裏切り者


 午後三時過ぎ。室内にはキーボードを叩く正確な打鍵音だけが静かに鳴っている。ヘッドホンを装着する嵐の傍らで、パイプ椅子に腰掛けた茉希歩は、ノートに書き込まれたプロットや世界観などの最終チェックを行っていた。少しでも違和感を抱いた部分があれば、メモを取るように嵐から頼まれていたのでさっそく書き込んでいたら扉がスライドされた。


「あ、二人共、お疲れ様」

「ただいま早川さん」

「嵐の進捗状況は?」


 夢中になって二人が入って来たことに気が付かない嵐を見て茉希歩は「順調そうだよ」と返した。安心した綾人と勝俣は、部屋の隅に折りたたまれたパイプ椅子を広げて座る。


「午後のミステリと発想基礎のまとめを二人にも送っておいたから」

「マジですか綾人さん。どうもありがとうございます」


 茉希歩は大袈裟に頭を垂れてみせる。


「あ、二人共もう来てたんだ。てことはもう放課後か」

「ああ、順調みたいだな雷電。少し一休みしようぜ。お菓子買ってきたからよ」


 そこから嵐も混じってしばらく四人で原稿の進捗を見せてもらったりした。四時間目の創造・発想方基礎の先生がいつもの教員とは違い、臨時教員として五嶌馨が来ていたので勝俣がさっそく真似をしている。


