第2話 空虚に没する自己中男

 酷い裏切りに会う。その逆境から不撓不屈の精神で立ち上がり、不死鳥が如く勇躍して正義を示す。

そんな物語は、あくまで物語の中だけの話であって、現実世界で四苦八苦し日々の生活すらままならない俺には委細関係ない。

友人の保証人になったのが、人生の運の尽き。よくある話だろ?ドラマかよと錯覚したくなるが、これがドラマならどれほど良いか。


 残念ながら、現実だ。


人を訝るなんて、自身の性根に卑しいものがあるからだ!なんて豪放磊落な性格を演じてみたいが、演じたところでこの有様なら余計に惨め。

つまるところ、俺に人を見る目がなかった、それだけなんだ。


 親戚一同も俺を邪見にするだろう。馬鹿に騙された、ろくでもない一文無し。家族だって年金ぐらしの母が一人。とても俺の窮状を打ち明ける事は出来ない。

母は年を経てから俺を生んだ。未熟児として生まれた俺は、ずっと母の心配と二人三脚で生きてきた。

大学までは行けなかったけれど、高校を出てから機械工の仕事に就き、出世コースとかには縁ない傍らで、人並みに立身し母も喜んでくれた。

そんな日々を細々と、それでも不自由なく生活出来るうちは幸せだった。身の程に合う生活だった。


 中学の友人から連絡が来るまでは。


 彼はプライドが高く、負けず嫌いで、とにかく人と張り合う男だった。敵も多かったが、その愚直な性格から友人も少なからずいた。

そのうちの一人が俺だった。

そんな男が平身低頭、俺に頭を下げ保証人になってくれとせがんできた。男にとって、仲の良い男が頭を下げる光景ほど、堪えないものはない。彼に対する同情が、俺を破滅へ導く一手となった。


 ……もう、いいだろう。


 紆余曲折を経て、俺は全てを失った。友達も、金も、親族も。残っているのは虚無感だけだ。

これがドラマなら、復讐鬼となって、怨嗟の炎を燻り燃やしもするのだろうが、残念ながら俺には復讐する度胸もないらしい。

人間不信に陥った俺の心は、世界に対してすっかり委縮してしまい、ただただ自己嫌悪するしか仕様のない意気地なしへと変貌してしまったのだ。

無気力とは、こういう状態をいうのだな。

自殺をする気力も起きない。

心の周りに大きな城壁が築かれて、外部に大きな堀を隔てる。

世界に対して籠城する、孤立無援の裸の王様。


 もう、どうにでもなってくれ。


そんな投げやりさで露頭をさまよい、さりとて行く当てもなく、茫然と立ち尽くすしかなかった俺の前に――少女は飄々と現れたんだ。

何故、俺に近寄ってくるのだろうか。騙されたばかりの俺には、人を信じる事が出来なかった。

されど、彼女の世間を知らな過ぎる無垢な表情には、好奇心の色しか湧いていないように見えた。


 どちらにせよ、俺はこんな少女に心配される顔をしていたようだ。

少女の好意は、俺には眩しすぎた。少女の気持ちが純朴である程、卑屈に捻じ曲がった矮小さが強調されるような気がして、少女は俺にとって薬どころか劇薬であった。

すっかり無視を決め込む俺に、少女は更に声をかけ続けた。無気力下で受ける人の好意ほど鬱陶しいものはない。

それが少女の優しい気持ちから発したものであれ――いいや、その気持ちが若く美しく純粋である程、俺の気持ちは強い拒絶反応を起こす。

俺の反応が、彼女の好意を無碍にしている。少女の言葉にも、一切の理解を拒絶する俺の態度に反応して、毒が混じり始める。なぜ俺は少女に心配され、そして叱られているのだろうか?


 空虚な、がらんどうの俺の心に木霊(こだま)するその響きが、とにかく不快だった。

例えようもない虚しさと、言いようのない怒りが、何もない筈だった心に一気に噴き出し、激しい怒号となって無垢なる少女を罵倒した。

解っている、こんな怒りに意味はない。

俺の未熟さを指摘されて、言い返す言葉もなく、癇癪を起して騒ぎ散らす俺の声は、ただただ外部に助けを求める赤子の泣き声と一緒で、全てを吐き捨てた俺の前には……俺の為に心を痛めてくれた少女の、今にも泣きそうな顔だけが残されていた。


 すまなかった、と謝る余裕すらなかった。全てを吐き出した後の俺は、あろうことか暗鬱とした心の靄が晴れていたのだ。

その気持ちは、少女が与えてくれたものだというのに、感謝の言葉すら告げない程に、俺の心は屈折し自己中になっていた。


与えられるばかりの子供。それは少女でなく、俺だった。


大人として過ごしてから、俺の心は何処にあった?自分の為、親の為、職場の人たちの為、偽り続ける俺の心は一体全体何処に行った?

社会にくたびれ擦り切れた大人としての心は、この少女を前にして始めて童心と共に還って来たようだ。


 岩石みたいに強張り緊張していた表情から、少しは険がとれたようで、釣られ笑う少女の笑みに、壊れた心はかなり助けられている。

更に少女は、すっかり冷え込んでいる外気を気にしてか温かいカフェオレを買ってきてくれた。俺はこの温かさを覚えていたい。

手の中でまどろむ温さを感じながら、同じように手の中でブラックコーヒーを握る少女を見た。


俺にはもう、行く当てもない。


 この温かいひと時も、じきに終わる。神様が――いいや、ここは素直に、少女が与えてくれた最後の安らぎに感謝しよう。

そう思って席を立つと、少女は無言で手を握ると、凄い速さでズンズン歩き出した。引っ張られるだけの俺はただ困惑、少女の思惑は解らない。


 五分も歩かない距離だった。停めてある車の前で立つ初老の小奇麗な男性が、ドアを開けると恭(うやうや)しく頭を下げた。

なんだ、これは。いったいこの老人は、そして少女は、いったい何なんだ。逡巡する俺に業を煮やしたのか、少女はグイグイ押し込んできた。

流石に躊躇ったが、もはやどこに行く当てもない根無し草。

なかば自棄の精神で、指示されるまま車に乗った。


 車の中は静寂に包まれていた。先ほどまで小うるさかった少女もすっかり黙ってしまい、車内は音楽だけが静かに鳴るだけで、始終無言だった。

この車の行き先は何処なんだろうか。既に都心から離れ、寒天の夜空に星々が煌めき始めるのを見ると、随分郊外まで来ているらしい。


 車はそれでも足を止めない。


周囲は鬱蒼とした森だけになってしまい、地図も無しにこんなところへ迷い込んだら、すぐさま遭難しそうな場所である。まさか、こんなところに俺を置き去りにしたりしないだろうな、などと物騒な疑念が心奥底で沸々と湧き出したところで、車は目的地へと着いた。


 少女の家……その外観は西洋風の古城といったところで、それでいて些かの華やかさも感じないのは、住まう人間のいない廃墟然とした、生命の喪失感を如実に感じるせいであろう。


 いったい、少女は何の目的で俺をここに連れてきたのか。真意の程は解らないが、俺の心は一度少女に助けられている。

空っぽの俺に返せるものなんか無いかもしれないが、少女が俺を呼ぶのなら、臆する事無く俺は行こう。


俺の心は一度死に、そして少女によって生き返らせてもらったのだから。

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