第30話 葉宮樹理 その5

 景色の色が薄い。

 霧が、かかっているような感じだった。


 しかし、それでも町の中だということは分かった。

 見たことがあるし、過ごしたこともある景色だから、

 知識よりも体の方が覚えていたのかもしれない。


 通り過ぎる男の人や女の人は、着物を着ている。

 ――コスプレ、なわけがない。

 まるで、着ていることが当たり前だとでも言いたそうに、堂々と着こなしていた。


 そんな人たちがうようよと存在しているこの場所に、私は一人、立っていた。


 どういうことなのか……。理解できず、そして、判断もできない。


 私は、今まさに明吉くんを助けようと、浮いて、向かったはずなのだ。

 悲痛に叫んでいる彼の元に向かったはずなのだけど、しかし、私は今、ここにいる。


 訳がわからず、あたふたとしてしまう。

 でも、周りの人たちは、一切、私に視線を向けることがなかった。


 呆れられているのか――変質者として、避けられているのか。


 印象は最悪になってしまっているらしい。

 このままでは、警察に捕まってもおかしくはないだろう。

 それを避けるためにも、まずは、声をかけるしかない。


 近くにいる人に、ひとまず、「すいません――」と声をかけてみた。


 でも、声をかけた男の人は、私の存在を認識できないのか、視線すらも向けず、意識も同じように向けず。真っ直ぐにある景色を、ただ見つめているだけだった。

 私は、通り過ぎるその人の後ろ姿を、視線だけで追う。


 忘れていた――私は、幽霊だったのだ。

 霊界と人間界が混じってしまっている今、普通の人にも幽霊が見えてしまうこの状況を踏まえて話しかけていたのだが、どうやら、この人たちには見えていないらしい。


 なら――ここは、どこなのか。


 霊界でも人間界でもない――まったく、別の場所なのか。


 それにしても、彼らには、私が見えていないらしい。

 話しかけてもスルーされているこの感じは、久しぶりだった。


 懐かしい。でも、思い出したい思い出ではなかった。忘れたい、記憶であった。


 心臓が締め付けられる。ぎゅっと、圧殺されそうな感覚。あの頃に、戻ったみたい。


 あの、頃……? 

 あの頃と言えば、まだ明吉くんとは出会っていなかった時期かもしれない。

 正確な期間は分からないけど、十年単位の時間は、越えている。

 それくらい昔のことだったと思うのだけど――。


 これから明吉くんと出会う時間。

 そして、私が孤独だった時間だ。


 声をかけたところで無視され続け、認識なんてされるわけがなく、友達と呼べるものも誰一人おらず、幽霊として生きていることに、疑問を感じている時期だった。


 成仏してしまおうかと何度も思った。なぜ成仏しなかったのか不思議なくらいだった。

 それは、満足できていないから。この世にやり残していたことがあったからなのだろうけど、早く、誰かが強制的に、成仏させてくれればよかったのに……。

 そう思うほどに、私は追い詰められていたのだと思う。


 平気で、人を殺してしまいそうな雰囲気。見ている人がいれば、そう言ったのかもしれない。

 落ち着きながらも、しかし、心の中では荒れに荒れまくっていたのだ。


 マイナスな方向の限界を越え、上限を吹き飛ばす。

 行けるところまで行った私の精神は、到達してはいけないところだったのかもしれない。

 そこに、足を踏み出していた。

 足は、踏み入っていたのだけど、でも、片足すらも、その場所には着くことができなかった。


 それよりも早く、声がかかったのだった。


「そこにいると、邪魔になってしまうよ」


 ――彼は、そう、声をかけてきたのだった。


「生きるには、みんなに適応しなくちゃいけない。この場で言うなら、そうだね――。みんなと同じ道を、同じ速度で歩く。それが一番、この場に溶け込んでいることだと思うよ」


 同じ言葉だった。

 あの時と、同じ言葉だった。


「僕と同じみたいだね、君は。なんだか――仲間ができた気分だよ」


 笑って、言う。

 彼――明吉くんが私に、最初にかけてくれた言葉と同じだった。


 じゃあ、ここはあの日の、あの場所なのだろうか――。


 戻ってきているのだろうか――。

 この明吉くんは、本物なのだろうか――。


 私は手を伸ばした。

 本物で、ここは夢の世界ではなく、現実なのかを確認するために。


 しかし、手はなににも、触れることはできなかった。

 目的地である明吉くんは、ふわりと浮き上がり――空中へ逃げていく。


「明吉くん!」


 ここで彼を逃してしまえば、もう二度と、会えない気がした。

 だからこそ、無我夢中で、私も飛ぶ。

 浮き上がり、明吉くんを追いかけ、そして、手を掴む。


 離さない。絶対に、もう離さない!


 引っ張って、自分の胸元に彼を寄せる――。

 すると、彼は抵抗せずに、受け入れてくれた。


 しかし、景色同様に、彼の色も、薄く、消えそうな勢いを持っている。

 色がないと言うよりは、これは、光り輝いていて、私の目では受け入れることができなかったような感じだった。


 だから、なにも見ることはできなかった。

 半開きにしたまぶた――当然、視界は半分以下になってしまい、

 明吉くんを見ることも叶わなくなってくる。


「だめ……どこにも、行かないで――」


 私の声は、彼に届いているのだろうか。

 視界がないに等しい今の状況では、確認のしようがなかった。


「明吉くん……お願い。私をこれ以上、一人にしないで――!」


 わがままだった。


 ただ、私の恐怖を取り除いてくれと。

 満足させてくれと。そう言っているに過ぎないのだ、これは。


 抱く力をさらに強める。

 明吉くんの温もり、触れているという感触は、まだ感じられる。


 そこにいるということは認識できている。

 しかし、彼から私にくる力は、だんだんと、無くなってきている。 


 まるで、力尽きてしまうかのように。

 まるで、なにもなくなってしまうかのように。


 抱きかかえている彼が――空気に思えてくるかのように。


 そして、世界に色が戻る。

 薄いが濃いに、切り替わる。


 元に戻った世界で、私は、彼と抱き合っていた。

 しかし、彼の方は、想像していた通りになってしまっていた。


 腕はぶらん、と垂れ下がっている。

 意識は無くなりそうに。目は、明後日の方向を見つめていた。

 私を見つめてはいない。私の方向を見ながら、どこも見ていない。


 暗闇の中の全体を、視野を広げて均等に見ているような様子だった――。


「樹、理……、なの?」

「そう、そうだよ明吉くん! 私、私がいるから!」


「そう――……か……」

 

 彼は、口をぱくぱくとさせている。

 なにかを言いたそうにしているけど、声が出にくいのかもしれない。


 しかし、やがて、薄らと声が聞こえてくる。

 弱り切った、頼りない声だった。


「やられた、よ。力が、無くなっていく――。

 僕の扱い切れなかった力が、ほとんど、持っていかれて――」


「だめ――明吉くんっ!」


 話せば話すほど、口が動けば動くほど、彼は、私にしがみつく力を、弱らせていく。


 そして、段々と、私の手の中から落ちていく。

 支えるのも、一人では限界だった。

 全体重をかけた彼の無防備な体は、重力に逆らうことをせず、

 まるで従っているかのように落ちる力は、さらに、強く、強く――。


「あ――」


 そして、手の中から、彼がずり落ちた。


 地面へ向かって落下する彼の口は、開いてはいなかったが、しかし、呟いていた。


 なにか、決定的な、言葉を――。



「文化……、――あの時の、あいつかあ……」

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