「ええ良いなあ二人共、五嶌先生の授業だったら私も出たかったのに」

「全然話し入ってこないからある意味大変だったけどな……。じゃ、そろそろ俺たちもお暇させてもらうよ。帰るぞ勝俣、茉希歩」

「え〜私も〜?」

「え〜俺も〜?」


 同じようなリアクションをする二人を綾人は面倒くさそうに見つめる。


「嵐に残された時間はあまりないんだ。試験が終わったら幾らでも時間はあるだろ。ほら、帰るぞ」


 しょぼくれた二人を連れて綾人は部屋を出た。嵐は苦笑いで見送り「頑張るよ」と言って、頬を叩き原稿に向かう。


 午後五時が過ぎた頃、B班の部屋が再びスライドされた。嵐が全然気付かないので、近くの机に差し入れのスポーツ飲料をドンと置いた。

 そこで嵐は気が付き、とても驚いた様子を見せた。


「びっくりしたあ……」

「それ差し入れ、皆はいないの?」

「え、いいのありがとう、野崎さん。夜までやるつもりだったからすごい助かるよ」


 嵐は「ちょっと休憩、いただきます」と小声で呟いてからごくごくとスポーツ飲料を飲んだ。


「皆はさっきまで居たんだけどもう帰っちゃったよ」

「入れ違いだったのね。なんか邪魔しちゃったわね」

「ううん、そんなことないよ。それより野崎さんこそ体調大丈夫?」


 嵐はノベルレンズを一度ケースに戻し眼鏡をかけながら聞いた。


「寝たら少しマシになったから様子でも見に行こうかなって」

「そっか。気にしてくれただけでも嬉しいよ。野崎さんが作ってくれた世界観はばっちり機能してるからね。完成まで楽しみにしててよ」

「へぇ……自信はありそうね。楽しみにしてる」


 野崎は珍しく微笑みを見せた。嵐は珍しいものを見てしまった様子のあと、照れたように頭をかいてはにかんだ。


「ずっと気になってんだけど野崎さんってさ、昔、僕と何処かで会ってない?」

「え?」


 ほんの数秒間、野崎は言葉に詰まった様子を見せたが「雷電の地元はどこ?」と聞き返し二人は少しの間、互いの地元を教え合った。


「だから私たちが会ってるなんてありえないのよ」

「え? うん……そうだよね。気のせいだよね……」

「じゃ、アタシはもう帰るから」

「うん……あれ……僕……なんかねむ」


 野崎はがくりと首が落ちそうになった嵐を支え、机に突っ伏すように誘った。チェアに座ったままの嵐を横にスライドさせて自分がPC前に立つ。

 一度、嵐の顔に至近距離まで近づき呼吸を確認した。


「気のせいだったらいいのにね……」と静かに呟いた。


 学院を抜けた三人は途中までだらだらと他愛もない会話をしながら下校した。

 男子寮は二つあるので勝俣とは途中で別れた。

 その際に勝俣は綾人の耳元で「リンゴ、勝手な抜け駆けは禁止だからな」と謎の発言を言い残し去って行った。


 綾人と茉希歩は夕焼けが照らす道を歩いていた。

 茉希歩はまだ帰りたくないとばかりに歩調を緩めるので、綾人もすたすたと先に帰る訳には行かず何となく歩調に合わせる。


「あーちゃんほんとに一人で大丈夫かな?」

「嵐なら大丈夫だろ」

「そうだといいんだけど……やっぱり私戻ろうかな」

「茉希歩は昔から嵐に過保護すぎないか?」

「そうかな? でもあーちゃん私が見張ってないといつも危ないから。それに覚えてる? 綾人があーちゃんの本勝手に奪った時のこと」

「ああ、お前が俺の背中を蹴ってきてな」

「あれは蹴ったんじゃない……粛清だから」


 茉希歩は恥ずかし気に頬を染めていた。


「でも懐かしいなあ。あれからいっぱい三人で遊んだよね。けどおばさんが亡くなって綾人がいつの間にかいなくなって、それでもこうして私たちが再会出来るって、やっぱり奇跡だよ……」


 郷愁的な思いに浸る茉希歩は、薄っらと浮かび上がる一番星を見上げて指をさした。


「ねぇ、あの日の丘で見た流星群。覚えてる?」

「ああ……よく覚えてる」

「あれこそ奇跡だったよね。再会して私思ったけど私たちってやっぱり小説の神様に導かれてるんだよ」

「小説の神様ね……俺にとっては嵐様様だな」

「そうだよ。あーちゃんがいなかったらきっと私も綾人も小説なんて書いてないしね。あれ……そう考えたらやっぱりあーちゃんって本当の神様なのかな?」

「フッ……まさに親バカだな」

「フン! 別に過保護でも親バカでもいいし! あ、そうだ。この前の名人戦のあと遊びに行く予定だったの全部駄目になっちゃったからさ、試験乗り切ったら今度こそ遊びに行こってあーちゃんには先に言ったんだけど」

「ああ、いいんじゃないか」

「それでさ、栞菜ちゃんと勝俣君も誘おうかなって思ってるんだけど、いいよね?」

「ああ、それを聞いたら勝俣はきっと泣きながら喜ぶぞ」


 ちょうどいつもの分かれ道についた茉希歩は、嬉しそうに笑って「うん、じゃまた明日」と言う。


「ああ」


 綾人は軽く手をあげて寮へと歩いて行く。

 少し歩いた矢先に「綾人」と茉希歩が少し大きめの声で呼びかけてきた。


「どうした?」


 西日が茉希歩と重なるように逆光となって表情がよく伺えない。


「私たち、三人なら大丈夫だよね? この試験を一つ乗り越えて私たち……夢に一歩近づけるよね?」


 その声は静かだが心配さを帯びた憂いがある。


「……ああ、きっと大丈夫だ。信じろよ、小説の神様を」


 今度こそ互いに寮へと帰って行く。

 寮のロビーに入る手前になって、綾人はピタリと足を止めた。


「あいつらはいつだって唖なんだよ、茉希歩」


 野崎は嵐の閉じた右目を無理やりこじ開けて様子を伺う。次にケースの保存液に浸してある嵐のノベルレンズを、そのまま自分の眼球に装着する。

 嵐のレンズカスタマイズはほぼ初期設定のままで、野崎は入学したての頃を思い出していた。

 まだB班との関わりも何もなかった頃の自分と、現在の自分を無意識に遡ろうとする思考を振り切り作業を再開する。

 立ったままスクリーンセーバー画面になっているPCを弄り、原稿画面を開く。

 デスクトップ画面上段中央に配置された超小型カメラが、野崎の瞳に装着されたノベルレンズを識別確認している。警告画面は起きない。

 原稿は書きかけの文章で止まっている。ざっと一から全体の流れを読み返してみた。基本的にはプロット通りに進んでいるが、部分部分に嵐の独創が混じっていてそれがいい塩梅なスパイスとなっていたので多少驚いた。

 この作品の設定には野崎がノートに表記してない裏設定が実はあって、嵐はそれを感じとったのか、そうともとれる示唆を文章として本編に迷惑が掛からない程度に遊びを入れていたのだ。


「何を迷ってるのよ……」


 野崎はすぐさまコマンドボタンとAボタンを同時に押し、全文を選択状態にする。

 左下に表示される文字数カウンターは既に6万字を有に超えていた。

 心臓が鐘を鳴らし、冷たい汗が野崎の額に張り付く。ごくりと唾を飲んだ。

 そのままの姿勢で硬直したように一分間迷ったのちに、野崎は微かに震える人差し指でバツ印を叩いた。

 活字で黒く埋まっていた原稿ページは、一瞬にして真っ白に変わり果てる。

 文字数0文字。

 額の汗を拭い、一つ冷たい息を吐いてから保存マークをクリックした。のと同時に扉がスライドした。

 心臓が飛び跳ねそうになった野崎はハッとして、扉側から入ってくる者を見た。

 驚きのあまり目を大きく見開く。

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