第4幕 厄日
いやなことがある日というのは、朝からなにかボタンを掛け違えたような微妙な失敗が続くものだ。現国の参考書を家に忘れてきたり、生徒手帳を落として校内放送で思いっきり呼ばれてしまったり。しかし学校でのそんな出来事は、放課後にバイト先で起きたことに比べれば、まさに前座のようなものだった。
今日のシフトは遊衣さんとふたりきり。しかし開店三〇分前にお店に行くと、そこには伊佐屋さんしかいなかった。
「えっと、香山さんは……」
「遅刻だ」
静かな口調で店長は言った。
礼儀作法に厳しい伊佐屋さんのことだから、きっと遊衣さんは叱られてしまうだろう。でも、その口調は不思議ときついものではなかった。いつも通り言葉みじかな話し方だが、なんとなくそこに込められた機嫌というものはわかる。
メイド服に着替えて下に降りると、伊佐屋さんは今日の紅茶を作っていた。基本的に紅茶は注文してから淹れるのだが、その日の〝葉っぱのご機嫌〟を窺うために、事前にお茶を作ってみるのだという。
伊佐屋さんはぐつぐつに沸騰したお湯を、ずんぐりとした丸いティーポットに注ぎ込む。それも胸くらいの高さから頭の方まで鍋を上げて、小さなポットの口に器用に注ぐのだ。なんだか、料理番組で塩を散らすときのようなプロっぽい手さばき。
ティーポットにはあらかじめ紅茶の葉が入っていて、お湯を注がれると茶葉が上へ下へと動き出す。
「リーフダンス。ジャンピング現象とも言う。今日はタンゴを踊っている」
なるほど、店長がご機嫌なのは、この葉っぱの動きが軽快なせいだろう。
あとで調べたところ、この「ジャンピング」という現象は、お湯に含まれた空気の泡が茶葉にくっつき、浮力と対流で動き回ることによって起きるのだという。これによってポットの中で紅茶の成分が自然に染み出し、容器全体に行き渡る。棒でかき混ぜるのではなく、葉っぱが自分で成分を
「ボヌジュルーネ、リリー」
ふと呟いた伊佐屋さんの言葉に、わたしは突然どきりとなった。
彼は絵の中のリリーさんに声をかけたのだ。そんな店長の顔は今までになく穏やかで、口元に笑みが浮かんでいた。
わたしたちがどんなに一生懸命働いても、伊佐屋さんが笑うことはない。お客さんの笑顔も「おいしかった」の一言も、彼は無言で頷くだけだ。そんなクールなところが街のおばさまにとっては人気だったが、わたしたちバイトの〝メイドサン〟にとっては不評だった。
わたしは今、決定的瞬間を目にしているのかもしれない。
そもそも〈リリーさん〉とは何者なのだろう。
絵の中の少女。リリーズガーデンの主。そしていつ何時も、お客さんさえ飛び越して、カウンターの中の伊佐屋さんとだけ目を合わせ続ける存在。
それは実在する人物なのだろうか。それとも、伊佐屋さんの頭の中だけに住み着く妖精のようなものなのだろうか。
わたしは急に、先日亜実ちゃんが話していた「花嫁さがし説」を思い出してしまい、どぎまぎしてしまった。そんなこと今まで意識したこともなかったのに。
「なに突っ立ってる。もうすぐ開店だぞ」
「え、あ、はいっ」
「なにか聞きたいことでも?」
「えっ、いや……あ……」
わたしはこの時、無性にリリーさんのことを聞きたくなってしまった。多少機嫌のよい今なら、なにか教えてくれるかもしれない。そして今お店には、わたしと彼しかいない。
なんだろう、三人のバイトの中で、わたしだけがリリーさんの秘密を知るという、イタズラ心の詰まったアドバンテージが、なににも代え難い魅力となってわたしの脳内で渦巻いていた。天使とも悪魔とも思えるなにかが囁き続ける。聞け、聞いちゃえ。聞けばきっとスッキリするぞ。
日常に潜む小さな変化を独り占めすることこそ、わたしの究極の悦びなのだ。
「えっと、あのっ!」
わたしは一歩伊佐屋さんに近づいた。
「は、母がジンジャーティーが好きで……。おいしい淹れ方を教えてもらいたいなって……」
結局わたしの脳は臆病風に吹かれ、寸前で逃げ出した。天使と悪魔ががっかりして消えていく。しかもよりによって母親好みの紅茶の淹れ方を聞くって――悔やんでも悔やみきれない質問のチョイスだ。
