第19話 突入

 ホークはバイクの速度を上げて、振り下ろされるアメンボの足、寸前のところで速度を落とし、ぴたりとアメンボにの後ろに張り付くように位置を取った。

 馬鹿正直にアメンボの股の下を通ろうとすれば、九割の確実で踏まれて押し潰される。しかし馬鹿正直に通ろうとせずに、時間をかけたところで、確実に安全に通れるとも限らないが。


 山を囲む道路は狭くはないが、しかし広くもないような幅だ。アメンボはその道の幅を余裕で越えていた――、主に長いその足が、道の幅よりも大きく、溢れている。

 なので真ん中を突っ切らずに、脇を利用して通り抜けるという案は使えない。


 水中に飛び込んで、アメンボを通り過ぎたところで、陸に上がる、ということもできなくはないが――、水中から陸に上がる時、容易に登ることはできないので、この案もまた、切り捨てるしかない。


 通り抜けることで追い越すことは難しい。

 アメンボの先には護衛対象のメイビー・ストラヘッジがいる。

 自分が無理にアメンボの前に行かなくとも、ドリューがいるから、最低でもメイビーの安全だけは守れるだろうと思っていたが、なぜか山の頂上に行ったきり、ドリューが戻ってこない。

 メイビーを守る者は今、アメンボの先にはおらず、彼女は戦車の中にいて、装甲に守られているとは言え、剥き出しの状態と変わりない。


 アメンボに追いつかれて踏み潰されれば、ひとたまりもないのだ。


 ドリューがいつ戻ってくるのか分からない今、ホークは無理をしてでも、アメンボの前に行かなくてはならない。そのためにはアメンボの股の下をくぐる――、さっきも充分な程に考えていたが、再びを思考をし、『壁をこの勢いで走行する』策も思いついた――が、壁は斜面になっているのではなく、文字通り、壁でしかない……。

 垂直なのだ。


 クラーケンの足の上を走行できる程の技術力はあるが、あれは走行とは呼べないものだし、不安定であっても地面と平行――、とまではいかないが、緩い斜面であった。

 それはまだ道と呼べるものだが、今回の垂直な壁は、道とは言えない。

 既に何度も言っている当たり前のことだが、壁なのだ。


 壁を走行など、できたとしても、狙ってできるものではない。

 こういうことは危機的状況の、苦し紛れの一手で偶然できるものであって、最初からそれをしようと思って狙ってやるとなると、できないものなのだ。


「…………」


 アメンボの足踏みを見つめながら、ホークは言葉が出なかった。覚悟ができていないからまだここを通り抜けることに抵抗がある。

 任務とは言え、メイビー・ストラヘッジを守ることに、自分の命を懸ける必要があるのか、疑問が生まれてしまった。いくら組織としての最大目的を達成させるためとは言え――、個人的に今、命を懸ける程に達成させたい目的ではなかった。


