第25話 兄妹の癖は似るもので
アーノルドたちがドラグニアへ来てから、数日が経った。
アンジェラの傷は少しずつ治って、今はもう起き上がってあちこち動き回れるようにまでなった。
「炎舞の時間が長ければ長いほど、その傷は治りにくくなる。今回アンジーはそれほど長く炎舞を使ったわけではないから、身体の表面の傷だけで済んだ。これがもっと長い時間になると傷はどんどん身体の内部を侵食する。場合によっては死に至ることもあるのだ」
エスメラルダがそう説明してくれた。炎舞の真実を知るたびに、アーノルドの心にはランドルフへの怒りが湧いた。
レイニー国の軍勢が、もっとたくさんいたら。兵士たちがもっとタフなものばかりであったら。
もしかしたらアンジェラは、もっと酷い怪我を負っていたかもしれないのだ。彼女の身体に傷がついた、それだけでも許せないというのに。彼は、ランドルフはアンジェラを殺すところだったのだ。
「兄様、眉間にシワが寄っていてよ」
兄弟にと宛がわれた部屋でアーノルドは、窓からドラグニアの国を眺めていた。隣に立ったマリアベルが、くすりと笑って言う。
「今朝エスメラルダ王妃から話を聞いて、ずっとそんな表情なんですもの。アンジェラが心配してましたわ」
アーノルドがはっと顔を上げて、マリアベルを見やる。眉間のシワはすぐに消えた。
「えっ。そ、それはマズイな、彼女に心配をかけるなんて」
「自分の身体はもう大丈夫だから、余り気にかけないでほしいと言ってましたわ」
呆れた様子でため息をつく妹に、兄はばつが悪そうに肩を竦めて。それからまた窓の向こうへ、視線を戻した。
「素敵な国ですわね。空の上にあるだなんて、信じられない」
「あぁ、本当に……ソールも美しい国だが、なんというかドラグニアは神秘的な雰囲気さえあるな。夢か幻かと思ってしまう」
「あら、現実ですわよ。アンジェラとローレンスがその証拠ですわ」
確かに、と、アーノルドは笑う。
初めてこの国を訪れたときは、しっかりと景色を見ていなかった。ただ必死に彼女の姿を探していただけで、心に余裕はなかったから。だけれど今こうして、彼女が存在する国に自分が訪れている。芯から満たされる感覚に、表情が緩んだ。
「……あの、兄様。とても申し上げにくいのですけれど、そろそろ一旦国に帰らないといけませんわ」
「……考えないようにしていたのに」
「そうは行きません。わたくしはお目付け役ですからね。定期的に兄様を国に連れ帰るように言われてます」
腕を組み、当然だとばかりに胸を張る。アーノルドは見るからに元気をなくして、しおしおと項垂れた。
アーノルドも第一王子である以上、国をないがしろには出来ない。彼がこれほどまで自由に動けるのは彼の両親が「社会勉強になるなら」と許してくれているためだ。本来なら城にいるべきところを、両親は決してアーノルドの自由を奪わなかった。それはアーノルドが必ず帰ってくるという信頼のためであり、アーノルドはその信頼を裏切ることは出来ない。
――だけれど。
一度国に戻ってしまえば、気軽にドラグニアを訪れることが出来なくなる。ソール国にある転移石は有事のときに利用されるものであって、過去アーノルドが勝手に使ってしまってからというもの警備もかなり厳重になっていた。
ゆえにアーノルドは、これほど落ち込んでいるのである。
離れてしまったら、次いつ会えるようになるのか。ようやく見つけたのに、出会えたのに。国に戻らなければならないという思いと同じくらい、アンジェラと離れたくないという思いがあった。
「やっと……やっと告白できたんだ。返事はまだ貰ってないけど、友達になれて、これからってときに……」
「それは、そうですけれど……わたくしにだって兄様の恋を応援したい気持ちはあります。でもアンジェラを優先させて国をないがしろにすることには賛成できません」
「わかってる。……わかってるけどさぁ……」
いやだよー、と情けない声を上げるアーノルドに、思わず頭痛を覚えるマリアベルである。この姿をアンジェラに見せてやろうかしら、などと思ってしまう。
そのとき、部屋の扉を叩く音が聞こえた。マリアベルが顔を向けて、すぐに扉の方へと歩み寄り扉を開いた。
「まぁ、アンジェラ! どうしましたの?」
やってきたのはアンジェラで、アーノルドはすぐに姿勢を正した。小走りに扉の方へ向かって、マリアベルの後ろからアンジェラを見やり目尻を下げた。
