第12幕 リリーの瞳
すべては遊衣さんの副業がはじまりだった。〈リリーズガーデン〉ではアルバイトの掛け持ちは自由だったものの、働く〝メイドサン〟の安全を守る義務があると、伊佐屋さんは思っていたらしい。
なんと伊佐屋さんは実際に〈エンゼルカチューシャ〉に客として出かけて、店の雰囲気とかを確かめたのだそうだ。だがユニークなサービスがあるだけで、店はいわゆるサブカル系のよくあるメイドカフェだった。
「わたしは何気なくそのことを彼に……リオンに報告した」
「リオンっていうのはオレのミドルネームね」
ジェイコブさんは得意げにウインクした。
「ただ、この人がまさか日本にいるとは思わなかった。そこが誤算だった」
「なにが誤算だよ。結局オレたちはふたりとも独自のルートで〈エンゼルカチューシャ〉とその母体企業のクラインボトルを調べてたってわけだ。それで、関連企業のポルノサイト運営や、ビデオに出演した女性たちの出自から、メイドカフェとのつながりをあぶり出した。だがな、ショウマに任せてたらユーイはあの日撮影に連れ出されてたかもしれない。そういう意味ではファインプレーだったな」
「そういえば」
また亜実ちゃんが質問する。
「あの日、いわゆるロバートさんが都合よく〈カチューシャ〉にいたり、盗聴マイクを持ってたのも――」
ジェイコブさんはぴたりこちらを指差す。
「まぁ、俗に言う〝内偵〟中だったというわけだ。社長があんな支店に顔を見せたりして動きが妙だったから調べてたんだが、運悪くユーイがターゲットにされてたと知って、バタバタと行動を起こしたわけさ」
「なにが行動だよ。現地では大変な騒ぎだったのに」
「でもあの店の評判が落ちないようにメディアに手も打ったし、結果オーライだろ?」
「ただイタズラめいた大騒ぎがしたかっただけでしょう?」
このふたり、本当に仲がいいんだな、とわたしは思った。
「あの、チャットっていつから入れ替わってたんですか?」
「アミが話題に〈エンゼルカチューシャ〉というワードを出してからだ。それ以前から、オレは情報収集のために、故意にあの会社の悪評を関係各所に拡散していた。それがいろいろめぐり巡って、相手の出方に影響を与えればよし。ただヤミズは懲りないやつで、代わりに君たちの動きがあわただしくなった。だからいっそのことああいう手段に至ったというわけさ」
なるほど、それでお父さんが急にわたしに連絡を……。でもお父さんがドキュメンタリー製作の仕事をしてなかったら、こんなに敏感には反応しなかったかもしれない。それにしても、アカウントを乗っ取る前からこの人は亜実ちゃんのチャットを監視していたということになる。そこはあんまり褒められたものじゃない。
「あと、できればショウマの店のメイドたちに会ってみたかった。あのレストランでのお喋りは楽しかったよ」
わたしは全然楽しくなかった。遊衣さんがどうなるかわからない瀬戸際だったのだ。
「オーナーならお店に来ればよかったのに」
「オレはショウマに好かれてないんだよ」
「こういう騒動を起こすから、近寄らせたくないんです、あなたを」
「なにはともあれ、決着はついた。おまえだって、いざとなったらあいつを破滅させるためにいろいろ手を打ってたんだろ。今日の電話は鮮やかだったぜ」
「……」
伊佐屋さんは押し黙った。
なにか、歯車が噛み合っているのかいないのか、わからない状況だったけど、この人たちはそれぞれの手段で遊衣さんを――いや、わたしたちを護ろうと奮戦していてくれたらしい。たかがメイドのウエイトレスのために……。
でも、このふたりはきっと、人身売買から少女たちを救って、メイドの学校を造った張本人なのだ。それがどういう経緯で日本にやってきたのかはわからないが、わたしにはなんだかアメリカンコミックのヒーローのように見えた。
