見知らぬ知人

井上 咲(いのうえ さき:仮名)さんという女性の体験談。


----------


 1年半ほど前。日付が変わりそうな時間に、井上さんは会社から帰宅していた。


 この日は夜まで会議が重なり、進めたかった作業ができず、いつもより残業時間が伸びてしまった。


 電車を乗り継ぎ、最寄駅を降りる。駅から家までは徒歩10分ほど。夜も深いため、歩いている人は全くいない。何百回と歩き慣れているいつもの道だが、この日は不気味に感じた。


 家まで半分くらいの場所に差しかかったところで、白髪混じりの小太りな男性に話しかけられた。年齢は50代くらい、少し色黒で赤いポロシャツ、白っぽいチノパンを履いて黒いリュックサックを背負っている。


『あのすみませんこの辺に井上さんのポスターが貼ってあるって聞いたんですけど知りませんか』


 井上とは自分の名前だ。しかし、ただの会社員である自分のポスターなんて存在するはずがない。


芸能人のことを言っているのかとも思ったが、井上という名字の人はたくさんいる。


 意味不明な質問をされたことで男性に対する不信感が強まり、「関わらない方がいいかもしれない」と井上さんは思った。


「知りません。」


と一蹴。男性を横切るようにして再び家路についたが、男性は並走しながらいろいろと話しかけてきた。


『この道よく通ってますよね』


『今日はいつもより遅いですけど仕事忙しいんですか』


『食事はどうしますかいつものコンビニで買うんですか』


 男性に見覚えなはなかった。完全に赤の他人。しかし男性は、井上さんのことを詳しく知っている様子。


 自分に対する知識の深さから、「もしかしたら以前会った人かもしれない」と思い始めた井上さん。確かに人の顔を覚えるのはあまり得意な方ではない。もし顔見知りだとしたら、少し冷たい対応を取ってしまった、と不安になった。


「失礼ですが、どこかでお会いしましたっけ?」


 男性に質問してみた。


『え…ええ…会ったこと…ありますよ…ありますあります…』


 男性は突然しどろもどろになった。何かを隠している、というより何かを誤魔化そうとしている。


 その証拠に、男性はいつどこで井上さんと会ったのか一向に話そうとしない。井上さんは男性が自分のことを一方的に知っているのだと確信した。


 ストーカーかもしれない。井上さんは怖くなり、男性に背を向けて走り出した。静かな夜の住宅街に、ハイヒールの音が響く。


 数百メートルほど走り、横断歩道を渡ったところで振り向いた。男性の姿はない。


 井上さんのスマホが鳴った。知らない番号からの着信。恐る恐る出てみる。


『どこ行っちゃったんですか』


『今から向かいますので場所を教えてください』


 さっきの男性の声が聞こえた。井上さんの恐怖心は頂点に達した。


「何で電話番号まで知ってるんですか?ふざけるな!警察に通報するからな!」


 井上さんはスマホに向かって怒鳴りつけた。


『見つけた』


 男性は一言だけ発し、電話を切った。


 直後、井上さんは背後に何かの気配を感じて振り向いた。さっきの男性が立っていた。井上さんは首を絞められ、仰向けに押し倒された。


『静かにしろ叫んだら殺すお前が悪いんだ私をまともに扱わないから』


 呼吸ができない。前かがみになり自分に向かって言葉を発する男性の顔が、だんだんぼやけていく。唾液なのか血液なのか、液体で口の中が満たされていく。


 意識が薄れていく中、井上さんは男性の腹部を2~3回蹴り上げた。男性が怯んだところを逃がれ、走りながら大声で助けを呼んだ。


 近くを通りかかった若い男性が井上さんを発見。すぐに警察を呼んでくれた。


 数分後にパトカーがやってきた。警察とともに井上さんが首を絞められた場所まで戻ったが、男性はすでに姿をくらましていた。


 井上さんはすぐに男性の電話番号を着信拒否に設定。翌日には実家に戻り、すぐに引っ越しの準備を始めた。


 警察から「男性を捕まえた」という報告は未だに入っていない、と語ってくれた。


※ご本人や関係者に配慮し、内容を一部変更しています。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る