さぁ、出発!

「おはようございます」

「おはよう、かなみちゃん。3日間、よろしくね」

「うみ、うみ……楽しみなの」

「うふふ……任せてくださいませ。お父様の私有地ですから、心ゆくまで羽を伸ばせますわ」

 静かな入り江の海岸沿いに、プライベートビーチと別荘を持っている、かなみの父。今日から3日間、そこを貸し切りにしてくれるというのだ。しかも、別荘には住み込みの執事やメイドも居るという。至れり尽くせり、庶民代表の涼としては驚くばかりだった。

「じゃ、謹んで運転手を務めさせていただきます」

「クス……よろしくお願いいたします。住所はこちらですので」

「了解!」

 と、涼は別荘の住所が書かれたメモを受け取り、レンタカーのナビゲーションシステムに入力していった。パッとルートガイドが表示され、出発準備は整った。最初は、かなみの方で運転手と車を用意すると申し出て来たのだが、タダで宿と食事と、私有地の海を提供されておいて、行き帰りの足まで出してもらっては申し訳なさ過ぎるからと、丁重に断ったのだった。

「よし、出発するよー……って、イリサ、シートベルトはこうやって締めるんだ……そうそう」

 イリサにとっては、初の乗車体験なのだ。まごつくのも無理はない。そうして漸く後部座席に座った彼女の瞳は、キラキラと輝いていた。

「じゃ、今度こそ……出発!」

「はーい!」

 今日は心なしか、かなみもその言動がウキウキと弾んでいるようだった。彼女たちを見ていると、自分も釣られて嬉しくなり、女性恐怖症の事も忘れてしまうな……と、涼は密かに思っていた。

「でもさ、かなみちゃん? 俺も一応、男なんだけど……良くお父さんが許してくれたね?」

「うふふ……お父様は厳しい方ですが、お母様が私の味方ですの。お父様は、お母様に頭が上がらないんですのよ」

「大富豪、実はカカア天下……か」

「それに、涼さんは……私にとっては恩人ですから」

 その言葉を聞いて、涼はハッと、ある事を思い出した。かなみと初めて会った日に、何故か彼女が以前から自分を知っているような素振りを見せた事である。

「かなみちゃん、俺の事を、ずっと前から知ってたの?」

「ええ。覚えてませんか? 5年前……まだ私が中学校に上がったばかりの頃の話なのですが」

「5年前? 俺、その頃は高校生で、電車通いを……あ! もしかして!?」

「思い出されましたか? 私、マスクと眼鏡で顔を隠した男性に、恥ずかしい事をされそうになって……」

 その時の事を思い出したのか、かなみの頬が赤く染まった。

「そういえば俺、痴漢をぶん殴って、駅員に突き出した事があったな……って、じゃあ、もしかして……あの時の女の子が、かなみちゃん!?」

「ハイ……」

「凄いな、なんて偶然だ。っていうか、あんな場面でチラッと見た男の顔なんか、良く覚えていたね?」

「だって涼さん、あの時と少しも変わっていないんですもの。それに、駅員さんに事情を説明されている時に、名前も……」

「そ、そうだったかな……」

 意外な場面で既に彼女と出会っていたと知らされ、涼は驚いていた。

「いや、俺は気がつかなかったよ。だって、かなみちゃん……あの時とは見違えるほど……あ、コホン」

「……いやですわ、恥ずかしい」

「ご、ゴメン」

 かなみと再会した時、最初に涼の視線に入ったのが胸だったのだから……そこが印象に残ったとしても、無理は無い。それに、当時の彼女は幼児体型で、胸など無いに等しい感じだったのだ。つまり、あの頃とは印象がまるで違っていたので、言われるまで両者を関連付ける事が出来なかった……と、こういう訳である。

「でも、イリサがあの悪戯をしなかったら、再会は無かった訳で……本当に面白いね、人の縁って」

「クス……そうですわね。見られたのが涼さんで、良かったですわ」

「……それって、仕返し?」

「なんとでも」

 かなみも頬を染めていたが、涼は更に真っ赤になっていた。目の前にいる女の子の胸を見てしまった時の話をしているのだから、無理も無い。互いにモラルを高く持っている場合、見られた側より見てしまった側の方が、恥ずかしさは上なのだ。


