第2話 過去と未来の狭間で

 君子は安くして危うきを忘れず、治にして乱を忘れず、なんて言葉はあるが、私を取り巻く環境を鑑みるに綺麗さっぱり忘れ去り、平和呆けも極まった終なる混沌へと世界は向かっている。暴力、暴言はおろか、体罰、失言すら過剰に取り締まる異常な閉塞感が、遮光シートのように社会全体を覆ている。私はもう、息がつまりそうだ。戦争が齎す害があるように、平和が齎す害もある。人は刺激が欲しいのだ。世界でも類をみない日和見主義の日本においてさえ、毎日が同じであっては苦痛を感じる。だが、大き過ぎる刺激は求めていない。人々が求めているのは、もっと小さな種火なのだ。

匿名の陰に隠れると、戦後の陰惨な弱体化教育によって日本人としての精神を失いつつある一国民は、本当に同じ仲間なのかと疑いたくなるほどに残忍かつ傲慢な本性を曝け出す。その姿はもはや、人を慮る余裕も無くした獣に過ぎないと言っても失礼にはあたるまい。私自身が夢想に過ぎて空想科学に逃げ込んだ性質だが、唾棄すべき獣達から誹りを受ける言われはない。今一度鏡を見よ。佞姦邪知なその醜悪な顔を、一方的に攻撃出来る権利を得たと思い上がるその無恥が、如実に顔に現れている。私は恥を知らない獣に堕ちるぐらいなら、恥を耐え忍ぶ人間でありたい。同様に、人間の言葉に感化されこそすれ、獣の鳴き声においそれと屈服する惰弱な精神でもいけない。大人とは何か、私にはまだ答えが出せていないのだが、立身敢然と社会の善悪と真なる意味で擁護し、また戦うものが大人であって欲しいし、私もそういう大人を目指したい。今の大人たちは自己保身ばかりの詭弁家ばかりで、とうの昔に尽きた愛想の他に、今度は何を尽きさせてくれるのか、逆の意味で興味さえ湧く粒選りの大人たちばかりだ。

ソーシャルネットワークが発達した現代においても、テレビや新聞といったマスコミの影響力が大きい一事は、呆れるほどの偏向報道でコロナ騒動を巻き起こし、そして我を失い必要以上に怯える国民を見れば一目瞭然である。

良識ある真実派の学者は登壇せず、国民の不安を煽るような出自の怪しい専門家や、学者気取りの芸能人によって、この国はとてつもないダメージを負った。感染者の増減に一喜一憂するテレビ、それを受けて騒ぎ立てる国民など閉口ものであった。

何かが決定的に違う。思想とか、環境とか、教育とか、それ以前の問題で、もはや生物として違うのではないかと邪推せざるを得ない程に、私と他人の乖離は大きい。本当に同じヒトなのか?

世界が私に投げ掛ける数々の謎。膨大な数の未知に囲まれながら、私は手探りで生きていく。自身の内面にすら疑問を感じる年代だから、世界に疑念を覚えるのも正常であろう。惜しむらくは、私は世界を知りたいのに、世界は私に無関心なのだ。私だけがここにいる。過去、未来の沈思黙考で感じた孤独。今度は現代の尺度でみた場合に、世界からの孤独と疎外感を、私の身体は覚えてしまっている。多感だから?おそらく違う。誰だって、成長期にあれば多感だろう。寧ろ、私なんかは感情の起伏の少ない方だから、これでも社会の隔絶から無用の痛痒を覚えなくてすんでいる。それでいて、私の精神を蝕み続ける、蟠(わだかま)りのような気持ち悪さは一体なんだ?この蟠りの原因は私から始まるのか、それとも外部から齎されるものなのか。解らない。考えれば考える程、私は私自身も、そして世界が解らなくなる。他人は、社会は、世界は私が勝手に感じているような不可解な、それでいて息も詰まる心の重圧を、まるで意にも解さないのだろうか?精神的未熟を理由に、私ばかりがこんなにも苦しいのだろうか。他人は、社会は、世界は、既にこのような些事に煩わされる事無く遥か先を歩み続けているのだろうか。私自身の未熟を全て棚上げした上で言わせて頂くが、少なくとも私と同じ学生身分の年代に、そこまで大きな隔たりがあるようには思われない。だが彼らに同様の苦悩を見る事がないのである。彼ら苦悩なき人々に、私は何か、虚構の世界に生きる、正体不明の異世界人のような気味悪ささえ覚えてしまう。羨望も憐憫も感じない。日々を惰性で生き続ける苦悩なき若者たちを見て、恐ろしい事に私自身も日進思う事が無くなっていくのである。解らないという不可解が、理解しようとする人間的発露をかき消して、無気力な、ともすると彼らと同じ無関心な人間に、気付けば私も同化していく。自身に、世界に、全てにおいて無関心な世界に私自身が、年を重ねるごとに無知なる引力によって引き寄せられるのである。