「アーノルドの様子が気になってしまって……エスメラルダ王妃の話を聞いてから、ずっと難しい顔をしていたでしょう? マリーに言伝をお願いしたのだけれど、やっぱり自分で言いに来たの」
「あ、……す、すまない、アンジェラ。その、きみの傷のことはもちろん心配なんだけど、難しい顔をしていたのは、その、気負い過ぎたとかじゃなくて」
「そうですわ、アンジェラ。兄様はただ、アンジェラが傷つく原因になった相手のことがずっとずっと、許せないだけですのよ」
兄の代わりに答えたマリアベルに、アンジェラはぱちりと大きく瞬きをする。間違いではないがそうはっきり言うなんて……と、アーノルドは盛大に狼狽えた。
アンジェラがふっと、息をついて笑った。
「もう、アーノルド。私がもうあの人のことを忘れようとしているのに、あなたがずっと覚えていてどうするの?」
「だって、アンジェラ。ひとつ間違えればきみはもっと大きな傷を追っていたかもしれないんだ。それを思うとどうしたって許せない」
「私がいいって言うんだから、いいのよ。あなたの気持ちはとても嬉しいけれど……あなたに誰かを憎み続けるなんてこと、してほしくないわ」
その言葉に、アーノルドの閉じた唇がむにゅむにゅと動く。どうやらにやけそうになっているだということを、マリアベルはすぐに理解した。恐らく彼は今、アンジェラの言葉に感動しているのだ。それを自分に向けて告げていることが、嬉しくて仕方ないのだ。――が、その表情は次の瞬間わかりやすく暗くなった。こんなふうに言葉を交わすことが出来るようになったのに、すぐに離れることになるなんて……と、言葉にせずともはっきりしっかりわかってしまうマリアベルである。
「アーノルド?」
「……アンジェラ。……実はオレとマリアベルは、もうそろそろ一度国に戻らなければならなくて」
「こう見えて第一王子なものですから……定期的に城に戻ること、それがわたくしたちが自由に旅をする条件ですの」
「……そうだったの……」
突然告げられた別れの気配に、アンジェラの表情も曇った。穏やかな時間はどうしても、ずっと続くものであると錯覚してしまう。
だけれどアーノルドたちにも、当然のことながら帰る場所があるのだ。
「あの……アンジェラ、オレ……」
「アーノルド、私、」
二人はほとんど同時に言葉を発していた。マリアベルはきょとんとして、それからにやにやとめいっぱいに笑みを浮かべアーノルドを肘で小突いた。
「あ、アンジェラからどうぞ」
「え、えぇ。……あのね、私もちょっと考えていたのだけれど……ほら、『社会勉強』、中途半端なところで終わってしまったじゃない? それどころかあれで、自分がまだまだだってことがよくわかったの。もっといろんなことを知るのはもちろんだけど、精神的にも強くならなきゃって思って」
人よりも強い心を持っていると思い込んでいた。公爵令嬢として様々な努力をし、両親を倣って、強くなければと今まで生きていた。
だけれどそれは、恋によって脆くも崩れ落ちる。盲目に一人を愛したがために、心の弱さが全面に出てしまっていたのだ。
「だから私も、アーノルドやマリアベルのように、外の世界をもっと見てみようと思ったの。エスメラルダ王妃にはもう話をしてあるわ。両親にはこれからだけど、あ、あとロンにも……だから、まずはあなたたちの国に行ってみようと考えたの」
アーノルドが驚きに目を見開き、マリアベルが嬉しそうに口許を綻ばせる。アンジェラは胸元に手を添えて、少しばかり緊張した面持ちで尋ねた。
「その、ね? あなたたちがよければ、だけれど。良かったら私も、ソール国まで同行してもいいかしら」
マリアベルが両手を合わせ、きらきらと瞳を輝かせる。
「えぇ、えぇ! もちろんですわ! ねぇ、兄様!」
深く頷いて、すぐに反応しないアーノルドの服を引っ張って返事を促す。しかしアーノルドは口を開き呆然とアンジェラを見つめたまま動かなかった。かと思うとゆっくりと一歩踏み出し、アンジェラとの距離を詰める。アーノルド、とアンジェラが口を開いた瞬間だった。
「に、兄様!?」
アーノルドは、アンジェラを抱き締めていた。それはもう、めいっぱいの力を込めて。アンジェラは身体を強ばらせ、目を大きく見開く。その体勢のまま、数秒。アーノルドはようやく我に返り、勢い良く両手を上へ挙げた。