『ピピピピピピ・ピピピピピピ……』


 高速道路に乗って暫く経った時、涼の携帯電話が無粋なアラーム音を立てて着信を知らせた。乗車時に電源を切っておくのを忘れた所為だった。

「いけね……かなみちゃん、ちょっとモニター見て、誰だか教えてくれる?」

「はい。えっと……戸塚さん、という方ですわね」

「ゲッ、戸塚ぁ!?」

 その名を聞いて、涼は露骨に嫌な顔をした。そんな彼を見て、かなみがおずおずと尋ねた。

「……あの、出なくていいんですの?」

「放っといていいよ。ほら、水着を買った時に、変な奴に会ったでしょ? アイツだよ」

「あ……あの人? それは……私も、お話したくありませんわ。何となくですけど、あの人……嫌な感じがしました」

「そういう事。放っときゃ諦めるよ、無視無視!」

 と、鳴りっぱなしの携帯電話をそのまま放置して、涼はかなみやイリサとの会話を続けた。が……


『ピピピピピピ・ピピピピピピ……』


 30分経っても、携帯電話のアラームは鳴り止まない。流石に腹が立った涼は、サービスエリアに入って車を停め、二人に耳を塞ぐよう合図した。そして通話をオンにすると同時に、あらん限りの大声を張り上げて、電話に向かって怒鳴った。

「てめぇ!! いい加減にしやがれ!! しつこいにも程があるぞっ!!」

 すると電話の向こうで、ガタガタと椅子から転げ落ちるような音が聞こえ、やがて弱々しい声で返事が返ってきた。

「か~~……鼓膜が破れるかと思った。ビックリするじゃねぇかよ、何なんだよ一体」

「何なんだよ、だと? そりゃあ、こっちのセリフだっ! 30分もコールし続けやがって、このヒマ人が!!」

「なかなか出ないから、待ってたんじゃないかよぉ」

「お前だと分かってたから、出なかったんだよ!」

「何だよそりゃ、ひでぇなぁ。まぁいいや、出て来いよ。遊ぼうぜぇ」

 その、信じられないような間抜けな誘いに怒りを通り越して心底呆れ、涼はついに本音をぶちまけた。

「あ・の・な!! 俺はお前が大っ嫌いなんだ!! いいか、金輪際付き纏うんじゃねぇぞ!! わかったな!!」

 そこまで言うと、涼は返事も待たずに電話を切った。そして、そのまま電話の主電源も切ってしまった。

「この電話に掛けて来るとしたら、あとは紘也さん位なもんだけど。あの人は、俺達が旅行中だと知ってるからな」

「凄い勢いでしたわね。本気で嫌いですのね?」

「嫌いって言うか、核廃棄物と同レベルなんだけどね、俺にとっては。何故かアイツ、俺に付き纏うんだよ」

「イリサも、あの人好きじゃない……イリサを見て、人形って言ったの」

 イリサまでもが、眉を顰めて嫌悪感を露にした。からかった時に頬を膨らませる程度の不満の態度は見せたことがある彼女だが、ここまで嫌そうな顔をしたのは初めてだった。あの日、怒りに震えた涼を宥めたものの、その時に聞いた台詞は棘となり、彼女の胸にずっと突き刺さっていたのだ。当時のイリサにはまだ感情が芽生えていなかったが、その一言を今になって思い出し、嫌悪感として認識したのだった。

「そうだイリサ、お前は人形なんかじゃない。俺の大事な妹なんだ」

「うん……だから、お兄ちゃんは好き」

 と、イリサはそれまで尖らせていた唇を緩め、頬を染めながら俯いた。

「クス……涼さん、良かったですわね」

「比較対象がアイツじゃなー、褒められても微妙だよ」

「アハハハハハ!」

 かなみは、珍しく歯を見せて笑い転げた。彼女としても、それまでモヤモヤと胸の中に残っていた嫌悪感が、涼の一言で吹き飛んだらしい。

「でもお兄ちゃん、らんぼうはダメなのよ?」

「ハハ、分かってるよイリサ」

「そうですわ。涼さんは、乱暴をしたくないから、さっきの人に『もう来ないでね』と言ったんですのよ」

 口調は優しいが、かなみも結構酷い事を言っていた。温厚な彼女に、こうまで嫌悪感を露にされるのは、余程の事である。

「さて、余計な邪魔が入ったが……サービスエリアに寄ったついでだ。少し休憩して、飲み物でも買おう」

「イリサ、おトイレなの……」

「あら、じゃあ連れて行ってあげますわ。さ、急ぎましょう」

 ……どうやら、かなみもガマンしていたらしい。だが、口に出すのが恥ずかしかったのだろう。イリサを連れて行くのを口実にして、足早にトイレに向かって行った。

「クスッ……かなみちゃんも、やっぱ女の子だな。おっと、俺も行っておこう」

 人の事を笑っている場合ではない、自分だって生理現象には勝てないのだ。そして各々が用を済ませ、軽く休息を取った後、彼らは再び高速道路を疾走するのであった。

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