教室のクジラ

春野骨

教室のクジラ

誰もいない教室は静かな様で、そうではなかった。なんと言ったって、野球部は外で大きな声を上げているし。体育館ではバレー部とバスケ部のボールが跳ねる音がする。上の階からは、吹奏楽部の金管楽器の音とドラムの音が一階まで聞こえる。そして、はしゃぐ女子高校生達の靡くスカートと、その足音がすぐそこの廊下をさっき走ったばかりだ。

あたしは一階の隅っこの教室。窓側1列目の後ろから2番目にずっと座っていて、窓を眺めている。大して面白くもないし、何をするでもない。ただただそこに居た。カバンの中には今日出された課題が入っているし、それとは別の教科書も入っている。適当に図書室から借りてきた、読みかけの本も入っているし、スマートフォンも入っている。それだけの、なんて事ない普通の女子高校生だ。

周りはもう進路は決まっていて、進学する友人は2階の教室で講義を受けている。就職する友人たちは面接の練習に行ってしまった。

あたしは、まだ何も決まってない。大きなハンディーキャップを背負っているような気分。だからここにいる。だから、ここに居座っている。何もやる気が起きず、何も出来ず、ましてや、何をやらされることも無く、ここに居る。少しはあがけばいいのだろうけれども、あまりにもそれはあたしのプライドというか、自尊心というか。とにかく、心が嫌だと拒絶していた。

何も出来ないあたしは、誰もいない教室で机に伏せる。コツリ、とメガネが机にあたる。それですら、今はどうでも良くなっている。目を閉じて、深く息をした。ひとおつ、ふたあつ、みっつ、よっつ、いつうつ。子供のかくれんぼみたいに、ゆっくり、ゆっくり呼吸をする。そうすると、あたしは『ハルノ』に会えることが出来る。

耳が、水があるよ、と教えてくれる。その水は足首を緩やかな波で撫でて、誘って、そうしてどんどん膝まで上がって来る。厚めの黒いタイツは濡れて、アイロンの綺麗にかかったスカートは水に浮かされて、海月のように漂う。カーディガンは水を含み始めたのに軽いままで、白いリボンは浮かび上がって、少し苦しい。水はどんどん水位を上げていって、あたしは、あたしの髪の毛が水に攫われて、また肩に落ちるのを待った。肩に落ちたら、目を開けて体を起こす。

そこは深海で、あたしとハルノだけの世界。

「ハルノ、会いに来たよ」

そう呼べば、ハルノは大きな体を表す。いつの間にか教室の壁は無くなっていて、椅子や机が海底に乱雑に並んでいるだけになっている。クラゲが空を漂い、上を見上げれば光がゆらりゆらりと尾をひいている。

ハルノは大きなクジラだ。一人でいる、大きなクジラ。あたしが来たことを知ると、あたしにゆっくりと近づいて、小さなキスをしてくれる。そうやって、あたし達はこんにちはの挨拶をする。

ハルノがいれば、なんでも出来るような気がしてくる。いじめっ子の、あたしを僻んでいるあいつも。辞めてしまった部活のコーチも。担任の先生も。みんなみんな、いなくさせてしまえる気がする。ビリビリに、コピー用紙みたいに破いて、ゴミ箱に捨てて。そうした後に「ほら、何も無かったでしょう?」と周りに笑える気がする。それに、なんだかよく分からないけれども、すごい所に就職して、お金をいっぱい稼げる気がする。あたしの知らない、あたしの才能だとか、そういうのがあって。それが、どこかでとても重宝される気がする。そんな、たらればなことをハルノと居ると思えるのだ。


なんて、馬鹿馬鹿しい夢から覚めると、下校時間少し前だった。教室の外からは下校を急ぐ足音が聞こえる。あぁ、帰らなきゃ。そう思って急いで席をたつ。都合のいい夢だった。ハルノはどこにもいないし、深海のクラゲもどこにもいない。私はこれからどうすればいいんだろう。その不安はどう足掻いても拭えないまま、春野は下駄箱に靴をしまった。

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教室のクジラ 春野骨 @harunokotu

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