第52話 月は見えずとも(11)


 美桜が教室に駆け込むと、異様な光景が広がっていた。


「ドクちゃん、ようやったで。さすが、僕のドクちゃんや」


 自分の席に座り、大きな黒い気持ちの悪い蟲を手の甲に乗せ、まるで鳥を愛でるように撫でる陸。

 その前で、仰向けに倒れている男子生徒の顔には赤黒い——張り巡らされていた糸と同じような色のものが何重にも重なって覆われていた。

 それが見えている美桜には、その男子生徒の顔は見えない。

 だが、身長と髪、それにこの呪いの塊のようなものにすぐやられてしまうのは、どう考えても伊織でしかないとすぐに気がつく。


 さらには、意識を失い力なく椅子や机にもたれかかっている他の生徒たちの手首にあるブレスレットと、その塊が糸のように繋がっている。

 美桜には全て見えているが、何があったかわからずにいる他の生徒たちは同時たらいいのかわからずに怯えながら、陸と床に倒れている伊織から距離をとって壁側に身を寄せていた。


「何よ……これ————……」


 美桜は声を震わせながらそう言うと、一目散に伊織に駆けよる。


「あれ、ミオちゃん、なんでいるの? 今日は休みじゃ……」


 陸はいるはずがない美桜が教室に現れて驚いたが、それでもどこか嬉しそうにすぐにニコッと笑った。


「なんや、助けに来たんか? ミオちゃんがおらんところで、やるはずやったんやけどなぁ。まぁ、しゃーないか。人生そんなにうまく行くことばかりでもないやろ。もうこうなって残念やけど、そいつはもう終わりや。今更助からな————……」


 だが、美桜は陸の声を無視して、伊織の顔に触れる。

 たったそれだけ。


 ————バチッ


 単純に、美桜の手が触れたところから、伊織の顔を覆っていた呪いの塊が弾けるような音を立て燃えていく。


 ————バチバチ


 赤黒くて、気色の悪い、呪いの塊が弾けて、燃えて、溶けてなくなっていく。


 生徒の手首のブレスレットとつながっていた糸もプツリプツリと消えてなくなりパワーストンが弾けて飛んで宙に舞う。

 美桜の放つ光が反射して呪具の一部であったそれらが、キラキラと輝いた。



「月島くん! 月島くん!!」


 もう手遅れかもしれない。

 それでも、溶けて消えていった呪いの隙間から、必死に声をかけた。

 耳も目も、鼻も口も……覆われていた呪いの塊が、美桜が触れただけで消えてしまった。


「な……なんやこれ、一体どうして————! こんなん、反則やん……!!」


 自分の呪術に自信のあった陸は、触れただけで……たった一瞬で全てを浄化してしまった美桜の力に驚くしかない。

 ここまで強い霊能力を持つ人間を、陸は初めて目の当たりにしたのだ。

 あの清めの塩————それを作ったのが美桜だと確信してはいたが、ここまでの力を持っているとは、思っていなかった。



「月島くん、大丈夫?」

「……はっ……はぁはぁ……だい……じょう——ぶ……だ」


 一人うろたえている陸を尻目に、美桜は伊織の意識があるのを確認するとホッとする。


「死んだらどうするかと思った。何もできないんだから、無茶しないで、私が戻るまでじっとしていればよかったのに……」

「そんなこと……できるか…………お前が、あれを見て嫌なことを思い出して、辛い思いをする前に、なんとかしたかったんだ……————」

「だからって……————っ!!」


 会話を遮るように、蟲が羽音を鳴らして美桜の後方に迫る。

 気持ちの悪い音に振り返ると、蟲はピタリと止まり口からまた呪いの塊を吐き出そうとしていた。


「ピシャアアアアアア」


 美桜の顔に赤黒い塊が飛んでくる。

 だが、それは美桜に触れることなく消えてしまう。


「ピシャアアアアアア」


 何度やっても、結果は同じ。


「なんでなん、なんで、通用しないの!? 僕のドクちゃんの呪いが……なんで————!!」


 陸が何をしても、美桜の前では無意味だった。


「小日向くん……あんた、一体何がしたいのよ————……それに————」


 美桜が気持ち悪さに顔をしかめながら、蟲に触れる。


「ピシャアアアアアア……————」


 くの字の足をばたつかせ、蟲は逃げようと必死に暴れているが、美桜の手が触れたところから崩れ落ちるように消えてなくなった。


「あんた、何者?」




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