第15話 久我山茜 その3
『ゴール』、と書かれた盤の上に、駒が一つ到着する。
先輩の駒だ。
開始から一時間もしない内に、先輩は、人生ゲーム、その人生を終了させていた。
「は――早い!」
と、わたし。
「先輩、なにかズルでもしているんじゃないですか?」
これは和実。
「ん? ズル? してないと思うけど」
先輩――信彦明吉先輩がそう言う。
でも、なにかイカサマをしているのではないかと思ってしまうのは、仕方のないことだろう。
だって、人生ゲーム、始まりから終わりまで、この人――、ずっと半分よりも大きな数字しか出していない! ルーレットになにか細工をしたとか、それくらいしか思いつかないもの!
「みんなが触っているルーレットなら、さすがに二人が気づくんじゃないの?」
「そうかもしれませんけど。
先輩なら、ワタシたちに気づかれないようにどうにでもできますよね?」
「高く見られてそうだけど――どうなんだろうね、これ。褒められているのかな?」
「褒めてはないです。だからと言って、対義語の意味を含んでいるわけでも、ないですけど」
「それは安心だね。可愛い後輩に、嫌われたくはないしね」
「……そうですか」
火花散る――ほどではないけど、和実と先輩は、なんだか、仲は良くないように見える。
喧嘩しているわけじゃない。どちらも性格的に冷静で、感情をあまり爆発させない二人だから、静かに見える。それが危機感を抱かせないんだよねえ。そう、逆に不気味。
雨雲が天を覆っているのに、全然、雨が降る気配がない感じ。降るなら降ってほしい。雷だって、落ちるなら落ちてほしい。変に焦らさないでいいから。
けれど、和実の怒った姿を見たいとも――いや、思わないから。
結局、今の状態のままキープしていてほしいのが、わたしの本音だった。
たまに見せる感情――その感情は、なんだか本気ではない感じ。
先輩も和実も、そこは似ているところがある。
似た物同士――仲が悪く見えるのは、二人が互いに同族嫌悪でもしているからなのか――。
ともかく、二人の、喧嘩になりそうな喧嘩未満な状態は、状況の束縛から逃れることができたらしい。構わず進む針を無視して、時間が進む。時は動き、和実がルーレットを回した。
先輩はゴールしたけど、わたしと和実はまだ、ゴールしていない。
先輩がゴールしたことで、これで勝負はお終い、でも良かったけど、これで終わるのも、なんだか――なんだかなあって感じ。
だから一応、二位までは決めることにしたのだ。
二位が決まると同時に三位――、つまりは最下位が決まることになるけど、勝負事だ。
嫌はない。認めない。
「――あ、」
和実が声を出す。
なになに? 罰金かな?
「――ゴールした」
「…………」
ここから頑張るぞ、先は短いから、ここで勝って、二位で満足するぞと思っていた矢先に、これだよ。まだわたし、ルーレット回していないのに。
この順番に、悪意を感じてしまう。
……ないけど、そんなもの。
「いや、まあ、仕方、ないけどね」
そう、結局は遊びなのだ。なにをマジになっちゃってるの? って感じなのだ。
そう、それだけなのだ。全然、悔しくも、悲しくもないから。
だから和実、こっちを見ないで。
「はあ……」
和実が、溜息を吐いた。
でも、優しい溜息だった。
「あとでジュース買ってあげる。だから元気だしてよ――ね?」
「うん。……飲ませて、くれるの?」
「買ってあげると言っただけ。飲ませるのはなし」
「えー!」
「えー、じゃない!」
「仲良しだなあ、二人共」
のん気にも、元々から持っていただろう自分の飲み物を飲みながら、先輩が呟いた。
狙っているのか、天然なのか……。会話に出てきたものを、すぐに目の前で出されるのは、良い気はしない。悪い気も、あるわけでもないんだけど。
「先輩の見ていたら、喉が渇いたな……」
「買ってこいと言うの? 茜」
「そうは言ってないよ。決して、そうは言ってない。少し、濁しただけ」
「言ってるじゃん」
立ち上がる和実。嫌だ嫌だとオーラを出しながらも、しかし、わたしのために買ってきてくれるらしい。やはり、そういうところは優しい。さすが、わたしの親友だ。
「買ってくるわよ。なにがいいの?」
「えっとね――」
確か、学校の自販機には――大きく分ければ、三種類あったはずだ。
大人な味、お茶とかコーヒーなど。
しゅわっと爽快、炭酸系。
甘くて子供に人気、ジュース系。
わたしが選んだのは――、
「じゃあ、大人な味の、お茶で」
「お茶は、大人な味なの?」
「さあ? わたし基準だよーん」
「ふーん」と頷く――いや、頷いているのか? 曖昧だった和実。
「い、今のはテキトーに流して――」
いいからねっ、と一応の訂正を加えたところで、わたしは、ポケットに入っているスマホが激しく震える感触を、感じ取る。
