第三章 恋人候補

ケッコンしたいの?

「かなみお姉ちゃん……今、お兄ちゃんいないよ? お仕事に行ってるよ」

「いいんですのよ。今日は、私がお夕食を作ってあげようと思って、来たんですの。ほら……」

 8月に入り、高校も大学も夏休みを迎えた。涼も、その頻度は以前に比べて減ったとはいえ、生活費を稼ぐ為のアルバイトに勤しむ日々が続いていた。彼の帰宅時刻は午後7時過ぎの予定、そして今は午後5時を少し回ったところ。彼の留守中に訪れたかなみは、食材の入った買い物袋をイリサに見せながら、ニッコリと微笑んだ。涼の勤務シフトもすっかり頭に入っていた彼女は、彼の負担を少しでも減らしてやろうと考え、夕食を用意して待っていよう……そう考えていたのである。

「イリサちゃんも、お留守番おつかれさま」

「大丈夫……イリサ、本を読んでたの」

 誕生から2ヶ月あまりが経過し、イリサは留守番を任せても大丈夫なレベルに成長していた。そして人から教わるだけでなく、自ら知識を付けるために、本やテレビを積極的に見るようにもなっていた。感情の起伏はまだ乏しかったが、流石は頭脳にニューロンコンピュータを持つだけの事はあり、その知識の吸収スピードは凄まじい物があった。

「じゃあ、早速取り掛かりますわ。お台所、お借りしますわね」

「イリサも手伝う?」

「ううん、大丈夫ですわ。イリサちゃんは……じゃあ、お洗濯物を片付けてくださる?」

「うん」

 そうしてかなみはキッチンへ、イリサは窓の外へと、それぞれに向かって作業を開始した。

 かなみが夕食にと考えていたメニューは、カレーライスとポテトサラダであった。敢えてポテトサラダにした理由は、イリサが食べる事の出来る食品が、結局は『炭水化物を主成分とするもの』であれば何でも良いという事を新たに知ったからであり、イリサ用にはマッシュしたポテトのみを盛り付ければ、見た目上は同じものを食べる事が出来る……という、かなみの配慮によるものである。

(涼さんの為に、お夕食を作る……お、奥さんみたいですわ。ま、まだ、再会してから何日も経っていませんのに……)

 手に持った包丁とニンジンをジッと眺めながら、かなみは頬を染めていた。イリサを通じて再会した当初、涼に抱いていたのは『恩義』だけだったのだが……次第にそれは『好意』という感情へと姿を変えて行ったのである。しかし、幼い頃から厳格に育てられ、通う学校も親の決めた名門校であった為か、高校生という身分の自分が異性に恋心を抱くという事自体、はしたない事なのでは? という意識が彼女にはあった。だが、彼女は段々とその感情を抑えきれなくなり、こうして彼の元に通うようになっていたのである。

「かなみお姉ちゃん、顔が赤い……どうしたの?」

「ほへ……!? い、イリサちゃん……な、何でもないですわ!」

 涼の顔を思い浮かべ、頬を染めていたところをイリサに見られ、かなみは慌てて平静を装った。しかし、イリサにはまだ、こういった『感情』は芽生えていない為、彼女が赤面している理由など分かる訳がない。だから彼女に対して照れる必要はない……筈だったのだが……

「かなみお姉ちゃん、お兄ちゃんとケッコンしたいの?」

「なっ……! 何を言い出すんですの!?」

 イリサは無邪気な表情で、とんでもない事を言い出した。確かにかなみは涼に対して『異性』としての好意を持っていた。だが、そこまではまだ考えていなかったし……何より、まさかイリサがそんな事を言い出すなどとは夢にも思っていなかったので、完全に狼狽してしまっていた。

「この本に書いてあったの。女の子は男の子を好きになって、そしてケッコンするんだって……」

 イリサが手に取って見せたのは、一冊の恋愛物の少女漫画であった。涼にそのような物を買う趣味はなかったため、その入手元は今のところ謎であったが……とにかく彼女はその漫画によって、自らに感情が芽生える前に、恋愛というものを『知識』として知ってしまったのである。

「イリサちゃん……り、涼さんには言っちゃダメですわよ? は、恥ずかしいから」

「はずかしい……? ここにも書いてあった。でも、どういう事か分からないの」

 イリサは、知識として『恥ずかしい』という単語は既に知っていたようだ。しかし、それがどういう物なのかが、理解出来ないでいたのである。それを、どう教えたらいいのか……流石のかなみも困ってしまっていた。

「えぇと……そうだ、イリサちゃん。おトイレを教えた時の事、覚えていますわね?」

「うん」

「……ほ、本当は……ああいう姿は、人に見せてはいけないんですの。そういう、見られたくない、知られたくない事を知られてしまった時、『恥ずかしい』って言うんですのよ」

「見られたくない……あ、お兄ちゃんの前で着替えたとき、ちょっとだけ、ここが熱くなったの。これが……はずかしい、なの?」

 かなみの言葉に続いて、イリサが自らの胸を押さえつつ自分の体験を話し始めた。多分、自分が着替える様を見るたびに、涼が顔を赤くするのを見て……少しずつではあるが、その行為が『やってはいけない事』なのだな……という事は理解して来ていたのであろう。そして同時に、涼が恥ずかしがっている姿は少しずつ、彼女に搭載されている『感情』を司る回路を機能させ始めていたのである。

「そうですわ、イリサちゃん。それが『恥ずかしい』っていう事ですの」

「うん……良く分からないけど……でも、かなみお姉ちゃんがお兄ちゃんとケッコンしたいのは、黙ってるの」

「ちょっ……もう、イリサちゃんったら」

 真っ赤になった頬が、イリサの発言を肯定していた。だが、彼に対する恋愛感情をストレートに指摘されたかなみは、イリサに対してならバレてもいいか、と開き直ったか。ニッコリと微笑んで彼女の目線の高さまで腰を落として語り掛けていた。

「……ホントに、言っちゃダメですわよ……約束ですわよ」

「うん。言わないよ。イリサ、お約束は守るの」

 かなみの笑顔に釣られたか、イリサの顔にも笑みが浮かんでいた。恐らく彼女が見せた、初めての笑顔であろう。そしてこの日を境にして、イリサの『感情』は、急速に成長していく事になるのだった。

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