第28話 パン配布場にて 〜皇后エウフェミアの場合〜(1)

 皇宮からさほど離れていない場所に、帝都正教の総本山といえるハギア=ソフィア大聖堂はある。

 この時代のハギア=ソフィアは伝統的なバシリカ建築ではあるが、見る者を圧倒させる荘厳な建物であることには変わりがなく、帝都にきた『お登りさん』が必ずと言っていいほど参拝に来る。周辺には庶民向けの小教会や礼拝堂といった宗教施設も多く、それなりに人通りはある場所だ。

 ただもちろん、それは時間にもよる。まだ夜も明けきらぬ払暁であれば、いくら朝の早い帝国民であってもほとんどいない。

 そんな時間に、皇后エウフェミアはいた。


 帝国の伝統の一つに、貧民に対するパンの無償配布というものがある。

『パンとサーカス』と揶揄され、帝国市民には無償で食料と娯楽が与えられたため、勤労意欲を失ってただ帝国に寄生する無為飽食の存在とした主要因、などと言われることも少なくない。

 だが、今でいうところの生活保護の意味合いもあり、餓死者は国家の責任という意識を既に持っていたことは先進的であったと言える。

『わたしも、これで命を救われた……』

 エウフェミアは昔を思い出す。

 戦乱から逃れ、雑多な避難民と一緒に一塊りとなって西方から逃げてきた時のことだ。怪我した者、体力ない者は捨てていくしかなかった逃避行の末、帝国の一都市にたどり着いた際、無償でパンを配布されたことに心底驚き、感謝した。

 食べる物も尽き、空腹のあまりパンの小切れを盗んだ男がなぶり殺しになるような逃避行だったのだ。まだ幼かったエウフェミアが出来立ての配給パンをかぶりついた時の震えるような美味しさ、そして感動。70歳をこえた今でもはっきりと思い出せる。

 ここでもそうだが、パンの配給には正教会が人手をだす事が多く、この出来事をきっかけにエウフェミアは熱心な正教徒になった。その後、帝都に流れ着き、家族のために娼婦に身をやつしてもその思いは変わらなかった。


「皇后陛下」

 物思いにふけっていたエウフェミアに、侍女のアンナが声を潜めて話しかけてくる。

「まもなくパンが搬入されてくるそうです。そろそろ準備をお願いします」

「わかったわ」

 軽く頷きながらエウフェミアが答える。その後小言を一つ。

「何度も言っているけど、ここではエウフェミアだから。皇后はやめてね」

「申し訳、ありません。つい言い慣れた言い方が出てしまいました」

「分かっているから。さ、準備しましょう」

「はいっ」

 侍女のアンナも元は戦災孤児だ。それをエウフェミアが引き立て皇后付きの侍女にしたことから、忠誠心は誰よりもある。ありすぎるからこその小言だ。

 だが、神の前では皆平等という正教の教えからすれば、皇后も侍女もない。実際エウフェミアも質素な灰色のダルマティカをつけた服装で、フードを深く被り目元を見えなくしている。皇后とわかるような装飾品もつけていない。

 一信徒として人々の支えになりたい、というのがエウフェミアの願いだ。そのためにこうしてボランティアとして朝早くからパン配布場にいるのだ。


 やがて、たくさんの焼き立てパンを積み込んだ荷車が、馬に引かれてやってくるのが見える。パンの香ばしい香りが鼻腔をくすぐり、自然と唾が口に湧く。

 配布場の前で、空腹からか俯いていた顔の人々も香りで顔を上げ、ぐぐうとお腹を鳴らす者もいる。

「今日は多いわね……」

 荷車に積み上げられたパンの段組みをみて、思わずエウフェミアがつぶやく。

「どなたか、大口の寄付をしてくれた方がいるのでしょうか……」

 アンナも首を傾げている。

「最近は教会もあまり余裕がないようだから、可能性としてはそれしかないけど」

 でも誰だろう。エウフェミアも皇后としてそれなりに資金を出してパンの足しにしているが、元々自前の収入のない彼女は後宮費を切り詰めてそれを当てている。

 皇帝ユスティヌスは優しいので、おねだりをすれば寄付は増えるだろう。ただ、人前に出るのが苦手で皇后としての公務も充分に果たしてない自分が、それをするのは抵抗感が強い。

 だから、ほつれた衣服を自分たちで縫い直す、料理を一皿減らす、献上品や昔もらった贈答品を下取りに出すなど、ちまちまと、だがエウフェミアが納得できる範囲で節約し、当てていた。


 この帝国では丸く平べったいパンが一般的だ。切り分けやすいように八等分の線が入り、扇型の一片を食べる。そしてこの丸いパンが細長い板のうえに一列に並んで置かれ、荷車に置かれる。一段で運びきれない場合は1段の板の上に角材を置き、パンが潰れない高さで2段目を作る。