「あの」
立場上、沈黙を守っていた遊衣さんが小さく声をかけた。
「亜実たちの話によると、そこのオーナーさんってあたしのこと尾行したんだよね、〈カチューシャ〉からファミレスまで」
「うむ」
「店長って、あたしたちの履歴書とか顔写真とかも、オーナーに見せてたの?」
その問いかけに、伊佐屋さんはハッと顔を上げる。
「そんなことするはずがない。この人は、君たちが思っている以上に危険な人物なんだ」
なんとなくその意味はわかった気がする。
「じゃあ、どうしてあたしの顔がわかったんだろ。〈カチューシャ〉での名札は偽名だったし……」
遊衣さんは亜実ちゃんの顔を覗き込むが、亜実ちゃんも心当たりがない、という風に首を振っていた。
その傍らで伊佐屋さんは、今まででいちばん大きなため息をついていた。
「あなたという人は――」
ジェイコブさんはフロアを大きく歩き回りながら、やがて壁に掛けられた大きな絵画の前で立ち止まった。
「この店の女神――リリーがすべてを教えてくれたのさ」
そう言って絵の中の少女を指差す。
わたしはハッとして絵の方に駆け寄った。
そして目を皿のようにして、その絵の普通ではないところ――その〝小さな違和感〟を見つけ出そうとした。そして――。
「あった」
わたしは、リリーさんが腕にかけたバスケットの、白い布がかけられて影になった小さな隙間を指で示した。
「ここに穴があります!」
「ご名答」
針で突いたような小さな穴がそこにあった。なにかおかしなところがある、と前もって知っていなければ完全に見落としてしまいそうなわずかなものだった。
「監視カメラか……」
「女神の眼、と言ってほしいな」
伊佐屋さんが頭を抱える。
「おかしいとは思ってたんだ。先ほどヤミズがこの店を訪れたとき、あまりにもタイミングよくあなたも現れたから。こういうことをしかねないから、防犯カメラなどはすべてセキュリティを万全にしていたが……迂闊だった」
「まだまだだな、ショウマ。だいたいこの絵を発注したのはオレだぞ」
「今後、あなたの厚意はなにも信じないことにする」
睨む伊佐屋さんの視線を意に介することもなく、ジェイコブさんはHAHAHAと笑った。なんだかんだでやっぱり仲がいいのだろう。
「あの、リリーさんって何者なんです?」
訊きにくいことを訊いてくれたのは遊衣さんだった。わたしも亜実ちゃんも、突然のことに緊張感を募らせる。伊佐屋さんに訊こうとしても、いつも見えないカーテンを降ろされてしまう〈リリーさん〉の秘密。
「リリーはな……」
ジェイコブさんの瞳が不意に愁いを帯びた気がした。彼が口を開こうとするより前に、伊佐屋さんはカウンターの奥へ行ってしまった。
「君たちも薄々感づいてると思うけど、オレとショウマは人身売買組織をぶっ潰す仕事をしていた。リリーはそこで助けた移民の少女の一人だ」
やはり彼女は実在の人物だったのだ。
「親元へ帰せない子供たちは、
亜実ちゃんが伊佐屋さんの方を振り向くが、彼は依然として店の準備を続けている。
「だが、リリーには時間がなかった。悪性の病気でね」
部屋の空気がピンと張りつめた気がした。
「まだまだ修業中だったが、二週間だけオレの屋敷でメイドとして働いてもらった。それが彼女の夢だったからね。あの絵は、その時撮った写真を元に描き起こしたんだ」
ジェイコブさんが見上げる先に、リリーさんの朗らかな笑顔があった。
憧れのお屋敷で、緑に囲まれて微笑む少女。不自由なく働くことが〝夢〟となる世界で、ようやく幸せを掴んだ瞬間を、切り取った絵画。
