なんだか違うの
「……どこからどこまで?」
「この入り江になっている部分、全部ですわ」
「計り知れない……」
さっき別荘に到着して執事とメイドの出迎えに驚いたばかりだと言うのに、今度は広大なリゾートビーチの偉容に圧倒され、涼はもはや言葉も出なかった。隣には、水着の上にパーカーを羽織った格好のかなみが居た。無論、可愛いセパレート水着に着替えたイリサも傍に居た。イリサは水に浮かないので、しっかり浮輪を装備していた。
「お兄ちゃん、うみ、うみ……」
「あ、あぁ、そうだな……驚いてばかりじゃ勿体無いや。遊ぼうか!」
「そうですわね。じゃ、私も……」
そう言って、かなみも羽織っていたパーカーを脱いで、水着姿になった。内気な彼女が選んだにしては、表面積の小さいビキニであった。颯爽としているように見えるが、その頬は紅潮していた。
「…………」
「や、やだ、涼さん……そんなに見られたら、水着に穴があいてしまいますわ」
「あ、ご、ゴメン!」
かなみからの指摘でハッと我に返った涼は、慌てて目を逸らした。彼は水着姿になった彼女を『可愛いな……』と思いながら、ジッと見詰めてしまっていたのである。
(お、おかしいな? こういう場面だと、女の子の方を見ることも出来なかったのに……)
と、涼は自分の心情に僅かずつではあるが変化が現われている事に気付き、驚いていた。対して、かなみは涼が女性恐怖症である事など知らないため、彼がただ自分を見詰めているだけにしか見えなかったようで、その視線に照れていた。
「よ、よし……イリサ、泳ぐ前には準備体操をしなきゃいけないんだぞ。イチ、ニ! イチ、ニ!」
「クス……涼さん、何を緊張してるんですの?」
「な、何言ってんの。俺は緊張なんかしてにゃい……あ、あれ?」
「クスクス……」
さっきまでは、緊張していたのはむしろ彼女の方だったのに、水着姿になった時点から立場が逆転してしまっていた。そんな二人の様子を、イリサは少しムッとした風な表情で見ていた。訳はわからないが、何か面白くないらしい。
「お兄ちゃん、うみ……」
「あ、あぁ、ゴメン。よし、泳ごうかイリサ!」
「うん」
イリサに催促されて、涼は漸く波打ち際へ向かった。半歩遅れて、かなみもついて来ていた。内海で波も少ない入り江になっている上に、真っ白くサラサラの砂浜。もはや、その辺の海水浴場では泳げないな……と、彼はそう思っていた。
「どうだいイリサ」
「足がつかない。イリサ、浮かんでる……ふわふわ……」
「そうですわ、イリサちゃん。これが海ですの。気持ちいいでしょう?」
「ふしぎ……」
初めての感触に戸惑いながらも、ドキドキ・ワクワクとして、体の奥底から喜びが湧き出してくるような感動を覚えながら、イリサはこれまでで最高と言って差し支えないほどの、眩しい笑みを浮かべていた。
「おもしろい……たのしい……これが、たのしいっていうのね……うふふふ……」
「おおっ! イリサが笑った!」
「ホント、初めてですわ!」
「だって、とってもたのしいの……こんなの初めて……」
心底から楽しんでいるイリサを見て、涼たちも負けずに楽しもうと、潜ったり泳いだりして、思い思いに身体を動かした。
「ぷぁっ……かなみちゃん、凄いね! 俺も高校の頃は結構ならしたもんだけど、その上を行く感じだ」
「ふぅっ……私、こう見えて運動は得意ですのよ、涼さん」
と、先程のイリサにも負けないほどの笑顔を見せるかなみに、またも涼の心は踊った。
(俺、楽しめてるよな。水着の……しかもこんなに可愛い女の子を目の前にしても、怖がってない。楽しめてる!)
