第8話 乱橋 その1

 大勢の、虐げられている人間の中に乱橋はいた。

 最底辺の住人であり、誰も相手にしてくれなかった。


 そこにいるのが相応しく、泥を被って強者の靴を舐めながらなんとか生かしてもらっているのが、最低なことをし続けた自分の生き方なのだと勝手に悟っていた。


 味方なんていなかった。

 同族しかなかった。

 嫌悪しかなかった。


 自分自身に嫌悪していた。


 でも、そんな自分に期待してくれている人がいる。

 そんな自分を、気に入ってくれている人がいる。


 彼女は、自分のためにやってはいけないことをやろうとしてくれている。

 一緒に、困難へ立ち向かおうとしてくれている。


 守りたいと思った。

 彼女を守るのが、自分の役目だと分かった。


「……ったく、なんつういい女だよ、ミサキ」


 乱橋は自覚していないが、全てを把握している彼女は分かっていた。

 一人の男が、一人の女に惚れる瞬間だった。


「ところで、サイコロ振った?」


「うわっ危ねえ!? また振れずに一になるところだった!」




「上手いこと締まらないのが乱橋らしいよね……」




 呆れた声が別空間から聞こえた気がした。



 ――現実世界・廃ビル――


「なあ、乱橋。俺ら、いつまでこんなことしなくちゃならねえのかな……」

「さあな。これを繰り返してるだけで解放されるとは思えねえよ」


 二年前からの付き合いである相棒に、乱橋は答える。

 できるだけ真下を見ないようにして作業を続けた。


 それっきり会話はなく、乱橋は真っ黒なビニール袋を厳重に縛る。

 相棒の方も終わったらしい。ビニール袋を掴み、立ち上がった。


「他の奴らは?」

「まだ下で見張りをしてる。終わったって連絡しなくちゃな」


 携帯電話を取り出し連絡を取った。

 さすがに二人だけでは持ち切れない荷物があるので、何人かを呼び込む。


「回収車がすぐ来るそうですよ」


 上がってきた一人の少年が言った。

 乱橋の仕事だったが、自主的に連絡しておいてくれたらしい。


「悪いな。あそこにある四つ、頼むわ」

「分かりました。よし、手分けして持つぞ」


 少年は後ろのメンバーに指示をする。


 上がってきたのは三人。一人一つを持つとすれば、一人だけ二つを持つことになってしまう。

 負担は大きいが、持てない程でもない。


「あー、いいよ。俺が二つ持つ」

「いや、大丈夫です。乱橋さんはこの後、呼ばれてるんですよね……」


「ああ、まあな。報告だけだが」

「余力は残しておいた方がいいです。なにが待っているか分かりませんから」


 少年はそう言って、率先してビニール袋を掴んだ。

 二つはやはりきついらしい。歩き方がぎこちない。


「大丈夫か? 別に俺は大丈夫だが……」

「乱橋」


 相棒の言葉に、乱橋が声を止める。


 少年は「それじゃあ」と言って、他のメンバーと一緒に部屋を出て行く。


「後輩の親切心を無駄にすんな。責任、感じてるんだろ、あいつらも。

 俺らがしでかしちまったことの責任は全部お前が背負ってるんだからよ」


「俺は、望んで背負ったわけじゃねえ」

「だとしてもだ」


 相棒はぽんっ、と肩に手を置く。


「リーダーが殺された今、俺かお前が標的になるのは見えていた。偶然お前になったのだとしても、あいつらにとっちゃあこのチームを束ねているのはお前なんだよ」


「…………」


「まあ、そういうことだ。行くぞ」


 と相棒はビニール袋を持ち、部屋を出ていく。

 さり気なく乱橋の分のビニール袋も持っていた。


「……俺が死ねば、次はお前なんだぞ……岳谷がくや


 乱橋はなにも持っていないのに妙に重たい手を振りながら、部屋を出る。



「お願いします」


 回収車にビニール袋を預けてから、乱橋は出かける準備をする。

 部屋を一通り調べていたら出てきた札束や写真などをまとめた鞄を片側の肩に背負う。

 中身が基本的に紙で少量なので、苦にはならない。


「乱橋、待て、ちょっと手を洗いたい」

「そういや俺もまだだったな」


 乱橋は近くにあった公衆トイレで手を洗う。

 乾いていたので中々落ちなかったが、強く擦ることでなんとか落とせた。


 トイレから出ると岳谷が待っていた。


「バイク使うか?」


「いや、歩きで大丈夫だ。

 報告はいつでもいいと言っていたからな。さすがに今日中じゃないとダメだけど」


「電話でもいいじゃねえかと思うけどよ」

「まあ、報告物もあるし」


 乱橋は背負った鞄の位置を少しずらした。


「行くか」


 歩き出してからしばらく会話はなかった。

 いつもの道に出たところで足が重くなる。日常的なパターンが二人の精神を追い詰める。


「さて、今日はどんな脅しをされるのか」

「今更逃げられねえんだから、あんなことしなくてもいいのにな」


「なあ、乱橋」

「……なんだよ」


 岳谷はニヤリと口元を歪めた。


「あいつら、ぶっ飛ばしちまうか?」


「はあっ!?」


 近くを通った酔い潰れた中年の男が驚いていた。乱橋は声のトーンを落とす。


「なに言ってんだよ岳谷! あっちは銃を持ってるし、ここら辺を縄張りにしてんだぞ!

 逆らって一時的に逃げられたとしても、また同じことの繰り返しだ。

 俺らはまた、襲われるぞ!」


「だよなあ。まあ、言ってみただけだ。

 お前がもしも昔みたいに、色んなところに喧嘩を売っていたように今回も売っていたら、止めてるところだ。お前だけの命じゃねえ。俺ら全員の命が懸ってるんだからよ」


「全員の、命、か……」


「そうだ。今のお前は昔みたいにギラギラしてねえ。でもその分、仲間想いの奴になった。

 お前のためにもみんなのためにも、それが一番良い」


 岳谷は乱橋の背中を叩く。お前のやっている事は正解だ、と肯定された気分だった。

 岳谷はそういう意味で叩いたのだろう。


 しかし乱橋は、そう思おうとしたが、無理だった。


 自分の気持ちを知っているのは自分だけだった。


(違うんだよ、岳谷。違うんだ……)


(俺が逆らわないのは仲間の命が惜しいんじゃねえ)


(ただ、逆らうだけの勇気が持てなかっただけなんだ)


 乱橋は引きつった笑みのまま進む。


 岳谷も同じような笑みだったのだろう。

 彼が乱橋の劣等感に気づくことはなかった。

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