その上、伊佐屋さんの返事は最低だった。
「ジンジャーティー? ショウガか? そんな邪道なことは考えたこともない」
そう言ってぷいと背を向け、カウンターの奥へ行ってしまった。
――じゃ、邪道……。
大失敗もいいところ。聞けずじまいだし後味は悪いし、なにより母のための行動になってしまったのが自分でも許せない。まさにあの女は邪道の権化。家だったら惨めさのあまり、枕を壁に投げつけているところだ。
「おはよーございまーす」
そう言ってようやく遊衣さんが店に入った。開店十五分前。わたしもさぼっていたので、ふたりで慌てて働かなければならない。
「電車が遅れちゃって……って、いのりんにメールしたんだけど伝えてくれた?」
「えっ? 何時頃……?」
そんなのまったく記憶になかった。というか、鞄の奥深くに潜り込んだスマホを、学校を出てから一度もチェックしていない。
「いいよ、もう。てんちょー、すいませんでしたー」
カウンターの伊佐屋さんは呆れたように首を振った。もう朝からこんなのばっかりだ。今日が良い日で終わるとは、とても思えない。
その日は珍しく席が埋まり、わたしと遊衣さんはそれなりにバタバタと店を動き回った。
遊衣さんは十九歳の専門学校生。アクターズスクールの声優科に通っているという。
それで納得した。遊衣さんの挨拶がいつも「おはよう」なのは、芸能界でのならわしなのだ。
声優になりたいという夢を持つだけあって、遊衣さんも亜実ちゃんのようにアニメ好きだった。ただ、趣味は比較的わたしに近くて、子供の頃見たアニメ映画の話題で盛り上がることが多かった。どんな作品でも偏見なく研究しているという感じで、さすがにプロのタマゴという印象だ。
また彼女は普段からもお芝居のことを意識していて、返事や発言もとてもキビキビしていてさわやか。更衣室の鏡の前でポーズを取っていることもあるし、常に自分がどう見られているか、よく気をつけているようだった。
遊衣さんは身長も高く、グラマーでとっても羨ましい体型をしている。亜実ちゃん曰く、
「わたしの見立てでは遊衣さんはEカップはありますね! 同じ巨乳でも、大きすぎると好みが分かれますが『E』は最高です。『E』はちょうど
だそうだ(汗)。わたしにとっては別次元の悩みだが、肩が凝りそうで大変ではある。
とにもかくにも女性から見てすごく〝かっこE〟プロポーションの遊衣さんが、声優志望というのはなにかもったいない気もする。テレビや映画に出たら、瞬く間にファンがつきそうなのに。
そして今日のお客さんも、半分以上は遊衣さんが目当てに違いなかった。彼女と一緒のシフトの時の方が、お店が忙しくなるのが良い証拠だ。わたしは手空きついでに店内のお客さんを観察してみた。
メイド喫茶そのもののファンっぽい、おひとりさまの男性客が三組(三人)、小さな男の子を連れたお母さんとそのママ友、そして奥のテーブルには、パリッとした白スーツを着た、ちょっと場違いな男性が一人。それだけで小さな店のテーブルはすべて埋まってしまう。
今日はいないが、女性客が一人で来ることも多いし、常連となった商店街のおばちゃんだけで店が賑わうこともある。このバラエティの豊富さも、〈リリーズガーデン〉の特徴と言えるかもしれない。とにもかくにも紅茶とお菓子のおいしさが、宣伝せずともお客を呼んでいるのだからそこは素直にすごいと思う。
あとは〈リリーさん〉の不思議な存在感もまた、リピーターを生んでいる要因のひとつに違いなかった。
「おねえさーん」
子供連れの女性がわたしたちを呼んだ。素早く遊衣さんが反応し、背筋を伸ばしてテーブルに向かっていく。その姿はメイドというより貴族のご婦人のようだ。
遊衣さんは女性からなにかを相談されているようだが、どうやら期待に添えないらしく、頭をぺこぺこ下げていた。
「ごめんねー、今度までに用意できるかあそこのおじさんに聞いとくねー」
