第9話 過去と未来と その五
*
青蘭がエントランスホールへ戻ったところで、フレデリックがやってきた。
青蘭は思う。
たったいま見たもののことを、フレデリックには黙っておこうと。いや、ほかの誰にも話さない。あのことは青蘭だけの秘密だ。
(そうだった……僕は、神の密命を受けて、それで…………)
この
このまま、世界の終わりまでつっ走るしかない。それが、どんな悲劇を生むとしても。
ふるえていると、フレデリックの手が、青蘭の背中を優しくなでた。
ミカエルの生まれ変わり。
彼になら甘えてもいいのだろうか? このまま、何もかも忘れて……。
「青蘭。落ちついた?」
「うん」
そう。まちがいなく、彼はミカエルだ。ミカエルと同じ匂いがする。
今ならば、迷わず彼と一つになれる——そんな気がする。
だが、こういうときには必ずジャマが入る。これまでも、そうだった。
ナイアルラトホテップが現れた。さきほど、この邪神が青蘭に見せたものを、フレデリックにも見せるつもりなのかと恐れた。が、どうやら、そうではないらしい。
「君たちをこの結界に招いたのは私だ。君たちも察しているだろうが、もうじき、この世は滅ぶ。ラグナロクが始まるのだからな。君たちは否応なく、それに巻きこまれるだろう」
「…………」
青蘭が沈黙していると、ナイアルラトホテップは、いよいよ皮肉な顔を見せる。この邪神は表情豊かだ。たびたび、青蘭の前にも現れるが、目的はなんなのだろうか?
「私は君たちの味方だとも。これまでだって、手を貸してやったじゃないか?」と、邪神は言う。
「ウソだ。クトゥルフを呼びだそうとして、僕をインスマス人に襲わせた」
「何事にも過程というものがあって、あのときはアレが必要だった」
「ウソばっかり!」
いつもの調子でわめくと、とつじょ、ナイアルラトホテップのひたいに青筋が浮きあがる。
「ウッセーッ! ウッセーんだよ! バーカ。バカ、バカ! グズ! 売女! おまえなんか、どうせピーでピーーーーでピーーなくせにッ! ふっざけんなぁー!」
そうだった。この邪神は地雷をふむと態度が急変するのだ。
でも、怒鳴っているけど、なんでか怖くない。たぶん、人の姿をしているせいだ。本性は醜い触手の化け物に決まっているのだが。
「気がすんだの? もういいから、なんか用があるなら、さっさと言ってくれないかな? 早く、ここから出たいんだけど」
邪神はこめかみの血管をヒクヒクさせていた。が、とつぜんまた怒りがひいたふうで、静かになる。
「おやおや。言っておくがね。君は私に感謝することになるのだよ? なぜなら、私がひじょうに重要な知らせを持ってきたからだ」
「どんな? 早くして」
ツンとすまして言いはなつ。しかし、今度は邪神も気分を害することなく、ドロッとした笑みを見せる。
イヤな予感がする。
「いいだろう。私に命令できるのは君だけだ。じつはだね。龍郎が生贄にされることが決まった」
「生贄?」
聞いた瞬間、腹の底にズシンと重いものが落ちてきた。それを見て、邪神はニヤニヤと笑う。
「そうとも。生贄だよ。ついにアフーム=ザーが目覚めたのだ。よって、火の王の封印を解く儀式を行う。ルリム=シャイコースが彼をつれもどし、王を呼びさますための生贄にする」
「な——なんでッ? なんで龍郎さんが選ばれたの?」
ピカリと、ナイアルラトホテップの目が赤く光る。そこから瘴気が生まれ、どす黒い霧となって邪神の頭部を覆う。
人の姿をしていても、やはり、人ではない。モンスターだ。ニイッと口辺が耳まであがると、ギザギザのサメのような歯がのぞいた。
「それは、彼が星の戦士だからだ」
「星の……戦士?」
どこかで聞いたことがある。
いや、どこかどころか、つい最近だ。そう。天使たちだ。新薔薇十字団の本部をぬけだすときに、ガブリエルたちが話していた。邪神との戦争には、必ず星の戦士が必要だと。
「…………」
立ちすくんでいると、邪神はサメの歯並びを自慢するように、青蘭に顔を近づけてくる。
「いいのかな? すぐに助けに行かないと、龍郎がクトゥグアに頭からかじられて死んでしまうぞ?」
「クトゥグアだって?」
「そう。火の王、クトゥグアだ。この屋敷を襲撃し、幼い君を地獄につきおとした」
「あのときの……」
青蘭は全身がふるえてくるのを感じた。怒り……であれば、よかった。だが、そうではない。恐怖だ。業火にまかれて逃げまどった五歳のとき。あまりの苦痛に、その記憶すらなくした。
でも、この体に醜悪な傷跡となって刻みつけられている。おぼえてないはずなのに、ふるえが止まらない。
「青蘭。そんなやつの言うことを鵜呑みにするな。君を惑わすための虚言だ」
そう言って、フレデリックが抱きしめてくる。涙が出そうだ。力強い腕のなかで、忘我の淵にすべて流して、ただただ甘えていたい。
「青蘭。もう行こう。こいつが我々を本気で殺す気でないのなら、どこかに出口があるはずだ」
「ミカエル……」
しかし、ナイアルラトホテップは意地悪な声を出す。
「ほんとにいいのか? 龍郎は苦痛の玉を手離した。つまり、悪魔と戦うことができない。クトゥグアになぶり殺されるだろうな」
青蘭は迷った。
これは究極の選択だ。
前世の恋人であるミカエルと、今生の恋人だった龍郎。
そのどちらを選ぶのか。
今なら、苦痛の玉と快楽の玉を一つにすることができる。その確信がある。龍郎のことなど、見て見ぬふりをして、二つの玉を重ねてしまえば……。
それでもう心願が叶うのだ。永劫のときの彼方から、求め続けてきたこと。
ミカエルと一つになる。
たった一つのその願いが。
ナイアルラトホテップの言葉なんて信用できない。信用しなければいい。
だが、邪神がウソをついていないことは直感でわかった。彼にとっては、龍郎が死のうが生きようが、どうだっていいからだ。すぐにウソだとバレることを言ってみたところで、なんの益もない。
青蘭の心のゆらぎを感じたのか、フレデリックが厳しい目をしている。
「青蘭。君は二つの玉を重ねたいんだろう? だったら、迷うな」
そうだ。迷っている場合ではない。
今なら、あれほど恋焦がれたミカエルと一つになれる。こんな好機は二度とない。
そして青蘭は長い呪縛から解き放たれるのだ。拷問にも等しい、人としての儚い輪廻が断ち切られる。
(どうしたら……僕はどうしたら……)
龍郎をとるか、ミカエルをとるか?
了
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