イリサは浮輪での浮遊感に酔いしれてウットリしているし、涼もかなみも、まだ体力には余裕があった。ここで彼は、よし! とばかりに、かなみに誘いを掛けた。
「かなみちゃん、あのブイまで競争してみない?」
「ウフフ……受けて立ちますわ」
およそ50メートルほど先に見えるブイを目標に、涼たちは泳ぎだした。と、その時、突然二人が自分の居る位置から離れていってしまった事に気づいたイリサは慌てた。何とか二人を追いかけようと、浮輪をつけたままでジタバタともがき始めたのだ。しかし、勢い余って浮輪を軸にしてクルリと回転してしまい、足を上にした状態で、スポンと身体が浮輪から抜けてしまった。浮力を持たないイリサの身体は、そのまま海底へと沈んでいった。
「プーッ! ちぇっ、負けちゃったか」
「でも、タッチの差でしたわ。涼さんも、かなり速いですわね」
「アハハ……じゃ、今度はノンビリ泳いで、イリサのところに帰ろうか」
「そうですわね……あら? イリサちゃん……」
ここで初めて、二人はイリサの姿が無い事に気づいた。
「え? イリサ……どこだ!?」
「まさか、沖に流され……あ! 涼さん、あれ! 浮輪だけが浮かんでますわ!!」
「な……!? イリサ!!」
二人は浮輪のある位置まで泳ぎ、そこから潜水してイリサの姿を探した。すると、彼女は海底を、まるで散歩でもするかの様にウロウロと歩いているではないか。
(……そうだ。イリサは浮かないけど、潜っても問題ないんだった。でも、あれじゃどっちが岸だか分からないだろうな)
涼はまず、イリサのところまで潜り、彼女を抱えて浮上しようと試みた。だが、浮力が全く無い身体は、びくとも動かない。そのうちに息がもたなくなり、彼はイリサの体を離して一度浮上した。
「ぷぁっ! ハァ、ハァ、ハァ……ダメだ、全然上がらない」
「二人がかりでも同じ事でしょうね……仕方がありません、イリサちゃんに方向だけ指示しましょう」
「それしかないね。じゃ、もう一度行ってくる。かなみちゃん、先に戻ってて」
「分かりましたわ」
涼は再び潜水を開始した。イリサのいる所まで戻って、岸の方角を指差し、歩いて戻ってくるようジェスチャーした。そして彼女が頷いたのを確認してから海面に浮上し、時々海底の様子を窺いながら、自分も岸に向かって泳ぎだした。
「涼さん、大丈夫ですか?」
「ハァ、ハァ、ハァ……うん、大丈夫。イリサももうすぐ……ほら、頭が見えた!」
髪の毛、そして額、顔と……徐々にイリサの姿が海面に見えて来た。自分が海底に沈んだという自覚はあるのか無いのか、彼女はキョトンとしたままだ。
「イリサ、どうしたんだ? 浮輪が外れちゃったのか?」
「お兄ちゃんと、かなみお姉ちゃん……二人だけで行っちゃった。イリサ、寂しかったから、追いかけようとしたの……」
「なるほど、そしたらバランス崩して、ひっくり返ったと……そういう訳だね?」
「ごめんなさい、イリサちゃん。私達も楽しくて、はしゃいでしまいましたわ」
「大丈夫なの……」
と答えたものの、イリサの表情は曇ったままだ。置いていかれた、というショックが大きかったのだろう。
「とにかく、一度上がって休憩しよう」
「賛成。そろそろ、お腹もすきましたわ」
気がつけば、時刻は午後三時。朝から車で移動をして、到着してから食事を後回しにして泳ぎに来ていたので、腹が減るのも当然であった。プライベートビーチゆえ、無論『海の家』などというものは存在しない。が、その代わりに……
「かなみです。ビーチにお食事の支度、お願いしますわ」
「ここで食べるの?」
「ウフフ……このまま野外パーティーというのも、良いかと思いまして」
「何をするのかな……バーベキューのセットでも、出てくるのかな?」
涼は思わず、庶民派の発言をしてしまった。だが、出てきたものは、彼の予想の遥か上を行っていた。なんと、簡易式の調理台に料理人まで付いて来て、更にテーブルまで用意されたのである。料理も、シーフードをふんだんに使ったグリルメニュー。彼は思わず唖然としてしまった。
「イリサちゃんには、パスタを用意しましたわ。召し上がれ」
「いただきます」
「すっごいな……レストランでも、こんなの食った事ないぜ?」
「お楽しみいただければ、いいのですが」
お楽しみいただく、どころの話では無い。涼は、こんな贅沢なリゾートは見た事が無かった。イリサも、シェフが作るパスタを美味しそうに食べていた。
