空想科学

@kinnikusizyosyugi29

第1話 過去という名の桃源郷

 いつからだろうか、日々が暗澹たる灰色を帯びたのは。いつからだろうか「生活」そのものへの虚無感に支配されるようになったのは。

 世の中は等と達観して物事を話すつもりはないが、こと私の人生においては、日常という名の監獄が、昼夜怠惰なる折檻でもって心身を打ち据えていくのだ。まるで終わりの見えない人生の糸、これから先何十年と生きなければならないと思うと、私の抑圧された心はすぐにも消耗しきり、将来に対して思いを巡らす事さえも苦痛という形を取りながら表象へと現れる。

 さりとて、今の生活を改善しようなどという活力さえも、とうの昔に失われたのだ。私に出来る、唯一の楽しみ……と呼ぶには余りにも虚しい心の持ちようは、過去の美化のみにある。無論、私の過去に耳目を引くような輝かしい時代などある筈もなく、もしタイムスリップしたとしたら、過去の美しく作り替えた憧憬に対して慄然する、リアルのギャップにただ茫然と立ち尽くすのみなのであろう。過去が美しく、今より楽しく、何なら魂の純朴さという点にさえ高尚さを見出すというのなら、それは人間の持つ記憶の改変か、もしくは忘却の類に過ぎないのである。

 この記憶の改変という一種の自己欺瞞は、意識下、そして無意識化のどちらでも起こる。身の毛もよだつ無限の時間の中で、緩やかに、そして確実に大きなうねりを伴って、世界の趨勢に一個人である私をも目ざとく発見し、強引に引き寄せ捕らえるのである。改変などと言えば個人の問題でしかないように考えがちだが、常に疎外感を感じている私でさえも社会の影響から抜け出し無関係ではいられなかった。社会規模での記憶改変は、都度若者の真水が如き精錬な御魂を、社会の瘴気によって濁していくのだから、この毒気に中てられた私にしても、憤懣遣る方ない衝動に駆られるものである。

一方で人類の偉大なる進化の足跡において、ことに私は忘却の魔性に魅せられているふしがある。忘却とは人類の、とりわけ私のような人間には大なる防衛本能である。生来悲観的な私が、全ての怒り、悲しみにおいて記憶を残し続けているとしたら、その心労たるや思いを馳せる事すら不可能であろう。忘却の彼方にこそ、精神の安寧はあるのではないか。ならば人類が年を経るごとに呆けるというのは、生物としても正しい反応で、その痴呆は憂うどころか賛美するものではないのか。甚だ不本意ではあるが、仮に私を平均寿命まで生き永らえさせるとするならば、呆けの兆候が出来うる限り早く到来する事を願う。日常から、生活から、友人から、家族から、私を取り巻く社会全てから、隔絶されたいのだ。

それが現状の嘘偽らざる本心である。

だが私の人生は誰に頼んだ訳でもないのに勝手に始まり、破滅の終局へと刻一刻、無常なる冷酷さで秒針を進めていくのである。この時の束縛から逃れうる術は、自死しかないのか。だが、自死という人生の幕引きを図るには、私は惰性で生き過ぎた。善悪の話など私には解らない。解らないが、日常への無常観にたいする超克として、即ち自死を選ぶという短絡さは、一時の狂信を蛮勇も勇気と偽るようなもので、深層を冷静に俯瞰しているつもりになっている私が如き人間には、結局のところ自死ですら逃避行にもならない愚なのである。

 だから、私にとって過去は都合の良いユートピアなのだ。私自身の意思によらざる侵害もない潔癖の聖域が、過去である。過去に対する自問自答の、何たる甘美な虚偽の陶酔に酔いしれる事か。若く、エネルギーに溢れ、夢もあった。そんな虚構に自分の原点を再度見出そうと躍起になったところで、得られる答えに一体どれ程の価値があるというのだろうか。いつかまでは、私も「夢中」と言えたものがあるかもしれない。だがそれも、本物の熱に中てられた瞬間に、たちまち雲散霧消して、自身の内に火照っていた熱量が急激に冷却せられ、熱の反動はたちまち羞恥へと変転してしまった。まさに恥の多い人生を歩んできましたという言葉通りの、自信の無さの表れであろう。