滑舌の良い遊衣さんの声だけがわたしに届く。それにしても、おじさんというのは伊佐屋さんのことに違いない。うかつにも笑いが漏れてしまった。
「あーっ、『とりつきキツツキー』好きなんだー。おねえちゃんに見せてー」
遊衣さんはするすると子供との距離を詰めていき、その子の持ち込んだ絵本を覗き見ながら、楽しくお喋りしていた。ちなみに『とりつきキツツキー』というのは、幼稚園くらいの子供に大人気のテレビ番組だ。甲高い裏声のキツツキが、人間の頭をつついて取り憑き意のままに操ってしまうという、文字に起こすとホラー以外の何者でもないCGアニメである。しかしポップな絵柄と予想のできないオチが面白く、わたしも日曜の朝についつい観てしまうことがある。
しかしわたしは心配になった。ママ同士が話に花を咲かせる中、気を遣って子供の相手をする遊衣さんはすばらしいと思う。しかしこの店でそれは御法度なのだ。
案の定遊衣さんはカウンターに呼ばれ、ねちっこく伊佐屋さんの薫陶を受けることになってしまった。
『メイドは誇り高き家具である。家具は主人が望んだときに望んだだけの仕事をする。メイドが自ら口を開いてはいけない。勝手に引き出しが開く家具は、壊れた家具である』
きっとそんなことを言われてるのだろう。わたしも何度か言われて、最初はなるほどと思ったのだが今ではすっかりうんざりだ。
「でも、お子さんも来るんだからオレンジジュースくらい置いとく方が良いと思いません?」
そういう声が聞こえた。どうやらメニューに関する提言のようだ。
伊佐屋さんの声は聞こえないが、遊衣さんの言葉だけでだいたいやりとりがわかる。
しばらくすると、遊衣さんは氷入りのアイスティーと、オレンジの輪切りを持ってさっきのママさんのテーブルに向かった。子供の母親に話をすると、その人は嬉しそうにお礼を言っていた。
「ほら、このお紅茶にミカンを搾ると味が変わるんだよ。ジュースはないけどこれで我慢してね、ごめんねー」
男の子は好奇心いっぱいの様子で、母親の手ほどきも受けながら、初めてのオレンジティー作りにいそしんだ。オレンジティーはメニューにないので、これは伊佐屋さんのアドリブだろう。頭が固そうに見えて、こういうところもあるのか、と感心してしまった。
それよりも、あの男の子はすっかり遊衣さんのファンになってしまったに違いない。これでまたリピーター誕生だ。
わたしは何度も繰り返すが口下手で、とてもじゃないがああいう真似はできないと思った。店の隅っこに突っ立っているだけで、怒られはしないけど仕事もしない家具だ。なんだか惨めな気分で沈みそうになる。ああもう、今日はこういうのばっかり……。
「ちょっと、きみ」
奥のお客さんに呼ばれて、わたしはハッと顔を上げた。白いスーツを着た、茶色い髪の男性がわたしを手招きしている。
「はい、ただいま――」
わたしはテーブルに近づき、両手をおへその前で重ね合わせて、ぺこりとお辞儀をした。
そのお客さんは、ちょっと気取った雰囲気の若い男性だった。伊佐屋さんよりは若干年上だろうか。白いスーツもなかなかインパクトがあるが、中には光沢のあるサテン生地のようなシャツを着ており、ネクタイにつけたピンも宝石つきで、とにかく視界に入るすべてがなにかしら光ってる感じの人だった。
「おかわりでございますか?」
「ううん、これを――」
その男性は一枚の名刺を差し出した。
咄嗟に受け取ろうとしてしまったものの、その直後の彼のひとことで、わたしは思いとどまった。
「興味があったら連絡して。きみなら即採用だから」
間違いなくなにかの勧誘、もしくはスカウトだろう。わたしは名詞の名前も確認することなく、手を引っ込めて頭を下げた。そしてそのまま仕事を探すふりをしながらカウンターの方へ戻る。
こういうことに慣れているわけじゃないけど、嫌悪感を感じるのは事実だ。
わたしはどんな表情をしていたのだろうか。子供の相手をしていた遊衣さんが、不思議そうな眼でわたしを見ていた。
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