第15話 保健室の先生



 

 小さくノックすると、小太りで丸顔の保健の先生がにこにこして開けてくれた。


「5年3組の井上さんね。小泉先生から連絡がありましたよ。体育で転んで消毒に来たと思ったら、今日はこれで二度目ね。よくよく縁があるみたいね、保健室と、このわたしに。ほほほほ、そんな顔していないで、さあ、なかへお入りなさい」


 胸のあたりで白衣のボタンが弾けとびそうな保健の先生は、藍子の肩をそうっと抱くようにしてカーテンが張り巡らされたベッドまで連れて行くと、替えの下着を出してくれた。とうさんのクリニックと同じ匂いが藍子を悲しい気持ちにさせる。


「あのね、ぜーんぜん、気にしなくていいのよ。生き物として当たり前の循環なんだし、よくあることなんだからね。胸を張って堂々としていらっしゃい、堂々と」


 藍子がのろのろ着替えているあいだにも、にぎやかなおしゃべりはつづいた。


「じつはね、先生もあなたぐらいのころに、おしっこを漏らしちゃったことがあるのよ。あのね、こう見えてわたし、とても内気な子どもでね、担任の先生にトイレに行きたいって言い出せなかったのね。あなたもきっとそうよね? それがいまはこんなに厚かましいオバサンになっちゃったなんて、自分でも信じられないわよ」


 ――もう教室へ帰れない……。


 絶望していた藍子の気持ちは、ほんのちょっとだけ楽になった。


「よおし、着替えたわね。さあ、正々堂々と教室へお帰りなさい。もしもよ、もしもだれかになにか言われたら『あんただっておしっこするでしょ?』って言い返してやりなさい。大丈夫、あなたには保健の先生がついているんだから。でしょ?」


 快活な保健の先生の絶賛応援に励まされ、藍子はほんの少しだけ勇気が出たような気がしたが、ことはそんなに簡単でないことは当の本人が一番よく知っている。


 重い足を一歩一歩引きずるようにして、トイレの横の渡り廊下を歩いて行く。

 

 ――どきん、どきん。

 

 自分の心臓の音が聞こえて来そうだ。


 ノロノロすり足を運んだのに、とうとう5年3組に着いてしまった。

 うしろのドアのノブに手を置いてみたが、どうしても力が入らない。

 譲治や裕也の声が聞こえて来たので、藍子はぱっとドアから離れた。


 そのとき、とつぜん前のドアが開き、朝子先生が丸い顔をのぞかせた。

「あら、お帰りなさい。さあ、教室へ入って、自分の席におつきなさい」


 ためらっていると、今度はうしろのドアから春花が手招きしてくれた。

 春花はやさしく藍子の背中を押しながら、席まで連れて行ってくれた。


 されるがままになった藍子は、ロボットのようにぎくしゃく歩いて行く。


 ひそひそ陰口を言う女子の声も、どんな情けない顔をしているのか見てやろうとわざわざ覗きに来る無神経な男子の視線も、いまの藍子の心にはなにも届かない。ひたすら不安に怯え、雲の上を歩くように、ふわふわ床を踏んでいるだけだった。

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