第33話 小さな足での一歩

 姫神さんのクラスまで来た僕達はここで別れる。


 とても悲しいけど僕と姫神さんはクラスが違う。


 いや、別れること自体は辛くないんだ。


 僕はそこまで姫神さんを束縛したいとは思わない。


 ……ごめん、嘘ついた。


 可能ならしたいけど、現実的に考えて不可能なので諦めている。


 で、何が辛いかというと。


「及川君、待った?」


「いや、俺も来たとこ」


 姫神さんが長身ハンサムな学生――及川に近づく光景を見せられることだよ。


 及川にしか見せないはにかんだ表情に恋する乙女の瞳。


 形式上は僕が彼氏なのに。


(南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経)


 卑屈になりかけた僕はとっさに胸中唱題をして気分を切り替える。


 なぜ僕は胸の痛む光景を傍観しているんだ?


 考えるだけで行動しない者には幸せなど決して訪れない。


 さあ、一歩を踏み出すんだ。


 御本尊様を信じているのだから後は行動するのみ!


 僕はそう呟いてかつてのクラスに足を踏み入れた。


「ん? おお、時宮か。おはよう」


 クラスに入ってきた僕に気付いた及川が手を上げてさわやかな声でそう挨拶してくる。


「おはよう、及川」


 こちらが苛つくぐらい爽やかな及川に敵意を覚えるも、その気持ちをぐっとこらえて挨拶を返す。


「時宮、一応他クラスの生徒は立ち入り禁止だぞ?」


 及川と姫神さんのすぐ近くまで来た僕に及川はそんな校則を出してくる。


 ああ、そういえばそんな校則があったっけ。


「もう誰も守っていない意味のない校則を持ち出してどうするんだよ」


「ハハハ、確かにな」


 僕が肩を竦めて言葉を受け流すと及川は愉快そうに笑う。


「いけない子だねえ、時宮君」


「……」


 姫神さんのその相槌にはどう返せば良いのか分からないけどね。


「まあ、僕からすれば違反してでも及川に言いたいことがあるんだよ。昨日からずっと姫神さんは及川の話題ばかり――文句の一つや二つ言ったって許されるだろう?」


 せっかくの恋人になってからの初デートだったのに。


 30分前に待ち合わせた僕の気持ちを返せ。


「え? それの何がいけないの?」


 姫神さん、首を傾げないで。


 今のは致命傷に近いよ。


「柚木……またお前の悪い癖が出てしまったか」


 心当たりがあるのか及川は一つ溜息を吐いて僕に向き直る。


「柚木は見た目こそふわふわだが、芯はこうと決めたら一直線、損得度外視して周りの意見もお構いなしに突っ走る性分なんだな……すまん、時宮」


 どうして及川が謝るのか。


 遠回しに僕が部外者だと宣告されているようで悲しくなる。


(南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経)


 胸中唱題、胸中唱題。


 分かり切っていたことに絶望してどうする僕。


 それでもなお姫神さんと付き合いたかったのだから受容してしかるべきだ。


「謝るぐらいなら及川からも言ってくれ。目の前の彼氏を放置するのは良くないと。せめて僕も何か言わせろと」


「ハハハ、確かに一方的にしゃべられるのは疲れるな。柚木、分かったか? ちゃんと時宮もしゃべらせてあげろよ」


「……うん、及川君がそう言うのならそうする」


 姫神さんは及川の言葉なら素直に聞くんだな――と、表面しか見ない人間はそう解釈するだろう。


「姫神さん……全く守る気がないよね?」


 1年近く姫神さんを観察し続けた僕からすれば取り繕った表情というのがバレバレ。多分、もう忘れている。


 それを裏付けるかのように指摘された瞬間姫神さんがビクッと震えた。


「柚木?」


「ごめんなさい、善処します」


 素晴らしい笑顔を浮かべながら恐ろしい低温で名前を呼んだ及川に対し、姫神さんは深く頭を下げる。


 あ、これはマジで及川が怒ってる。


 姫神さんの悲しい顔を見たくない僕は2人の間に割って入って仲裁する。


「及川、マジにならなくて良いから。姫神さんが反省してくれれば良いんだ」


「ん~、でもなぁ。柚木には譲れないところはガツンと言っておかないとダメだぞ。柚木は相手の気持ちを察することができても、それをあえて無視してくるからな」


「……」


「ちょ、ちょっと時宮君!? どうして一歩下がったの!? どうして及川君に促したの?」


 前言撤回。


 姫神さんは少し及川の説教を喰らえばいいと思う。


 及川が姫神さんに説教している間、僕はかつてのクラスを見渡す。


「大分変わったよな」


 以前は及川がクラスの中心だった。


 姫神さんを含めた取り巻きが常におり、及川の言動に全クラスメイトが関心を持っていた。


 しかし、今は違う。


 先の件によってクラスメイトは及川から離れ、姫神さんだけが彼の傍にいる。


 客観的に見ればクラスのトップから追いやられた及川は落ちぶれたと表現できるだろう。


 けれど、どうしてかな?


「ん? 俺の顔に何かついてるか時宮?」


 及川はクラスのトップだった頃と変わらない笑みを浮かべている。


「いや、何でもない」


 僕は首を振る。


 本当は『及川、君は強いな、凄いよ』と言いたかったけど抑え込む。


 理由はこれ以上及川を認めるわけにはいかないから。


 これ以上、姫神さんの傍にいるのに相応しいのは僕じゃなく及川だと認めたくはなかったから。


「それじゃ、そろそろ失礼するよ」


 時間もちょうど良かったので僕は切り上げる。


「時宮君。またね」


「時宮、また昼にな」


 姫神さんと及川の声から逃げるように僕は足早に教室を去る。


「汚いなあ、惨めだなあ」


 自分の心の弱さを自嘲するような言葉が口を継いで出てきた。

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