 私をこの弱みを、人に掘り起こされるのを極端に嫌い、恐れる。怖いのだ、他人の意見などに興味はないと標榜している仮面を外せば、少年少女のような脆く傷つきやすい、それでいてプライドだけが肥大化した醜悪な精神が白日の下に曝されるなど、私には何よりも耐え難いのだ。

 忍ぶ気持ちを押し隠し、いつかは自身でさえ誤認する程の記憶の改竄を以て、晴れて「過去」は美しい妄想へと昇華する。その世界は自らを欺く巨悪なる虚偽が手ぐすね引いて現代を生きる私に絡みつき、甘言を弄して更なる堕落へと誘うのである。

 あぁ私自身よ、何処へ行かんと欲するのか。未来から目を背け、今を逡巡し、過去の妄執に謀られ、一体私に何が残るのだろうか。自問自答を許さぬ寒冷の世、吹き付ける極寒に際して、人は大人に成れと言う。大人とは「公」の為に「私」を滅する者を指すのか。大人になろうと背伸びをして、見てくればかりを追従し、その稀有なる純朴の精神を、自ら火へくべようとする若者を見よ。歪なる目を嘲笑されようとも、童心にて感じた社会への不義なる観察を忘れるなかれ、その目に移した大人たちは誰一人として笑っていないではないか。笑えぬ大人たちを見て、私は彼らを大人とは思えない。親に叱られ気持ちの行き場を無くした、哀れなる子よ。我慢させる無理強いを忍耐強さと呼ぶ欺瞞を、私はどうしても好きになれない。未熟なのだろうか。社会は私を未熟と呼ぶのだろう。未熟で結構と居直れば、向上心のない奴と言われるだろう。見くびられることは恐ろしい。軽侮の目を向けられたなら、果たして私は周囲が望む大人の虚像に「私」を押し殺してまで迎合出来るのだろうか。出来ないから、こうして社会不適合者の烙印を受けつつ、皮肉をまき散らしているのだ。

「私」を摩耗し「公」と偽る自身取り巻く周囲の「私」を満足させる事に、いったいどれ程の価値が、そしてどれ程の見返りがあるというのだろうか。見返りを求め行動する事が卑しい、などという旧態依然とした精神に若者の気持ちが毒されてはならぬ。過去はすぐに濁る、溜まり水のような性質を持つ。その水場で過ごす者にとっては水質の変化など機敏に感じうるものでない。困るのは、後から放流されし稚魚にとって、その水は澱み腐り、異臭をまき散らしながら、それでいて既にいる魚にとってはそれが正常なのだと恐喝紛いの強制を強いられる点である。もはや大人と呼ばれる者たちは、若人の妨げにしかならぬ害を自覚せねばなるまい。

過去への逃避行は未来への根拠なき夢想と同義である。どちらの時間軸に思いを馳せても、見えてくるは濁り水。まして未来など不明瞭であるから、こと更に不可解な謎だけを残し、そして私を置いて未来は未来へ、追いかける私はアキレスと亀の要領で、いつまで経っても過去から脱せず、未来に届く事もない。

だから迷うのだ。だから過去は居心地が良いのだ。未来はいつだってつれない態度で私を見るだけで、焚きつける事はあっても一緒に踊る事はない高嶺の花。思春期の青春を、思わず重ねかねない危うささえ、過去と未来という耽美な響きに聴きとれるのである。

そして過去と未来だけがひと際輝きだし、その恒星が如き明るさに挟まれる事で、今がより一層の悲哀を帯びていく。日射しに浮かび上がる影ならばまだ立つ瀬もあるが、あいにく私には影すら許されないのか、強烈な光に幻影さえ落とし込めない無力な黒子となる。

本来であれば前も後ろも、上も下も、縦も横も、可視化しやすいだけで時間の性質とは関係ないのだろうが、私はどうにも時間の檻に囚われてその獄から抜け出す術を持たないのである。従って私は自身の意味を、過去に、そして未来に繋ぎたがるのである。その行為がいかに浅薄なものか、今更立証するまでもない。

その癖、お利巧だと自身を騙す私は今でも他所に意味を、価値を求めているのだから、滑稽ここに極まれりと言ったところだ。

だが、もし私が現状から一歩でも踏み出すとしたら、それは過去にも未来にも答えがない。滑稽だと冷笑されるのも厭わない、過去との決別においてのみ、未来と過去の妄執ともよぶべき二重螺旋から抜け出せるのだ。

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