私と人魚

鳥原ヤスノ

私と人魚

 誰も居ない静かな夜の土手。

 私はコンビニで買ったものを持ってそこをダラダラと歩いていた。

 土手だから、街灯もなくて暗い。空を見上げても星は見えないから余計に暗く感じる。


 一人で夜にこんな場所を歩くなんて危ないのは分かっている。

 今日は真っ直ぐ帰る気になんてなれなくて、散歩がてら遠回りしようと思ったのだ。遠回りといってもほんの少しだけ。いつもより五分くらい家に着くのが遅くなるだけ。

 はぁ、と息を吐いて俯く。


 今日は最悪だった。

 失敗ばかりで上手くいかなかった。そのせいで焦って些細なミスもして。

 もっとしっかりしなくちゃいけない。なのに、上手くいかない。

 それで自分を責めて失敗の繰り返し。


 このままではいけないから、気分転換をしようと思った。

 丁度今の時期は桜が綺麗に咲いている。

 桜は好きだ。気付いたら散り始めてしまうけど、それも含めて。

 夜の暗さの中でも桜の花びらはしっかりと存在を主張していて負けていない。

 綺麗だなぁ、と思いながらぼんやりと眺める。

 そういえば、川へ花びらが流れ込んで幻想的なんだったと思い出して、川を眺めた私は驚いて立ち止まった。


 大きめの岩に腰掛けて女が川へ下半身を浸けている。夜でも分かる金色の長い髪の女だ。

 それだけでもおおよそ普通とは呼べない光景なのだけど、一番おかしいのは彼女が川に浸けている下半身。


 あるのは二本の足ではなく、一つの綺麗な尾ひれ。彼女は器用にひらひらとそれを動かしている。

 人魚だ。


 いや、そんな訳ない。

 きっと見間違いか作り物に決まってる。何でこんな場所にいるのかは分からないけど、昼間だと見られて困るからに違いない。

 じっくり川を眺めたかったけど先客がいるなら諦めよう。

 見ないふりをしようと視線を逸らそうとした時だった。


 ゆっくりと女がこちらを見る。

 作り物めいた顔にゾッとした。だって、こんなに綺麗な人、見たことない。

 呆けてしまって結局また動けなくなる。

 目が合うと女は大きく目を見開いた。


 女は逃げようとするけど、生憎と浅瀬で川に飛び込む事も出来ずにあたふたと慌て始めた。その様子が可哀想だ。

 とりあえず落ち着いてもらおうと、私はゆっくりと近づいてなるべく優しい声を出して言う。


「大丈夫、何もしないよ」


 近づいてみた私は驚いた。

 だって、彼女の下半身は本物の尾びれだったから。彼女は本物の人魚だ。

 窺うような視線をニコリと微笑んで耐える。


「ほ、本当に何もしない?」

「うん。何もしないよ」


 作り物じみた美しい顔に見つめられて、思わずたじろぐ。

 男女関係なく、美人に見つめられると緊張する。


「悪い人じゃないみたいね。ねぇ、お願いがあるんだけど」

「何?」

「私の事は誰にも言わないで」

「大丈夫。元々誰にも話すつもりなんてないよ」


 私がそう言えば、人魚は明らかに安堵した。

 人魚が居ただなんて話しても誰も信用してくれないだろう。だから元々話すつもりなんて一切ないんだけど。


「ありがとう。人間って、悪い人ばかりだって聞いてたのに嘘だったのね」

「いや、悪い人なんてわんさか居るよ」

「そうなの?」


 人魚は目を丸くして首を傾げる。

 その仕草すらまるで人形が動いているようだ。


「……そんな事よりさ、あなた人魚で良いんだよね?」

「ええ。私は人魚よ。それがどうかしたの?」

「どうして、川なんかに居るのかなって思って」


 人魚と言えば川ではなくて海に居るイメージだ。童話や漫画でも人魚が出て来るのは海だ。

 海で時に人を助けて、時に人を惑わせる。私の中では人魚はそんなイメージがある。


「普段は海に居るわよ。ここの桜が綺麗だって聞いたから見に来たの」

「そんな事の為だけに海から?」

「そんな事って何よ。綺麗なものを見に行くのに理由なんていらないわ」

「でも、人間に見つかりたくはないんでしょ?」


 人間に見つかりたくないのに、わざわざ人が来る可能性が高い場所に行くなんて、私には理解出来ない。


