第1幕 メイドサン ボシュウ

 唐突だけど、わたしは日々の小さな変化というものに敏感な方だ。ふと変化に気づくというよりは、変化を捜して見つけるのが好き。

とはいえ雲の形とか人の服装とか、変わって当たり前のものはカウントしない。誰かが狙って仕掛けた些細な変化にうまく気づくと、この上ない喜びを感じる変な趣味だ。例えば通りがかる家の庭先に新しいプランターが置かれただとか、いつもすれ違う人が連れている犬の首輪、もしくはリードが新調されていたりとか。この細かなこだわりは、友達に話してもなかなか受け入れられることはない。

 今日の登校途中、そんなわたしの眼に飛び込んできたのは見慣れない看板だった。それはわたしがこだわる〝小さな変化〟としては少し目立ちすぎる発見ではあった。ただ、自己主張のかけらもなく、こっそり置かれたその奥ゆかしさに、わたしのセンサーは反応してしまった。

 わたしが通う高校の最寄り駅には、昔懐かしい雰囲気のアーケード街が隣接している。雨でも降っていない限り、やや遠回りとなるそのアーケードを通ることは常識的ではないのだが、わたしはなぜかそこの静かさと大人びた落ち着きが大好きで、普段から通学路として使っていた。

 残念ながら、その古びた商店街の〝日々の変化〟はとても乏しく、あっても老舗の店が閉店することと、新しい百均ショップがオープンすることくらいだった。

 だから、アーケードの中程から伸びた裏路地に真新しい看板が登場したときは、一瞬目を疑ってしまった。

 自転車がようやく通れるほどの狭い道、小さな呑み屋の立て看板に隠れるようにして、花飾りのついた可愛らしい黒板が置かれていた。

 そういえばこの辺りのビルに、数週間前まで建築会社の足場が組まれていて、なにか新しいお店ができるんじゃないかとウキウキしていたのだが、今日まですっかり忘れていた。

コンビニなどのチェーン店ができるときは、前もって広告がポスティングされたり、駅でチラシの配布があったりして、誰でもそれを意識することができる。しかしそれがないということは、個人経営のお店がぽつりと湧いて出たことを意味している。「湧いて出た」なんて失礼な言い方だが、時代に忘れられたようなベッドタウンのシャッター通りに、個人が新店を出すなんてことは奇跡のような珍しさだと思う。

好奇心には逆らいがたかったが、ただでさえやや遠回りなルートで学校に向かっていることもあって時間がなく、看板になにが書かれているかまでは確認できなかった。

 今思えば、それは無意識に確認しなかったのかもしれない。

 授業中もその看板のことが気になって仕方なく、なにを売ってるお店なのか、店主は男性なのか女性なのか、そもそも看板になんと書かれてるのか、そういったことを恋い焦がれるように想像してしまって、勉強どころではなかった。

 でもきっとそれは、日常に刺激を与えるためにわたしの脳が狙ってやったことなのだ。めったに起きない大発見を最大限に楽しまなければ。

 そして下校時、待ちに待った看板チェックのために、普段足を踏み入れないこの路地にやってきたというわけである。

 白バラの造花がくっついているだけの、シックで飾り気のない手書きボード。昔ながらのチョークで控えめなメッセージが次のように。


 メイドカフェ リリーズガーデン メイドサン ボシュウ中


 なんかカレー屋みたい。とわたしは失笑してしまった。

 これもカレー屋さんには失礼な言い方だ。しかもいわゆるネパール系の主人が経営しているインドカレー屋さんを連想した上での感想である。

 「メイドサン」というカタカナも香ばしいが、その書体がカクカクの直角だらけで、どんなフォントにも似つかないヘタうまさがにじみ出ている。簡単な「中」だけ漢字なのも微笑ましい。きっと慣れない日本語に苦戦しながら、外国の人が書いたのだろう。

 と、ここで本質的な疑問にぶち当たる。というより、まずその衝撃があってから、書体のおかしさが気になった、と言った方が正しい。


 ――こんなところにメイド喫茶?