嫌な顔をして、スマホを取り出す。和実に、その顔を見られてしまった。
心配をかけたくなかったので、もう遅いとは思いながらも、しかし、笑顔を作ってみせた。
そして、
「――もしもし」
『あ、出た出た。――茜? すぐに家に戻って来なさい』
印象的な声。記憶に刷り込まれている声が聞こえた。
それもそうだ。これは、母親の声だ。聞き慣れていない方がおかしい。
「お母さん」
『いい? 嫌だとか無理だとか、あんたの口癖は通用しないからね。
いいからさっさと来る。問答無用よ』
「いや、でも」
『――言ったわよね? 問答無用だって。親の言うことが聞けないの?』
「はい……すぐに戻ります」
言って、切る。
スマホをしまい終わった時には、部室の中は、嫌に重い空気に支配されていた。
わたしに気を遣っている、のだろうけど、気にしなくていいのに。
でも、二人も、そういうわけにもいかないのか。
沈黙の時が流れ、さすがにまずいと思った。なので、明るく元気に、わたしは言う。
「少し用事ができちゃった。ごめんね、和実。飲み物はまた今度でもいいかな?」
「ええ、いいわよ。いつだって。どうせ茜のために買うものだし。
茜の欲しい時に渡すのが、一番良いでしょう?」
和実はそう言ってくれた。そして、
「帰るなら、一緒に帰りましょう。途中までは道、一緒なんだし」
「う、うん」
手を伸ばされる――ことはなかったけど。
わたしにはしっかりと、見えた。
見えない手が、わたしを引っ張ろうとしているのか、伸ばされているのが見えた。
和実の、優しさだ。雰囲気で、そういう現実的ではないものを見せてしまう――、和実の技術には驚かされるばかりだった。いや、和実も、狙ってやっているわけではないと思うけど。
「えと、そういうわけなので、ごめんなさい、先輩。先に帰ります」
「いーよ、気にしないで。
こうして、一度でも集まってくれたことが、僕は嬉しいからね」
「でも、わたしたちが帰ったら先輩、一人ですよね?」
「一人じゃな――いや、一人だけど、大丈夫だよ」
さあ、用事に遅れちゃうよ、早く帰りな――と、先輩はわたしたちを送り出してくれる。
その厚意に泥を投げつけるわけにもいかないので――わたしは、すぐに部室から出る。
笑顔でにっこり。最後まで表情を崩さない先輩を見ながら、扉を閉める。
部室から出てすぐ、和実が聞いてくる。
「いつもの? だよね?」
「うん。でも、なんだか今日はぴりぴりしてたって言うか――なんなんだろうね。
問題でも、起こったのかな?」
「問題って――起きたら、まずいんじゃないの?」
「うーん、どうだろ」
実のところ、分からない。問題が起こっているのは確かに、まずいことなのだろうけど。
でも、大きくても小さくても、問題は問題なのだ。
問題を起こしている相手が、わたしたちの家系が相手をする『あれ』ならば、わたしの家族は、絶対的な力を持っている。そうそう簡単に、絶対絶命のピンチ、にはならないと思う。
わたしを呼んだのは、わたしに手伝わせるため――ではないと思う。いや、少ないながらも、微かな意図としてそれもあるだろう、けど。
でも、それよりも、その問題、その対処を、わたしを見せるためなのだ。
なにをどうしているのか、この場合はこうだ――とか。わたしに、手取り足取りと同じ密着度で、説明し、学ばせるためなのだろう。最近は、本当にそればかり。
おかげで、遊ぶ時間がなくなって、気持ち的にリラックスできていない。
わたしは、跡継ぎだから――次世代の人だから、仕方のないことだとは思うけど。
「はあ」
重い溜息。慌てて口を塞いでも、もう遅いくらいに、息が漏れる。
ああ、幸福が、逃げていく。わたしにそんなものあるのか、と怪しいものだったが。
「問題――か。まあ、なんとかなるよね!」
いつも通りを装って、和実に心配をかけないように、そう言った。
靴を履いて、玄関から校舎の外へ。
あとは、家に帰るだけ。ここからの帰宅――足だけが、重かった。
「それじゃあ――」
恐らくは、行きましょう、とでも言いたかった和実だったのだろうけど、
しかし、言う前に、和実は言葉を止めた。それから、
「ごめん、茜」
「どうしたの?」
「忘れ物をしたかもしれない。先に帰ってて、ほんとごめん」
「いや、全然いいけど。それくらい」
「うん。じゃあ、また明日」
そう言って、校舎に戻って行く和実――、
わたしは見ていて、少し違和感だった。
なにか、変だった。
でも、言葉にできない。
なにがどう変なのか、分からないのだ。
「友達、失格だよねえ」
自己嫌悪をしながら、重い足を上げ、地を踏む。
家に帰る。
これから始まる、壮絶な戦いのことなど――まったく、想像すらもしないで。
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