「間もなく彼女が亡くなって、ショウマは後を追うように仕事を辞め、去っていった。その後どこかを放浪してたみたいだが、何年か経って急に日本でメイド喫茶を開きたいと言ってきたんだ。だからオレは少しだけ支援をしたというわけさ」
遊衣さんも亜実ちゃんも、どことなく腑に落ちない顔をしている。わたしだけが、伊佐屋さんがかつてメイドを育てる学校で教師をしていたという過去を知っていた。だが、このタイミングでわたしが口を挟むことはできない。
それにしても伊佐屋さんとリリーは、教師と教え子というだけの関係だったのだろうか。
勘の鈍いわたしでも、そんなはずがないことくらいはわかる。
特別な関係でなかったら、遠い地で開いたお店に彼女の名前をつけたりしない。そして紅茶を作りながら絵に話しかけたりすることも――。
そしてあえて説明しなくても、そのことは亜実ちゃんや遊衣さんとも共有できたはずだ。だからそれ以上、下世話な質問をすることはなかった。
「なかなかいい店じゃないか、なぁ、ショウマ。さっきの紅茶も絶品だったぞ。メイドもみんな可愛くて頼もしい」
そう言われると照れる。しかし伊佐屋さんが釘を刺した。
「うちの
ザツボクという言葉がよくわからなかったが、すぐにピンときてちょっと腹が立った。ひどい言いぐさ! それにしても伊佐屋さん、ジェイコブさんに対しては敬語を使ったり友達みたいに言い放ったり。ほんとはどういう関係なのだろう。
「あの! 店長さんは、オーナーの執事だったんですか?」
亜実ちゃんが瞳をきらめかせて訊いた。たぶん〝執事〟という単語が彼女にとっては魔法のキーワードなのだろう。
ジェイコブさんは意地悪そうに口の端を拡げて、
「オレの弟だよ、そこにいるのは」
冷蔵庫からケーキを取り出す伊佐屋さんの横顔が、ほんの少しほころんだような気がした。
家に帰り、母親と食事を済ませ、お風呂に入った。
湯船に浸かりながら激動の一日をダイジェストで振り返ると、顔から火が出そうですぐにのぼせてしまった。
でも、大切なことはひとつだ。お店に行くまでの不安が今はない。あのときは顔を合わせることも難しかった三人が、今は固い絆で結ばれているような気がする。それだけで、わたしにとっては今日という日の意味があるような気がした。
お風呂を出て時計を見ると午後八時三〇分。スマホを使ってボストンとの時差を確認すると、向こうは朝の六時三〇分ということになる。お父さんのいる世界では、こんなに濃密だった今日がまだ始まって間もないということに困惑する。
わたしは、迷惑かなと思いつつもスカイプを起動してお父さんのアドレスに発信した。
「あ、もしもし」
『いのりちゃん? おはよう!』
「そっちは朝早いけど、よかったかな」
『ああ、パパは早起きだから大丈夫。どうしたの?』
わたしは少し落ち着こうとして深呼吸した。
「あ、ううん、えっとね……。この前わたしに忠告してくれたでしょ、〈エンゼルカチューシャ〉のこと」
『ああ、それがさ。こっちでも話題になってしばらくフォーカスしてたんだけど、今日になっていきなり社長が退陣しちゃって。幹部陣も総入れ替え、事業は分解、日本はどうなってんの?』
わたしは苦笑してしまった。光の速さで事態が進行している。
「それはよくわかんないんだけど、お父さんのおかげでわたしの友達が助かったの。ありがとうって言おうと思って」
『そっかぁ~。でも最初はびっくりしたよ! ママからいのりちゃんがメイド喫茶でバイトしてるって聞いてたからさ』
「え」
寝耳に水だった。今日に至るまで、母には喫茶店でのバイトとしか説明してないはずだ。誰がどのルートであの人に〝メイド喫茶〟という情報を? え、でも待って。お父さんはお母さんから聞いたって……?