 メイドカフェ、メイド喫茶というのも一時のブームは過ぎ去って、ちょっとおじさんくさい印象すらある。なおかつ、閉店が続くアーケード街の、人目につかない裏路地に、隠れるように出店するようなものではないと思う。

 もうわたしの頭の中では、「メイドのコスチュームが好きでしょうがないネパール人の店主が、必死で溜めた財産でようやく建てた夢の喫茶店」というイメージが先行してしまい、やや引いた気持ちになっていた。

 これも実に勝手な印象だ。ネパールの人にはなんの罪もない。

 わたしはようやく看板ではなく、肝心なお店の外装に目を向けることにした。

 日頃の変化を見つけるのが趣味、と言っておきながら、わたしは自分の不覚さを呪った。

 そこにあった小さなお店のデザインが、自分の心臓をわしづかみにしたからだ。

 どうしてこれに、今の今まで気づかなかったのだろう。

 白い木目調の外装に、張り出した出窓とテントのような布のひさし。ところどころに、とても繊細な植物の文様が描かれている。文様の中にはワンポイントでユリの花が描かれていた。そういえばユリは英語で「リリー」だっけ?

 三階建ての小さなビルの、一階部分が喫茶店になっているようだ。だが、装飾はビル全体に及び、路地に面した壁が丸ごと、見事に統一感のとれたデザインとなっている。なんだかここだけヨーロッパから移築された建物のようだ。

 わたし自身、ヨーロッパになんて行ったことはないのだが、このお店には得体の知れない〝本物感〟がにじみ出ていた。狙ったデザインではない。なにか実在する建築物をモデルにしたとしか思えないリアルさ、文化の違いが感じられるのだ。

 わたしは新品でありながら、使い古された暖かみさえ感じる、シックな木枠の出窓に近づいた。

 中のカーテンは少し開いており、薄暗い店内の様子が垣間見える。

 その頃にはメイドマニアのネパール人は頭の中から消え去って、ただひたすらにこのお店の内装を楽しみたい、という気持ちだけが心を支配していた。

 従業員を募集していることからも見て、まだ店は開店までこぎ着けていないのだろう。残念ながら中はまだ準備中の装いだった。椅子は全部ひっくり返って、机の上に載っている。調度品のほとんどは白いシーツが掛けられていた。しかし木造の床や漆喰を思わせる白壁、そこにかけられたおしゃれなランプなどに目が釘付けになる。

 ただ死んでいくだけと思われた商店街に、とんでもないお宝を発見してしまった。

 もっとよく観察しようとして、ふと視線を横にずらすと、壁に掛けられた巨大な絵が見えた。わたしは今度こそ言葉を失った。

 それは、裾の長いメイド服を着たひとりの少女の全身像だった。

 写真のように写実的で、しかしどことなくはかなさを感じさせる色合いの、見事な油彩画。どこかのお庭のような緑の多い場所に佇み、ハンカチをかぶった可愛いバスケットを肘にかけている。壁をまるまる埋め尽くす大きさから考えて、等身大の絵ではないかと思われた。

 西洋人形のようにエキゾチックな顔立ちの、黒髪の少女。その可憐な青い眼がわたしを射抜くように見つめている。

 絵のことは詳しくないが、額の立派さから見ても価値ある一品に思われた。美術館にあってもおかしくない。いや、それ以上に描かれた少女の実在感が飛び抜けていた。

 それは、わたしが生まれてはじめて視る〝本物のメイド〟だった。

「なにかご用ですか?」

 突然声をかけられて、わたしはひっくり返りそうになった。

「来週からオープンなので」

 開いた扉から覗き込むようにして、ひとりの青年が顔を出していた。彼はそのまま扉を出て、道に置かれた黒板の位置を調整しはじめた。確かにそのままだと呑み屋の立て看板に隠れて気づきにくい。

 黒いベストに蝶ネクタイ。どう見てもこの〝メイドカフェ〟の従業員――いや店主に違いないだろう。驚くことではないかもしれないが、彼の面立ちは日本人のものだった。

 彼は看板とわたしの顔を、交互に覗き見た。能面のように変化のない表情。落ち着いた深い眼差しにどきりとする。

「アルバイトの応募?」

 単語での問いかけにわたしはギクリとしてしまった。

 そこで首を横に振ることもできただろう。

 でもそうしていたら、この物語は始まらなかったのだと、わたしは後になって思うことになる。

「面接は来週の土曜日。夕方五時に」

 店主の青年は素っ気なく告げた。

「ええと、レレキショ? 持ってきて」

 突然ひとつの単語だけカタコトになる。

「り、履歴書?」

「そう。リレキショ」

 そう言い残して再び彼は店の中に戻っていった。

 ご丁寧にも、開きかけのカーテンは中から閉じられてしまった。

 心臓が跳ね上がる音を聞きながら、わたしはしばらく呆然としていた。頭の中の「今日の出来事フォルダ」の中には、絵の中の少女の優しい笑みが、スクリーンショットのようにいつまでも保存されていた。

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