 つまり、この段が多いほどたくさんのパンが運び込まれているという事なのだが、ここ最近は2〜3段くらいだったのに、今日は5段組みだ。明らかに多い。

 パンの配給のような福祉政策は、自分たちの利益に結びつかない為政者たちにとり、『理念として』おこなわれているものに過ぎず、なにかと削減されやすい。

 しかも今は東方帝国との戦争中という大義名分もある。国家の役に立たぬ貧民どもに分け与えるくらいなら、前線の兵士に充分なパンを!という貴族や軍部の主張に頷かない者は少ない。

 加えて執行された予算は、官僚や担当者たちが『手数料』と称してピンハネしていくため、現場にパンとして分配された時には相当に目減りしているのが常だ。

 だからこの配給パンの量は、裕福な篤志家の寄付がなければ説明がつかない。


 だが、馬車の後ろからついて歩いてきた人の中から、その答えをエウフェミアは見つけた。

「コミトさん」

 エウフェミアたちと同じような地道なダルマティカを被りつつも、歳はまだまだ若く色気さえ感じさせる女性に声をかける。

「これは、エウフェミア様」

 フード下の顔を朗らかに和ませて彼女が答える。

 彼女とはこうした配給場、あるいは教会付きの孤児院などで何度か顔を合わせた事がある。女性でさえ見惚れるような美人でありながら万事に控えめな性格で、どんな者にでも敬語は欠かさない。正教の敬虔な信者でこういったボランティアにも積極的に参加する。

「今日の配給、かなりパンの量が多いと思ったら貴女が奉仕していたのね。納得しました」

 世間話適度に聞いたところでは、彼女の夫は戦車競技の騎手なのだという。

 戦車競技は皇帝皇后臨席で開催されるものの、エウフェミアはこの手の荒々しい競技に全く関心が持てず、それどころか故郷が騎馬兵に蹂躙された時のことがフラッシュバックすることもあり、欠席ないしは扇子で顔を覆うことが多い。

 油断していると、インターバルの余興で下ネタ満載の見せ物が始まることもあり、とにかく好きになれない場所だ。

 だがコミトの話を聞いて、その騎手という旦那に興味を持ち見たことがあるが、なるほど、精悍で、うわっついたところが全く見えない男だった。周りの者に聞いたところ『鉄人』の二つ名を持つ、実力人気兼ね備えた有名人なのだという。お金もかなり稼いでいるらしい。

 そんなコミトなら、このくらいのパンを提供するのは問題なくできるはずだ。


 ところが、そう話しかけられたコミトは、ちょっと困った顔をした。

「実は、今日のパンのお金、出したのはわたしではないんです」

「では誰が?」

「妹が出資してくれたもので……」

 コミトの言葉を遮るように、「よっと」という掛け声と共に、馬車の荷車から女性が飛び降りてきた。

「テ、テオドラッ‼︎」

 コミトの制止も虚しく、飛び降りた際に着ていたダルマティカが剥かれ上がり、女性の白いふくろはぎや二の腕が顕になる。隠すべき女性の肌が晒されるこの感覚、今なら無用心な女の子のスカートが捲れ、下着が露わになる感覚と似ているだろうか。

「おおっと。これははしたないところを見せちゃいましたかね」

 エウフェミアのしかめ面に気がついたのか、ニカっと笑って話しかけてくる、テオドラと呼ばれる女性。コミトの言葉からすればこの人が妹なのだろうが……

「あ、あのっ、も、申し訳ありません!妹はこういう場に慣れてなくて……」

「すいませんねぇ。ガサツな性格なもので」

 ガサツというレベルじゃないでしょう、と思うエウフェミアであったが、そこは大人だ。フードを深く被り黙礼で返す。


『でも、この声には聞き覚えがある……』

 張りのある、ハキハキとした声だ。交友関係の狭いエウフェミアだから、侍女以外で若い女性と触れ合うこと自体が少ない。

『しかも、テオドラ……』

 聞き覚えのある名前だ。しかもつい最近。少し思いを巡らせればすぐに思い当たった。

『あの子が、ペトルスが結婚したいと言っていた娼婦の名前だ』

 そう思ってフードを上げ、前の女性を見る。

 フードこそしているものの、その白い顔が曝け出している。目はクリッと大きく、細く切長の目を持つコミトとは違うが、髪の毛の色や全体的なパーツは似通っており、共に美人であることは共通している。

 だが、活気があるというか、粗野というか。静謐な美しさの姉とは根本の部分が違うように感じられる。

 そんな不躾なエウフェミアの視線をものともせず、テオドラは口元を隠しもせず(高貴な女性は歯を他人には見せないというマナーが、帝国にはある)笑って言った。

「コミ姉の言うように、こういうところはあたし初めてでして。何をすればいいか教えてくれませんかねぇ?」

 テオドラがちらっと横目を見た先には、パンの香りに導かれたか、配給を待つ人々が並び始めていた。それを見て、ここに来た目的を思い出す。

「わかりました。ではテオドラさんは配給窓口をお願いします。私がサポートにつきますので」

「がってん了解です〜。エウフェミアさん、いろいろ教えてくださいねぇ」

 満面の笑みを浮かべて答えるテオドラに、エウフェミアもたおやかに笑って返す。もちろん歯は見せないように。


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