「ええ。人間は怖いから見つかりたくないわ。でも、行ける距離にあるのに行かないのはもったいないもの。例え危険でもね」


 そう言って人魚は上を見る。

 桜の花が咲き誇り、花びらがはらはらと舞っている。

 川の水面をまるで隠すかのように花びらが浮いている。

 確かに綺麗な光景だ。だから私も気分転換にここへ来た。だけど、危険を冒してまで見たい景色だろうか。


「この景色は今の時期しか見れないもの」


 辺りを眺めながらそう言った人魚は、私を見る。


「あなただって、綺麗な景色を見にここに来たんじゃないの?」

「ちょっと失敗続きで嫌な気分になってたから、ただ気分転換しに来ただけだよ」

「そうなの?」


 私が一つ頷くと人魚はつまらなそうに、「ふうん」と言った。


「じゃあそれは? 何が入ってるの?」

「これ? おつまみとかお酒とか」

「おつまみ?」

「うん。キュウリの浅漬け……って言っても分からないよね」

「浅漬けが何かは分からないけど、キュウリは知ってるわよ。カッパさんが好物だって言ってたから」

「カ、カッパ……?」

「そうよ」

「緑色で、黄色いくちばしがあって、頭に皿がある?」

「ええ。そのカッパ」


 人魚とカッパが知り合いだなんて。というか、カッパも実在してるのか。

 色々と浮かぶ気持ちは口にせず、私は何とも言えない微妙な顔で笑った。笑うしかない。

 今日は人魚を見たり、おかしな日だ。

 変な顔をしていたのか、私の顔を見て人魚がクスクス笑う。


「人間って怖いものだと聞いていたから、あなたみたいな人が居るだなんて思わなかったわ」

「私も人魚やらカッパが実在しているなんて思わなかった」

「人魚とかの話し、聞いた事がないの?」

「童話とか昔話ならあるけど、写真とかでは見た事ないから。想像上の生き物だと思ってたよ。多分、ほとんどの人もそうだと思う」

「そうなの? なら、あなたは人魚に会えた幸運な人なのね」


 金色の髪をした人魚がふわりと微笑む。

 川にいる人魚が自分に向かって微笑んでいる。なんて幻想的な光景なんだろう。

 夜の暗さと相まって、まるで絵画を見ているようだ。


「幸運、か。そうなのかな」

「あら、人魚と会ったのは不満?」

「いやそうじゃないけど」

「じゃあ何よ」


 不服そうな顔で唇を尖らせる人魚に私は苦笑を浮かべる。


「そんな事考えもしなかったから」


 人魚は不思議そうな顔をして首を傾げる。


「自分で言うのもなんだけど、人魚なんて滅多にお目にかかれるものじゃないわ。そんな人魚と会えたのだもの。幸運じゃない」

「……そうだね」


 何だか無理矢理な理論に思わず笑みが溢れる。

 幸運か。

 失敗続きで上手く行かなかった一日が、何だか救われた気がする。


「ところであなた、名前は?」


 唐突な質問に面食らって固まる私に人魚は続ける。


「ああ、まずは私よね。私はルーナよ」


 キラキラした宝石のように輝く瞳から注がれる視線が痛い。


「私は、田中理緒奈」

「リオナ、ね。ちゃんと覚えたわ」


 そう言った後、ルーナはじっと私を見つめてくる。


「な、何?」

「私も運が良かったなぁと思って。見つかったのがあなたで良かったわ」


 嬉しそうにルーナが微笑む。

 人魚が居るだなんて、大騒ぎになるのは間違いない。それだけならまだしも、捕獲されて何かされる可能性だってある。

 確かに彼女にとって、私に見つかった事は運が良かったのかもしれない。

 だけど、疑問はある。


「私があなたを騙して誰かに言うっていうのは考えてないの?」


 ぱちぱちと瞬きをする人魚の姿は幼い少女のようで愛らしい。

 ルーナは首を傾げて、さも当然のように答えた。


「だってあなた、私の事を誰かに言う気なんてないでしょう? 見れば分かるわ」


 信頼されるのは嬉しい。だけど、こうも無条件に信頼されるのは逆に心配になる。


「何か、人間を怖がってる割にはすんなり信用するね」

「そうかしら」

