第27話 皇宮訪問記(2)
ユスティヌスはしばらくペトルスとテオドラの顔を見比べていたが、やがてテオドラの方を向く。
「テオドラさんは、本当にそれで良いのかの?」
「そうですねぇ……、正直まだ実感はありませんが。陛下もご存じかとは思いますが、私娼婦をしてましたから」
「ああ、そんなことは大したことではない」
ユスティヌスは大きく手で『ないない』というように、顔の前で右手を振る。
次期皇帝と娼婦の結婚は大事ことだと思うけど、テオドラは心でつぶやくが顔は笑い顔のままだ。
「なかなか想像がつかぬことかもしれんが、こやつと一緒になるというのは、すなわち皇后になるということじゃ。
うちのやつ、あー、つまりわしの奥さんじゃが、結構苦労したようでの。わしらもあれよあれよという感じで、想像だにしない皇帝一家なんぞになったからのぅ。もともと引っ込み思案で人前に出るのは苦手だと言っておったのに、皇后となれば大衆の前で堂々とせねばならん。
その覚悟は、おありかな?」
「あ、はい。人前に出ることに苦を感じたことはありませんが……」
万余の観衆の前で半裸で堂々踊るのだ。人の注目を浴びることを好む性でもある。
「そうか……。それは良いな。わしはわしの我儘で、うちのやつに窮屈な思いをさせてしまったからのう。この結婚のことも、あまりよく思ってないようだしの」
「……そうなのですか」
そういえば、ペトルスが身内に反対する者がいると言ってたが、皇后がそうだったのか。
ここからは俺が話そう、とペトルスが口を挟む。
「言っておくが、叔母さん、エウフェミア皇后陛下は結婚そのものを反対しているわけではない。それどころか、俺に早く身を固めろとずっと急かして、色々手を回していたんだ。皇后になる前からずっと」
ま、俺にその気がなかったから、今の今まで独り身な訳だが。と肩をすくめるペトルス。
「するとやはり皇后陛下は、私が気に入らない、と」
「ドーラが、というより娼婦という職業が、だろうな」
「……まあ、それはそうでしょうねー」
娼婦を喜んで妻に迎える、という家庭はほとんどないだろう。血統を重視する上流階級なら尚更だ。
「一般論としてもそうだが、叔母さんの場合、個人的な体験も大きくてな……」
「と言うと?」
「エウフェミアという御尊名は後でつけた。元は『ルピキナ』と呼ばれていた、といえばドーラには事情がわかるんじゃないか?」
『ルピキナ』と聞き、テオドラは思わずユスティヌスの顔を凝視してしまう。皇帝は困ったような、照れたような顔で頭頂を撫でていた。
否定の言葉はない。と、言うことは。
「娼婦出身だったんですね、皇后陛下も……」
ルピキナを直訳すれば「狼の娘」となる。この場合の狼とは、狼によって開祖ロマノスが育てられたという伝説のある古都ローマを指し、ローマ、もしくはその周辺の出身の娘という意味をもつ。
だから、実名としてつけられることはほとんどなく、通称だ。特に西方から流れていた女性が娼婦となった時に名乗る源氏名に多い。テオドラもこれまでに何人かのルピキナさんと仕事をした事がある。
かつての帝都であったローマも、度重なる
「わしも、もとはイリュリアの貧しい農民の出。運良く近衛軍団の兵士として採用されたが、生活はカツカツでのぅ。なんとか貯めた大銅貨を握りしめて場末の娼館にいったら、そこでうちのやつに出会ったんじゃよ」
照れ臭そうに、だが若い頃を懐かしむように話すユスティヌス。
「
出世して必死に金を貯めて、身請け金を作って奥さんにしたんだわ」
「そうだったんですね」
「だが……、うちのやつには封印しておきたい黒歴史なんだろうの。思い出話であってもその時代の事を話すのは嫌がるんじゃ」
「……わたし、陛下ご夫妻の前で踊りを披露した事が2度ほどありましたが、皇后陛下はご挨拶の際扇子で顔を隠されていました。淫靡なダンスがお好みでないためかと思ってましたが、そのような理由もあったのですね」
テオドラは競技場の余興で、特別席に向かっての
「とは言え、うちのやつは政治的なことに口出しはしてこんからの。あの貴族と賎民の婚礼解禁法も、そのうち元老院に回されて論議される手筈になっておる。多少時間はかかるかも知れんが、ゆっくり待っておればよい」
「ありがとうございます。……ですが、皇帝陛下ご自身は本当にわたしでよろしいのですか?家柄も何もない娼婦で?」
「わしも娼婦に惚れて結婚したクチじゃからのう。こやつを止めることなど出来んわな」
癖なのだろうか、髪のない頭を撫で回しながら笑うユスティヌス。
「だから、わしは2人を祝福するわい。周りがなんと言ってもな」
そして、ユスティヌスはテオドラに頭を下げる。
「テオドラさんや。我が甥ながら、相当にめんどくさいこの男をよろしく頼みますわい」
「そんな、陛下、頭を上げてください」
皇帝に頭下げられ困るのはテオドラだ。
皇帝は頭を下げるべき存在であって、頭を下げてくる存在ではない。いくらプライベートでも。
そんなところが皇帝らしくないと言われる理由なのだろうが、こんな養父に育てられたから、ペトルスも貴族、そして執政官らしくないのね、と妙に納得したテオドラだった。
その後も皇帝とざっくばらんに話したあと、皇帝の元を辞した。
「でさ、皇后陛下なんだけど」
宮中内を案内してくれるペトルスに、テオドラが話しかける。
「今日会うことはできないの?」
「……あー、まあそれなんだが……」
ペトルスの歯切れは悪い。
「今日テオドラが来ることは伝えてあったんだが、『体調が悪い』と侍女に言い送ってきた。今は奥の部屋に閉じこもっている」
「……それって、やっぱり」
「歳も歳だから、体調が悪いことはあるだろうが……、今日のは違うだろうな。テオドラに会いたくなかったんだろう」
軽くため息をつくペトルス。
「いい人なんだよ。俺にも優しく、時には厳しく接してくれたし、何より弱者への慈悲の心がある。ただ、俺が見るにテオドラとの相性が最悪でなあ」
「そういや、リックスは皇帝陛下夫妻を『叔父さん、叔母さん』とよぶんだね。養父母なんでしょ?」
「ああ、それも叔母さんの言いつけでな。『あなたの父母は1人づつしかいません。あなたを産んだ方への感謝を忘れてはいけませんよ』ってなあ。子沢山で構う事が少なかった実母なんかより、俺は叔母さんの方に感謝してるんだが」
「なるほどねぇ」
「だがテオドラが心配する事ではないな。叔父さんも言っていたが、叔母さんは結婚には反対でも口出しはしてこない、多分。そういう人だから」
「……でも、皇后陛下というか叔母さん?実母より感謝している養母には、やっぱり結婚を祝ってほしいよねえ、リックス的には」
「それはそうだが……、何か案があるのか?」
ペトルスは勘のいい男だ。テオドラのニマッとした顔から何か考えがあることを察したようだ。
「まあねー。皇后陛下と顔見知りの人間を知ってるんだ、あたし」
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