「すすすすすまない! う、嬉しさが突き抜けてしまって!」
「び、びっくりしたわ」
「いや、その! もうアンジェラと離れなければならないと思ってたから、せめて次に会う約束をと思ったんだけど、まさかきみからそんなこと言ってくれるなんて! アンジェラ、本当に? 本当にオレの国に来てくれるのか?」
アーノルドはほとんど無意識に、アンジェラの手を両手で強く握りしめていた。あまりのテンションにアンジェラはぽかんとして瞬きを繰り返すと、ふふっ、と肩の力を抜いて笑った。
「えぇ、行くわ。あなたの国のこと、色々教えてちょうだい」
「あぁ、もちろん! ……っと、あぁ、また……!」
はっとしてすぐに手を離したアーノルドに、アンジェラは楽しそうにくすくすと笑っていた。どうやら彼には、感情が高ぶると人に触れてしまう癖があるらしい。もっともそれは「愛する人」限定なのであるが、彼女はまだその事実には気づいていなかった。
すっかり二人の世界を作っているアンジェラとアーノルドに、マリアベルが大きく咳払いをする。
「仲が良いのは結構ですけれど、わたくしを忘れてもらっては困りますわ」
「ごめんなさい、マリー。あなたのことを忘れたりしないわ」
「アンジェラはそうだと思っていましたわ。兄様は完全に忘れてましたわよね!」
「そんなことは……あ、そんなことよりアンジェラ、ローレンスはどうするんだ?」
「もちろん、連れていけ」
アンジェラの代わりに答えたのは、いつの間にか部屋の前までやってきていたエスメラルダだった。その後ろにはまだ状況を把握していないらしいローレンスが、頭にいくつも疑問符を浮かべている。エスメラルダはそのローレンスの腕を引き自分の前に立たせると、その頭をぽんぽん撫でながら言った。
「アンジーにあんなことがあったばかりだしな、万が一のための付き添いは必要だ。両親も二人で一緒に行くならと了承してくれた」
「え、なに? どこに行くって」
「ソール国よ、ロン」
ソール国、と口の中で呟いたローレンスはしばらく黙って、ばっ、と勢い良くアーノルドを見やった。
「結婚はまだ早くないか!?」
ぼっ、と火が着きそうなほど、アーノルドの顔が赤くなった。
「違いますわよ、ローレンス。社会勉強の一貫ですわ」
「えぇ、そうなの。ロンはまだその年齢ではないけれど、勉強は何歳からはじめてもいいと思うの」
アーノルドのリアクションとは逆に、女性二人は冷静である。ローレンスは納得した様子で、そっか、と頷いた。
「そういうことならもちろん、おれも行くよ。姉さんのことが心配だし、それにおれもこのままマリアベルたちと離れるのは寂しいなって思ってた」
それほど長い時間を共にしたわけではない。だけれどこの出会いはもう、なにものにも代えがたいものになっている。それはマリアベルにとっても同じことで、彼女は嬉しそうに瞳を輝かせて何度も頷くと、両手でローレンスの手をぎゅっと握りしめた。
「わたくしたちで、兄様とアンジェラの手助けをしていきましょう!」
ローレンスは金眼を瞬かせマリアベルを見つめると、瞳を細めてその手を握り返した。
「あぁ、そうだな。改めてよろしく、マリアベル」
弟たちの姿を微笑ましげに見つめるアンジェラを、エスメラルダは安堵の表情を浮かべて見ていた。
アーノルドたちから彼女に起こったことを聞いたときは不安も覚えたが、彼女はもう自分と、仲間たちの力でそれを乗り越えた。当然、心の傷は完全に癒えたわけではない。いつ何時また同じ症状を起こさないとも限らない。
だけれどきっと、彼らがいるなら。……彼女を心から愛するものがいるのなら大丈夫だと、エスメラルダは思う。
もし万が一、またアンジェラやローレンスが傷つくようなことがあれば。
そのような人間ばかりのいる国ならば。
この身を持ってして、その国を消してやる。いつかの、ドラグニア王家のもののように。
「ソール国の王子、王女よ。我が国の子を、よろしく頼むぞ」
アーノルドとマリアベルは姿勢を正し、エスメラルダに頭を下げ、それから敬礼をする。
「必ず、守ります」
「ソール国王家の名に誓って」
アンジェラとローレンスも二人に向き直り、礼をする。エスメラルダは満足そうに深く頷き、並んだ四人の姿にドラグニアの未来を願ったのだった。
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