「あの、お母さんが連絡したの?」
『うん、いのりちゃんのことはけっこう話してるからね』
「ふたりって、連絡とってるの?」
『ていうか、そういう約束で離婚してるからね。娘のことはなにからなにまで共有するって』
わたしは呆然としてしまって、それからどんなことを話したのか記憶が飛んでしまった。
通話の切れたスマホを手に持ったまま、わたしは部屋を出てリビングに向かった。
往年のアイドル女優・悠木律子がソファに寝ころび、うんうん唸りながらマッサージ器具を背中に当てている。
「あー、ちょうどよかった。手伝って! と、ど、かないのー!」
それを無視して母に近づく。
「お母さん!」
「はい?」
「あ、あのさ、わたしがその、メイド喫茶で働いてるのって、誰に聞いたの?」
母は起きあがって肩をぐりぐり動かしながら、ぼんやりとわたしを見た。
「誰って。採用が決まった日にあちらの店長が連絡よこしてきたわよ。なんか、たまにカタコトが混じる人。お嬢さんを預かりますのでよろしくって。あと、うちはメイドカフェですが、こうこうこういう仕事で、はしたないことはさせませんのでご安心くださいって」
い、伊佐屋さんが親に連絡を!?
「今のアルバイトって、そんな律儀に連絡してくるのかって感心しちゃった。ほら、あたしバイトの経験とかないからさ」
わたしは息を荒げながら、
「でも、お母さんその時、地方で舞台やってたでしょ?」
「携帯電話にかかってきたわよ。あんた教えたの?」
わたしは無言だった。このままではミステリーになってしまう。ちなみにお店には、保護者の連絡先として芳野のおばさんの番号を渡していたのだ。でもおばさんのことだから、直接母親に連絡が行った方がよいと判断して転送してくれたのかもしれない。
それにしてはこの人、わたしがどんなお店で働いているのか、知らない素振りで聞いてきたこともある。
わたしがそのことについて問いただすと、さっきまで母親だったその人は、急に悠木律子の顔を作ってきた。
「だって直接聞きたいじゃない、娘の口から。知らないふりするのなんて造作もないわよ。演技演技♪」
わたしはその場に崩れそうになった。まだ湯の熱が頭に残っている。
結局はしかるべくして母から父へ、父からわたしへ、メドレーのように連絡がつながったのだった。惜しいのはお母さんがお店の名前をお父さんに伝えなかったことである。
しかしそのおかげで、わたしは遊衣さんと向き合うことができた。
そう、わずか数時間前の出来事だというのに遠い昔に感じてしまう。駅前の広場で繰り広げられた、世にも不思議な〝青空演劇〟。
カーテシーをするわたしたちに浴びせられる、万雷の拍手。
わたしはその時、間違いなく悦びを感じていた。心の底から震えていた。
無駄だと思って封印してきた、子役時代のあの興奮が、一瞬にして頭の中に花開いた。そのときは不思議にも、トラウマとなった記憶はどこかに追いやられていたのだ。
なんだか、一時の
「あ、そうだ。今度そこの黒鳥ホールでさ、夏にやってたお芝居のリバイバル公演があるんだけど、あんた観に来る?」
さりげなく母が誘う。家の近所で舞台がある時はいつものことだ。そしてわたしが素っ気なく断ることに例外はなかったのだが、まさに今日がその例外だった。
「わ、わたしは行かないんだけど、友達が興味あるって言ってたから、チケット預かっとく」
その言葉に、母は目を丸くしていた。
「ふうん、そう。何枚?」
「……三枚」
そう、三枚。誰が道連れになるかは言うまでもない。母はぱちんと手を叩き合わせた。
「あ、でも念のため多めにとっとくわ。あんたが急に来たくなるかもしれないし」
だからいいって。そこにわたしも入ってるんだって!
妙に浮き足立った母親を残して、わたしは自分の部屋に戻った。心臓がドキドキしている。決してこれは湯あたりのせいだけではないだろう。
いつだったか、ボタンをすべて掛け違えてしまったような最悪の日があったと思う。だけど今日は、そのボタンがひとりでに正しい場所に収まるような、そんな一日だった気がする。
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