第5話 星の湖 その六
もうフサッグァの手がボートの底に届く。
そのとき、マルコシアスが叫んだ。
「龍郎! 私が翔んだほうが速い」
「たのむ! マルコシアス!」
このさい、ヨナタンに怪しまれるとかなんとか言っている場合じゃなかった。どうせ、ヨナタンはすでに邪神がらみの事件を経験しているのだから、マルコシアスの正体を知ったところで、おどろきはしないだろう。
とっさにマルコシアスにつかまり、空を飛んだ。今回は異次元を移動するわけではない。文字どおり空中を飛翔し、湖畔に着地する。
無人になったボートが、竜のような水柱にふきとばされるさまが目に焼きつく。危なかった。あと一瞬でも遅ければ、火の精がウジャウジャいる水中に落下しているところだ。
だが、それで逃げきれるような相手ではない。水中からとびだしたフサッグァは、多くの火の精を従えながら、まっすぐ龍郎めざしてくる。
「ヨナタン! 逃げろ!」
「ヤイン……」
ヨナタンはためらっている。しかし、フサッグァが狙っているのは龍郎だ。ただの火の精なら龍郎のそばにいるのが安全だが、フサッグァ相手のときには離れたほうが、ヨナタンの身のためだ。
「マルコシアス。ヨナタンをつれて逃げろ!」
「いいのか? 龍郎。今のおまえでは、フサッグァ相手に戦えないだろう?」
「なんとかする」
火の精だけなら、コートやトレーを武器にして戦うこともできる。しかし、フサッグァは上級悪魔だ。苦痛の玉を失った龍郎ではどうにもできないことはわかりきっていた。
それでも、あきらめるわけにはいかない。
龍郎はホテルとは反対の方向へ走りだした。
「待っていろ! すぐに戻る」
マルコシアスが言い残して去っていった。ヨナタンを安全な場所まで送り届けてから帰ってきてくれるつもりなのだ。なんとか、それまで持ちこたえれば助かる。
(いや、でも、マルコシアスの力でフサッグァを倒せるのか? アイツも魔王だから弱いわけはないが……)
迷いが生じたせいか、龍郎は倒れた朽木につまずいてしまった。いつもならしないようなミスだ。
フサッグァは宙空で方向転換し、いっきに龍郎との間合いをつめてくる。嬉々とした表情で目を輝かせている。悪魔の本性だ。破壊と
「死ねッ! 無力な人間。きさまなど、ルリム=シャイコースの王にふさわしくない!」
フサッグァが憎悪の叫びを放つと、その凍るような呼気の冷たさが龍郎のおもてにかかった。
殺される。自分はここで、この火の悪魔に殺されるのだ。これまで、もっと強い敵とも渡りあってきたのに。
死ぬと思った瞬間、龍郎は無意識に右手を伸ばしていた。これまでそうしていたように、退魔の剣を呼ぶ仕草をする。
とつぜん、ギャッとごく間近で雄叫びがあがる。
目をあけて、龍郎はがくぜんとした。退魔の剣だ。剣をにぎっている。それがフサッグァの肩につき刺さっていた。
(これ、天使の剣だ。前にガブリエルがくれたやつ……)
苦痛の玉のなかに吸収され、退魔の剣と一体になっていた。なぜ、これが今、ここにあるのだろう?
しかし、考えているいとまなどない。退魔の剣さえあれば、上級悪魔とも戦える。
フサッグァは肩を押さえて、あわててとびのく。
「なぜ……きさま……」
「おれだって知らないよ」
意識を集中すると、刃が退魔の青い光を帯びる。火の精たちの寒気のする冷たい青色ではない。清々しいスカイブルーだ。
龍郎は上段にかまえ、思いっきり跳躍した。フサッグァの顔面に剣をふりおろす。フサッグァの端正なおもてが半分に割れ、メラメラと燃える。
不思議な現象だ。火の精の長が燃えている。燃えながら、滅びている。浄化の炎に焼かれているのだ。
やがて、フサッグァは破裂した。光の粒となってとびちり、そして——
(あッ——!)
無数の光り輝く銀粉が、龍郎の口に入ってくる。何かのエネルギーが体の内にたまるのを、龍郎は感じた。つかのま、心臓が熱くなる。
(なん……だ? これ……)
フサッグァが自分のなかに吸収された。青蘭が悪魔を倒したとき、そうだったように。
龍郎は呆然とした。
こんなことあるはずがない。
だって、これじゃまるで、龍郎自身が天使の心臓を持っているかのような……。
天使の心臓は倒した悪魔の魔力を吸いとり、生まれ変わるためのエネルギーにする。多くの強い悪魔を吸収するほど、次に再生される天使が強大な力を有する。
(でも、おれは天使じゃないぞ?)
放心していると、パチパチと手を叩く音がかたわらから聞こえた。ふりむくと、そこに黒髪をなびかせた長身の男が立っている。
「ナイアルラトホテップ」
「見事だ。龍郎。どうだ? 私の言うとおり、ここへ来てよかっただろう?」
「どういうことなんだ? さっきのは、どうして——」
ナイアルラトホテップは肩をすくめるだけだ。かわりに、
「順調だ。わが神がさぞかし喜ぶだろう」
ささやくと、姿を消した。
了
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