれ」と要求してくる。
天使の願いは何でも叶えてやりたいが、自分などに触れて天使が汚れてしまわないだろうか。
「天使が可愛い……っ」
「ジェラルド。俺の背中にくっついたまま喋るな」
オスカーが呆れたように言った。
天使の実在に感涙する皇太子と、触らせてくれと熱心に主張する伯爵令嬢の間に挟まれたオスカーは、どうしたらこの事態が収まるのだろうと虚ろな目で考えた。
「ジェラルド。クーヴィット伯爵令嬢が何を考えているかは後で探るとしよう。今はとりあえず握手でもしておけ」
「ああああ握手!?無理だ無理無理無理!!」
「握手!いいですね!やりましょう!」
ジェラルドはぶんぶん首を振るが、聞きつけたリートは意気揚々と手を差し出してくる。
「さあ!ぎゅっと!遠慮はいりません!」
「むっ、無理だ……」
伯爵令嬢に握手を求められて、皇太子が涙目になっている。
「握手しましょう!ほら、怖くないですよ?」
「ひぃっ!ち、近寄るなぁっ」
伯爵令嬢に顔を覗き込まれそうになって、皇太子が逃げまどう。
「ほらほら、ぱっと握ってさっとやっちゃいましょう」
「簡単に言うなぁぁっ!」
伯爵令嬢に追いつめられた皇太子は、混乱の極みで思わずこう叫んだ。
「それ以上近寄ったら後悔させるぞ!今すぐ俺から離れないと……俺と婚約させるからなっ!!」
それは、女の子は自分が話しかけただけで嫌がると知っている男の、最大限の脅し文句だった。
だが、目の前にいるのは、ジェラルドに触れることを厭わない変わり者の少女だった。
「望むところです!!婚約しましょうっ!!」
何の迷いもなく皇太子との婚約を受け入れるその声は、教室中にはっきりと響き渡った。
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