宇宙は青蘭の夢をみる12(旧題 八重咲探偵の怪奇譚)『アザトースと賢者の石編』〜羽化する天使の音〜
涼森巳王(東堂薫)
プロローグ
プロローグ
百塔の鐘が鳴るプラハの夕暮れ。
美しい赤い屋根がつらなる旧市街地の四階から、青蘭はそれをながめていた。
目の前で龍郎が消えてから、およそひと月。暦は十一月。龍郎と出会って、ちょうど一年だ。
ガチャリと扉がひらき、フレデリック神父が入ってくる。
「青蘭。気分はどう?」
「別に……」
話しかけられても答えるのが、おっくうだ。
なんだか、何もかもがめんどくさい。何もやる気が起きないし、食欲もなく、どんな刺激を受けても感動しない。
日常生活のなかに、これほど壮麗な建物が街ぐるみで融合した景色は、世界中探してもそうはないだろう。中世の趣をそのままに残した世界遺産だ。
この情景も、青蘭の心を動かすことはない。心が死んでしまったよう。何も感じられない。
「たまには観光でもしたらいいのに。夕食前に散歩でもしないか?」
誘われたけれど、青蘭は首をふった。油断すると涙がこぼれおちそうになるのを、ぐっとこらえる。
神父はそんな青蘭を見て、ため息をついた。
「ねえ、青蘭。君がツライのはわかるよ。だけど、君を想ってるのは一人じゃない」
そう言うと、フレデリックは青蘭の腰かける窓ぎわにまで近づいて、上からおもてをのぞきこんできた。そのまま、唇をかさねてくる。
青蘭の死にたえた感情の水面に、カゲロウが小さな波紋をなげかけるように、ぽつりとさざなみが立った。
青蘭はそれを抑えようと思うのに、ざわめく感覚に抗えない。
人間は信用できない。誰も。必ず、みんな裏切る。
あれほど青蘭を愛している、信じてほしいと言った龍郎も、けっきょくは去っていった。もう誰のことも信じない。そう決意したのに、苦痛の玉を持つフレデリックの接触には、あっけなく反応する。
(僕の愛してるのは、ミカエルだけだ。ミカエルの残した心臓だから心がふるえるんだ……)
そう。龍郎のことだって、彼が苦痛の玉を持っていたから惹かれたにすぎないのだ。だから、すてられたって、何も苦しくなんてない。悲しいのは、苦痛の玉と一つになることが不可能になったから。
青蘭は何度も、何度も、自分にそう言いきかせた。心の奥底に何かを押しこめている気はしたが。
だから、龍郎のことはもう忘れるし、フレデリックのことも、もちろん好きにはならない。
そんな思いで神父をにらんでいると、フレデリックは苦笑した。
「いいよ。私を信用しろなんて青くさいことは言わない。だけど、君だって、これが欲しい。違うか?」
しつように求められるくちづけをこばむことはできなかった。青蘭は長期間、禁欲できるようには育っていない。夜ごとに醜い悪魔たちと
けっきょく、ベッドに運ばれて、奔放に乱れる。もつれていた芯が、この瞬間だけは、ほどける。心地よい。
だけど、体が満足すると、なぜか、途方もない自己嫌悪にさいなまれる。
「ミカエルに……会いたい」
「ミカエルはもういないんだろ?」
「…………」
でも、もう猶予はないのだ。
青蘭にはわかっていた。
自分のなかにある快楽の玉が、満杯になりつつある。この前、クトゥルフを飲みこんだから。きっかけさえあれば、いつでも苦痛の玉と一つになれる。もしも、次に悪魔を吸えば、そのときは必ず羽化が始まる。近くに完全な形の苦痛の玉があれば、だが。
今ここで、ミカエルに会えなければ、青蘭はまた悠久の時をさまようことになる。
そのときには快楽の玉は失われているだろう。以前はアスモデウスの身体が、アンドロマリウスによって保管されていた。でも、今、その肉体は滅びた。快楽の玉は入れ物をなくし、消滅するかもしれない。あるいは、青蘭が死んだあと、ガブリエルたちによって天界へ回収されてしまう。
天使に戻るという青蘭の願いは、永遠に泡となる。
—— 青蘭。君との約束は、必ず果たす。君をミカエルと一つにさせてあげる。
龍郎はそう言っていたけれど……。
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