「普通だったら、こんな風に話したりしないと思うよ」

「人間に会うのだって初めてだし、陸をゆっくり眺めるのだって初めてだから色々と気になるんだもの。この機会に一気に知りたいの」

「そっかぁ」


 警戒心がなさ過ぎるんじゃないかな、この人魚。

 そう思ったけど口出さなかった。私だって街灯もないような土手を夜に一人で歩いているからどうこう言えない。


「それにしても、ここは本当に綺麗ね」


 ルーナは風に乗って舞う桜の花びらを眺めながらポツリと零した。

 桜の花びらが浮かぶ川。そこにいる人魚。クラクラしそうになる光景だ。

 どこか憂いを帯びたルーナの表情が非現実さに拍車を掛けている。


「……ねぇ、人魚ってさ普段は海の底で暮らしてるの?」

「ええ、そうよ。それで歌を歌ったり、踊りを踊ったり、楽しく生活しているの」

「へぇ、いいなぁ。楽しそう」


 ルーナの視線が私に向く。

 静かな瞳からは感情が読み取れない。それが、とても恐ろしかった。


「それじゃあ一緒に来る?」

「え?」

「あなた一人連れて行くのなんて簡単だもの。きっと皆だって歓迎してくれるわ。どうかしら?」


 誘惑するような声に頭がクラクラする。

 疲れているせいか、彼女の提案に乗ってもいいかもしれないと思ってしまう。

 そんな私にルーナは肩をすくめておどけたように言う。


「だけど、あなたの体がどうなるかは分からないけどね」


 その言葉に私は冷静さを取り戻した。

 人魚は水中でも息が出来るけど、人間は出来ない。

 もしもルーナの提案に乗っていたら私は死んでいた。まだ死にたくなんてない。

 私は小さく息を吐いて、恐ろしい程に美しい人魚に言う。


「……一緒に行くのは止めておく」

「それが良いわ」


 ルーナは満足そうな顔をしてそう言った。


「ねぇ、明日もここに来る?」

「来る予定はないけど、どうして?」

「じゃあ、明日も来て。私と話をしてくれたお礼に良いものをあげる」

「良いもの?」


 ニマニマと笑うだけでルーナは『良いもの』が何か教えてくれない。

 これはきっと何度も聞いても無駄だ。


「うーん……行けたら行くよ」

「待ってるわ」




 本当は行く気なんてなかった。

 だけど、私はまた昨日と同じ位の時間に土手に居た。

 あの期待に満ちたルーナの顔を思い出したら、行かないという選択肢はなくなっていた。

 昨日のあの短時間で人魚という非現実的な存在をすっかり受け入れてしまっている。それが何だかおかしくて、歩きながら私は笑みを零した。


 暗い夜道に人は居ない。昨日と同じで私一人だ。

 桜の花がはらはらと散っている。

 今年は咲いてすぐに散ってるなぁ、なんて思いながら川を見てみる。

 昨日と同じ様に、ルーナが居た。


「ルーナ」


 声を掛けて、ゆっくりとルーナに近づく。

 ルーナは私を見るなり破顔した。


「来てくれたのね、良かったわ」

「来ないと思ったの?」

「ええ。カッパさんに昨日の事を話したら『絶対その人間来ないぞ』って言われたから」


 ルーナの言葉に私は苦笑する。

 本当は来ない気だったなんて言ったら、この人魚は悲しむ。

 嬉しそうなルーナの顔を見て、私は思った。

 ちゃんと来て良かった、と。


「私ね、何日かここに居るの。でもね、流石に帰ろうかなって思ってたら昨日リオナが来たのよ」

「そうなんだ」

「それでね、これは絶対運命だわって思って、あなたに良いものを渡そうって決めたのよ」


 そう言ってルーナはニマニマ笑い出す。


「それで、その『良いもの』って結局なに?」

「渡すから、手を出して」


 言われるがまま、私はルーナの前に開いた右手を出す。

 そこにルーナの真っ白な手が置かれる。

 ルーナの手が離れた後、私の手のひらに残ったのは夜の僅かな明かりでも虹色に輝く花びらのような『何か』だった。


「綺麗だけど、これ何?」

「私の鱗よ」

「え、鱗?」


 私は自分の手の中でキラキラと輝く『それ』へ視線を落とす。

 人魚の鱗。きっと、いや確実に貴重なものだ。


