小説①
宮風綾人が『小説』と出会ったのは小学一年生の三月に起きた、ほんの些細な出来事がきっかけだった。
休み時間に運動場で走り回ってコケた時に頭を打ち、膝を擦りむいた綾人を慌てて駆けつけた教師が保健室に連れて行ってくれた。
その際に養護教諭は「頭を打っているから少し安静にして、もし酷いようだったら病院に連れて行くから」と言ってとりあえず綾人は、ベッドで横になる。
だけど綾人は一向に眠くもなく、むしろ血を流して興奮気味なくらいだったので、運動場から聞こえてくる生徒たちの声が羨ましい、早く戻って皆と遊びたいと思っていた。
休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴って、運動場がひっそりと静かになって、綾人も途端に興奮が溶け出しくるように眠くなって寝た。
起きたら笑いを必死で堪えるような、噛み殺すようなクスクスとした音が聞こえてきて、それが隣のベッドから聞こえてくるのだとわかった。
目覚めた綾人はまったくの健康で、好奇心が旺盛するあまり、隣のベッドに誰がいるのか気になった。でもカーテンの仕切りは前にしかなく、綾人は無理やり下から潜り込むことで隣への侵入を試みた。
侵入には難なく成功した。だがベッドの主は全身を覆うように掛け布団の中に包まっていて、時々、あのクスクスした掠れ笑いと共に掛け布団が揺れていた。
綾人は好奇心のみを頼りに、掛け布団を思いっきり引っ剥がした。エビのように包まっていた少年は、啞然とした表情で綾人の方を振り返り、みるみるうちに顔が真っ青になっていって同時に腹の辺りをガサゴソと動かしているがわかった。
何を隠しているんだ、自分にも見せてくれと言わんばかりに綾人は、少年に覆いかぶさった。
少年は思ったよりも貧弱で、あまり抵抗を見せず、というよりもそのブツを隠しきれないと悟ってか、綾人はそれを奪い取ってから一気に好奇心が冷めていくのを感じた。
それは単行本サイズの分厚い『小説』だった。
綾人は小一ながら既に教科書などの活字や数字が嫌いになっていて、家でも読み物といえばコミックスなどの漫画しか読まなかった。
少年は手に持った光るペンライトをぎゅっと握りながら言った「……返してよ」と。
綾人は聞いた「面白い?」と。
少年は言った「面白いよ」と。
綾人は聞いた「いつもここで読んでるの?」と。
少年は一瞬戸惑った様子を見せたが、一度神妙な様子で頷いてみせた。何故かこの時、綾人は小説を返さなかった。
少年は室内にいるであろう、養護教諭の存在を気にかけながら少し語気を強めて「返して」と言ったが、綾人は返さなかった。
「これは俺が貰う」
「どうして」
「先生に言いつけるぞ」
「そんな……」
声を掠れさせた少年の顔は、一気に地獄にでも堕ちたかのような悲惨さを見せて俯く。正直なところ綾人にとって小説なんて読みたくも興味もなかった。でも何故か悔しかった。
皆が学校でワイワイと楽しそうにしているのに、保健室でひっそりとベッドに籠もって笑いを堪えているこの少年が許せなかった。
綾人は自分の知らない楽しみ方があるなんて理解が出来なかった。友達と外で遊んだり、家でゲームをしたり、夕方アニメを見たり、漫画を読んだりしていない奴がいるなんておかしいと思った。
綾人はすぐさま仕切りの下を潜り抜けて、腹に小説を挟んで保健室を出て、クラスに戻った。
その日の放課後、綾人は友達と近所の駄菓子屋に一緒に行く予定だったが、怪我を理由に断って家に帰った。夕方アニメまでまだ時間があったので、再放送のドラマを流し見していたが、ふと思い出したかのようにランドセルを開けた。
いつもなら家に帰ってきて翌日登校するまで一度たりとも開けないランドセルだが、その日は例の『小説』が入っていた。
小説を開くと早速文字があった。大文字でタイトルが表記されていて、その少し下に著者の名前が英語で書かれていて読めなかったので次の頁を捲ったら白紙でおかしいなと思って、また頁を捲ったら一気に文字の濁流が始まった。
綾人も負けじと文字の羅列を目で追った。最初の一行は読めたが、二行目で早速読めない漢字があって、飛ばして読んだ。
何とか一頁を読んだ頃には三十分が経っていた。途中から既に文字の意味を見失っていて、ただその言葉が、単語が果たして自分には読めるのかという名目のもと読んでいた。
結果、小説の内容などてんで分からずじまいだったが、勉強して偉くなったような気がした。脳みそを使い果たした綾人は、白痴のように再放送ドラマを見ていたらいきなり主演の俳優が「お前には分かったのか? 俺にはお前の気持ちなんて分からない!」と修羅場よろしく女優に向かって叫んでいた。
綾人はハッとなって少年には自分の読めなかった漢字が読めたのか? という疑問が湧いた。それに少年は噛み殺すように笑っていて、それはこの小説を理解して楽しんでいる、という証で実際に少年は「面白いよ」と言っていた。綾人はその時の気弱な表情を思い出した。
綾人は床にだらしなく寝転んだままもう一度小説を手にとって仰向けに頁を開いてパラパラと捲ったら、途中で紙か何かが顔面に降ってきて、驚いた。焦った綾人は小説を顔面に落として鼻に直撃し、角か頁の端かなんかが目に入りそうで危なかった。
綾人はうめき声をあげて痛む鼻を押さえながら、薄っすらと目を開けて、とりあえず落ちてきたのが何だったのかを確認した。やはり紙だった。長方形で、紫陽花みたいな花がくっつけてあって、上部には小さな穴に紐が結んであった。裏を捲ると右端に【らいでん 嵐】と子供の文字が書かれていた。
「らいでん……あらし」
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