 ハンドルを握る手の握力が、どんどんと弱まってくる。

 ――やめてしまうか。


 そんな悪魔の言葉が頭の中を横切っていく。任務だから成功はもちろんしなくてはいけないが、失敗したからと言って、特になにか、罰があるわけではない。

 怒られるはするし、周りへ反省を示すためにも書類をいくつか書かなくてはならないが、言ってしまえばそれまでで、それ以上はない。死ぬことと比べたら、軽過ぎるものだ。


 だから――迷う。


 あのアメンボを倒さなくてもいいのではないか――、メイビー・ストラヘッジを守らなくても別にいいのではないか、と思ってしまう。

 彼女だって戦車という人殺しができる兵器を持っている。実際に今、操っている。

 操作方法が分からないはずもなく、アメンボに勝てなくとも、対抗できる力は持っているはずなのだ。だからホークがなにもしなくとも、彼女は戦える。


 元々、このレースを優勝する気なのだ。サバイバルレースと知って参加しているのだから、ある程度の危険を受け入れているはずである。

 今更、危険が迫っているのを知って、慌てる彼女ではないだろう。


 それに、ホークやドリューは彼女を守ると言っているが、彼女からすれば、さっき初めて聞いたことであり、予定になかったことだ。

 だから、ホークがここで彼女の護衛を下りたところで、元に戻っただけである。


 メイビー・ストラヘッジの、孤独な戦いに。


 戻っただけだ。


「…………っ!」


 ぎりり、と歯ぎしりをして、ハンドルを握る手も同時に強まった。

 今の自分の情けない思考に、苛立ちを覚えたのだ。


 自分の命が大事だから――結局、つまりは恐いから、死ぬのが恐いから。

 だから逃げたいのを、理由をつけて戦力的撤退に持っていきたいだけではないか。


 ホークはドリューとは違って、望んでこのレースに出たわけではない。人手不足という状況の中で、マシンと適合したから、仕方なく出場し、任務をおこなっているだけである。

 仕事という認識ではあるが、覚悟を決める余裕がないままに出場してしまっているからこそ、彼はまだ徹底できていない。そこに自己の感情が存在している。


 護衛対象ではなく。


 メイビー・ストラヘッジをただの一人の女の子として見ているところもある。


 個人的感情が、人間として、男として、ここで退くことを許さなかった。


 メイビーは男勝りで、あの性格だ。

 だから助けなんて求めないかもしれない。

 実際に助けたら、「余計なことをするな」と感謝ではなく、逆に怒られるかもしれないが、ホークにとっては関係がなかった。

 目の前で殺されそうな女の子がいるのに、なにもせず戦力的撤退と理由をつけて逃げ出せるような【クズ】になりたくなかった。


 それに。

 未だに戻ってきていないが――いつかは戻ってくるであろう、ドリュー。自分がここを退けば、当然、ドリューが引き続き、メイビーの護衛をするだろう。

 そして、メイビーが優勝してしまえば、ドリューの思い通りになってしまう。


 しかしホークにとっては、これもまた関係がなく、どうでもよかった。

 組織的な問題であって、ホークの問題ではない。


 だから――単純なことなのだ。


 結局は。


 写真で見たことがあり、事前に情報で色々と知っていたが、さっき初めて彼女を直接この目で見て――ホークはあの女の子を、あのお姫様を、このまま殺させたくないと、そう思ったのだ。


 一目惚れとはまた違う。

 好意ではなかった。


 ただ――あの危なっかしい姫様を、放っておけなかっただけなのだ。


「最大出力だ。もう、これでバイクが壊れてもいい――、

 最高速度で突っ切って、あいつの足の一本を、削ってやる」



 ハンドルの中央部分にあるタッチパネルを器用に指で、高速で押していく。現段階で、速度は上がっていないが、メーターは振り切っている。

 これは、これからの予測速度を示していた。不気味に振動するバイクに跨っているホークは、いつもとは違うバイクに少しの怯えを内心で感じているが、覚悟は決まっていた。

 準備は既に整っており、ハンドルを少しでも捻れば、溜め込んだエネルギーを放出し、あらかじめ示していた振り切ったメーター、そのままの速度を出す。


 ふう、と息を深く吐いてから、ホークはハンドルを捻った。


 ごうっ! ――と、風が顔面に突撃してきたが、反応ができず、リアクションも取れなかった。ただ反射的に目を瞑るだけで、あとは全て、バイクに任せっきりだった。

 アメンボの足に突撃するように設定したのだから今頃――、いや、こうして認識している時間は本来ならばないのだから、少し前にはもう突撃していなくてはおかしい……だが、そんな衝撃はなかった。


 自爆するように聞こえてしまっているが、死ぬ気はなく、ただ突っ切るだけだ――。突撃してアメンボの足を破壊しながら、前に進むことを想定しているので、どうしたって、衝撃だけはあるはずなのだが。

 破壊する手応えはなかったし、高速で突撃するのだから、分かりにくいだけかもしれないが――音さえもなかった。


 アメンボが動く、音さえも。


「…………は?」

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