「食べ終わったら、シャワー浴びて着替えようか。今日はもう、泳ぎはいいや。運転疲れも心配だし」
「そうですわね。では、夕焼けを見ながらのクルージングは如何です?」
「クルーザーまで……いやはや、恐れ入ったよ」
「ウフフ……」
心の底から感服し、驚きながらも喜びの声を上げる涼を見て、かなみはすっかりご機嫌だった。イリサの方も、初めての海で泳ぎ、海底散歩まで楽しむという体験をして、上機嫌なようだ。ただ、彼女が涼を見る視線に、些か変化が現われているのを、かなみは見逃さなかった。
(イリサちゃん、もしかして……いや、きっと考え過ぎですわね……)
だが、後に驚くべき告白がイリサから為される事を、彼女はまだ知らなかった。
* * *
ベッドに寝転がりながら、涼はふぅっ、と一息ついた。
「しかし、想像以上に凄いな。夕焼けを眺めながらクルージングなんて、一生体験できないかと思ってたよ」
クルージングの後は、これまた豪華なディナーが彼らを待っており、まさに彼の想像の遥か上を行く水準の体験となったのである。泳いだ後は、浜辺で花火大会だ……なんて言い出さなくて本当に良かったなと、彼は内心で冷や汗をかいていた。そもそも、あんな綺麗な砂浜を花火の燃えカスで汚してしまう訳にも行かないだろう。
「持ってきた花火は、あとでアパートの前で楽しもう……それにしても、一人きりになるのも、なんだか久し振りだな」
そういえば、イリサが家に来てから、一人きりになったことは無かったなぁ……と、涼は改めて思った。それまでは、入沙亡き後の寂しさを、一人で噛み締めていた……そんな日々が嘘のようである。ちなみにイリサは、いつもならば涼と隣り合わせで寝ているのだが、旅行中はかなみと一緒に寝る事になっているので、この部屋には居ない。
(……帰ったら、入沙の墓参りに行こう……)
そんな事を考えながら、涼はいつの間にか眠りについていた。朝から運転や水泳をこなした疲れが、一気に襲ってきたのである。
一方その頃、イリサはかなみに髪を梳いてもらいながら、今日一日の感想を素直に述べていた。
「とっても楽しかったの……海もお船も夕焼けも、みんなキレイだったの。あしたも、海で遊ぶの?」
「そうですわ。楽しみにしていて下さいね」
「うん!」
生まれたばかりの頃の、抑揚のない返事では無い。キチンと感情の篭った、本当に嬉しそうな返事だった。それだけに、その次にイリサの口から出た言葉は、かなみの耳にはショックに響いた。
「お姉ちゃん……お兄ちゃんが好き? やっぱり、ケッコンしたいの?」
「え!? ……やだ、イリサちゃんたら、こんな時に」
「イリサも、お兄ちゃんが好き……イリサはお兄ちゃんの『妹』だから、好きなんだと思ってた。でも、なんだか違うの」
「……イリサちゃん?」
唐突に紡がれたその言葉は、徐々に熱を帯びて……かなみの胸に突き刺さっていった。
「お兄ちゃんがお姉ちゃんとケッコンしちゃったら、イリサはお兄ちゃんと、ケッコンできないのかな……」
「……!!」
海岸で食事をしている時から、かなみの胸にモヤモヤと浮かび上がっていた微かな不安は、今、明確な形を持ってその姿を現した。目の前にいる彼女は、確実に、涼に恋愛感情を抱いている……それがハッキリと分かってしまったのだ。
(イリサちゃん、やはり貴女……涼さんを『男性として』好きになっていたんですのね)
その予想は、温厚かつ冷静なかなみを、一気に焦燥の渦へと叩き落していた。イリサの髪を梳く櫛を持つ手が、微かに震えた。
「……お姉ちゃん、どうしたの?」
「え? あ、ううん……何でもありませんわ。私も、少し疲れたのかしら」
誤魔化しの一言を紡いで、焦る内心を隠しながら、かなみはスッと立ち上がった。
「はい、終わりましたわ。海で泳いだ後だから、良くお手入れしませんと……ね」
「ありがとう、お姉ちゃん」
かなみは、その言葉を聞いてニッコリ微笑むと、今度は自分の髪を櫛で梳き始めた。しかし、その意識は既にそこにはなく、壁の向こう側で寝息を立てる彼――涼の元へと馳せられていたのである。そしてその想いはやがて、彼女に凄まじい行動力をもたらすのであった。
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