無知とは恐ろしい。判断の基準を持たない事が、全ての意思決定において理路整然たる道理を失い、頭の凝り固まった年寄りに見られるような、相応に敬われ勘違いする年老いた役職のような、更年期のおばさんに見られるような、子供じみた癇癪を邪気なる日本的風習として蔓延させていく。劣悪なる空気の中で醸成される無知の知たるや、傲慢と偏見と狭量さで成り立っており、人間同士でありながら獣じみた、いいや、獣以下の悪魔なる狡猾さで互いの血を啜りあうのだ。どす黒く、膠(にかわ)のような粘着性で善なる心に纏わりつき、純白なる珠の如き精神を、社会そのものが塗り潰していくのである。皮肉な事に精神の堕落とは、社会によって醸成され、そして生まれ抽出した悪意は次なる世代を、腐敗臭をまき散らしながら蝕み、そしてより頑強な悪意に仕上げてしまうのである。青は藍より出でて藍より青しと言うが、人の心は善悪どちらにも同様の現象が起こりうるのだ。

人の精神は自己超克によってのみ、高貴かつ高尚な克己心を養うものであるが、その成長速度は樹木の生長に似通っており、長大な時間をかけて円熟していくものだ。一方精神の堕落とは除草剤を撒いたり、焼き払ったりする速さで進んでいく事は、ふと世間に眼を向ければ、万の言葉を用いずとも痛感出来るであろう。

私は疲れたのだ。何年も戦い続けた老兵のように、生れ落ちてから今にいたるまで、精神の修養というものに恵まれず、殺伐として無機質な、自己責任という社会のクールな方針に疲れたのだ。協和とかけ離れた同調圧力にも疲れたのだ。近年多く見られる社会契約を超えた、個人間での超法規的理論の振りかざしに、私はとうに辟易している。世界を取り巻く閉塞感に、込み上げるため息が尽きる事はない。

他人も社会も世界も、誰も理解出来ないし、この際にはっきり表明するが興味もない。社会は既に、一人の若者を無気力な堕落に誘ったのだ。その責任を果たすべきである。これは決して逆恨みなどではない。一方的な偏狂を私に押し付けたのだ。その報復を非人道的かつ道義に欠けるなどと誹り糾弾するのは、それこそ不公平であろう。そもそも、巨悪が平気な顔をして横行し、強者の権利で幅をきかせ弱者の弁に聞く耳持たなかったのは、誰あろう今の社会を形成してきた先人たちの暴虐である。私の反逆は、生を勝ち取る若者の産声であり、その行進を邪魔立てする権利は誰にもない。

私は私自身の為に生きる。他の誰でもない、私自身の為に生きるのだ。財源が足りない、老後が心配、将来世代の、孫の世代に不安を残さない為に、臥薪嘗胆で耐え忍びましょう?詭弁を弄すな、そして若者を、国民を、日本人を侮るな。そのようなルサンチマンプロパガンダに騙される世代は徐々に死に絶え、次なる老害世代が社会に蔓延るだろう。その老害の一人が私だ。だが、ただの害で終わる気はない。前時代の悪を更なる害でもって駆逐し、そして叫ぶ言葉に生気を失い弁舌に老獪さが漂い始めたところで、私は次の世代の害によって駆逐されよう。天命に従い生への天寿を全うしたなら本望である。

私の夢は世間に見られる幸福とか、おそらく常識の秤にはのらないのであろう。だがそれも、私自身の無知と極限にまで向かい合い到達した答えなのだ。その答えに、ましてや他人との共依存に失望し孤独を歩んだ私においては、未熟な答えに対する中傷も甘んじて受ける覚悟もある。もはや恐れから生ずる偽りの葛藤に悩む必要はなくなったのだ。

過去は甘く美しい。だがその実態は砂上の楼閣だ。人は経験則から次の行動を最適化していくが、人生はそのような無味乾燥とした作業ではない。だからこそ、理外の行動に熱中もするのだ。趣味などは他人から見ればくだらないものだが、そのくだらなさに価値を見出す事が人間である。全てのくだらなさを取り払えば、そこは空虚な器であり、その肉体は魂の憑代を失った心臓止まぬ生きる屍である。だから過去の類推が大切なのだ。だから歴史が人間の素養を育むのだ。人間は過去を積み重ねる事しか出来ないのだから。過去は何も答えてくれない。それは私が辿った足跡そのもので、時には歴史の波風によって消される事もあるものの、その踏みしめた事実が掻き消える事は未来永劫に渡り無い。私が踏みしめる一足はいつだって現在そのもので、認識する頃には刹那の速さで現実から過去へと変化する。身体は常に現在進行形でも、頭は、精神は常にその一歩後を遅れ来る。だから私は過去の人間なのだろう。私以外の人間も、過去に囚われ、また過去と決別し、また過去から目を背けるのも、自身の空想が常に過去から端を発するからに他ならない。

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