「貰って良いの?」

「あげたんだから貰ってくれないと困るわ」


 そう言ってルーナは私を見てクスクス笑う。


「ずっと持っていてね。海に行く時があったらその時は絶対に持ってて」

「……何かあるの?」

「またあなたと会えるようにっておまじないよ。言い伝えがあるの。鱗を誰かに渡すと、その相手とは深く結ばれるって。あくまで言い伝えだけど、私の鱗を持っていればまたどこかで会えるかもしれないじゃない?」

「そうかなぁ……?」


 鱗を持ち歩いているだけでまた会える気なんてしない。でも、それは別としてもこの鱗はキラキラしていて綺麗だし、貴重な人魚の鱗だからお守りにするのは良いかもしれない。

 どうやらそれはルーナも同じだったらしい。


「まぁ、あくまでおまじないだし、お守りとでも思ってくれていれば良いわ。だって貴重な人魚の鱗なんだし」

「そうだね、私も同じような事考えてたよ。でも、私だけ何も渡さないのもなぁ」

「そんなの別に構わないのに」


 そう言いながらも、ルーナはじっと私を見る。

 美人に見つめられるのは慣れない。心臓がうるさく主張し始める。


「どうしてもって言うなら、それをちょうだい」

「それって、イヤリング?」

「ええ。キラキラしていて綺麗だから」


 私は鱗を上着のポケットにしまってから、自分がつけているイヤリングを取る。

 花の飾りの付いたイヤリングだ。

 特別貴重でも、高価でもない。むしろ安物のそれをルーナは欲しいという。


「こんなので良いの? 全然貴重でも何でもないけど」

「それが良いのよ。だってピンクの花よ? 海では当然花なんて見れないし、その淡いピンクがこの桜を思い出させるもの。だからそれが良いの!」


 期待に満ちた顔のルーナに見つめられて、私はもう片方のイヤリングも外した。

 そんなにこれが良いのなら、あげない訳にはいかない。


「私がつけてた物なんかで良ければどうぞ」

「ありがとう」


 差し出したイヤリングをルーナは大事そうに握って微笑む。

 安物のイヤリングでこんな顔をされるなんて。

 誰かをこんなに喜ばせる事が出来るのは、こっちも嬉しい。


「ここに来て本当に良かったわ。綺麗な景色は見れたし、あなたみたいな人にも会えたし」


 そう言って私を見つめるルーナの瞳は宝石のように輝いている。

 人魚と会話をして、鱗を貰っただなんてまるで現実とは思えない。だけど確かに起きている出来事で夢なんかじゃない。何だか、変な感じだ。


「本当は歌も聞かせてあげたかったんだけど、ここでは目立つし、それは今度会えた時のお楽しみね」

「人魚の歌かぁ。楽しみにしてるね」


 私とルーナは笑い合う。

 会えない確率の方が高いけど、約束の一つや二つしたって良いだろう。

 まるで早く帰れと言うように、一際強い風が吹いた。

 桜の花びらが風に飛ばされる。

 冷たい風に身を縮こませる私を見てルーナはクスクス笑った。


「そろそろ帰った方が良さそうね」

「……そうだね」

「なぁに、寂しいの?」

「いや、何か思い返したら人魚と会うなんて変な体験したなぁって思ったの」

「そうね。私も人間に見つかって無事でいるなんて思わなかったわ」


 ルーナが私の手を掴む。冷たい手だ。


「昨日はあんなにしょげた顔をしていたのに、今日は随分と良くなったわね。良かったわ」

「そんなに酷い顔してた?」

「ええ」


 あっさり肯定されて、私は微妙な顔をする。

 上手く隠せていると思ってたのに。


「大丈夫よ。きっと私だけしか気付いてないから」

「そうかなぁ」


 ため息混じりの私の言葉にルーナは笑う。

 ルーナは掴んでいた私の手をそっと離した。


「それじゃあね」

「……うん。またね」


 私はルーナにそう言って背を向けて歩き出した。

 川をチラリと眺めれば、水面には桜の花びらが浮いている。

 流れていく花びらをぼんやりと見つめながら、私は家路を急いだ。

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