Chapter-④
扉を開けると、珈琲の香りが鼻を擽った。
奥から長い黒髪をざっくりと後ろでまとめた若いウェイトレスが、落ち着いた口調で「いらっしゃいませ」と招き入れ、僕とルナを奥の席に案内しようとした。
「すいません、ちょっとお尋ねしたい事がありまして」
「はい、何でしょう?」
「伊野小百合さんという女性を知りませんか? もしくは、名前に心当たりとか……ありませんかね?」
「伊野……小百合さん……ですか?」
ウェイトレスは銀の丸トレイを抱えて考え始めた。常連のお客さんばかりでなく、知り合いに『伊野小百合』という名がいるか脳内で検索しているような素振りだった。もしかしたらと期待して「もう七十歳は超えているお婆さんなんですがね」と付け加えた。
「申し訳ありません。ちょっと……分からないです」
「そうですか」
「あの……私、バイトなので……もしかしたら、オーナーなら分かるかもしれません」
「あぁ、なるほど。その、オーナーは? 今いらっしゃいます?」
「少々お待ち下さい」
オーナーというくらいだから、バイトの子よりは歳上だろうし周り近所のことも詳しいだろう。ダメ元でやってきたものの、何かしらの収穫が得られれば来た甲斐もあるというものだ。
呼びに行った彼女の代わりに、品のある小柄な初老の女性が現れた。北から預かった伊野さんの若かりし頃の写真を思い出し、目の前の女性と重ね合わせてみた。似てそうで似てなそうで……三十年も経てば大きく変化するだろうし、無理に合致させてしまうのは自分勝手な思い込みとなってしまう。とりあえずは、伊野さんの名前で反応を見ることにしよう。
「関川探偵事務所の関川二尋と申します。こちらは、助手の関川ルナ。突然の訪問で申し訳ありません。今、人探しをしてまして」
「人探し……ですか?」
「えぇ。伊野小百合さんという方を、ご存知じゃありませんかね?」
「伊野……」
「お知り合いではなくても、聞いたことのある名前だったりとか」
「そうですねぇ。よく来て下さるお客様には、伊野さんという方はいらっしゃらないですわねぇ」
「失礼ですが、こちらのご出身ですか?」
「いえ、元々は東京で暮らしてましたが、色々と疲れてしまってねぇ。静かに過ごせそうな場所が無いか探していたら、ちょうどここを見つけて。もう何年経ったかしら? 忘れてしまいましたが、おかげさまで悠々と暮らしております」
「東京に居た頃も、伊野さんという名前に心当たりはありませんか?」
「伊野さんねぇ……ごめんなさい、初めて耳にした苗字だわ」
「そうですか……」
僕は店内を見回して、何か話を繋げるネタは無いか探した。レジ脇の壁に設置されてる正方形の棚に、ジャンルも大きさもバラバラな本が数冊飾られていた。中には同じ背表紙のものが三冊くらい見受けられる。
「あそこの本、売ってるのですか?」
「あぁ、あれね。自費で作った小説を置かせて欲しいっていう人がいるのよ。そういう人、けっこういるのよね。売れたら一割だけ手数料をもらうようにしてるけど、まぁ……店内で暇つぶしに読んで買っていかないお客さんばかりね」
「でも、読んでくれる機会を用意してもらえるのって、小説を書いてる者としてはありがたいですよ」
「あら? ということは、あなたも?」
「えぇ……そうだ! 良かったら、僕の本も置かせてもらえませんか?」
そう言って、僕はカバンから一冊の本を取り出しオーナーに手渡した。
「賢者の手? なんだか面白そうなタイトルね」
「是非、時間のある時にでも読んでみて下さい。できれば、感想なんかも聞かせてもらえれば……」
「わかりました。売れたら報告しますので、連絡先を教えて下さる?」
「では、こちらの名刺にある番号で……お願いします。事務所でも携帯の方でも、どちらでも構いませんので」
本と名刺を渡し、タクシーを待たせているからすぐに帰ることを詫びて、僕たちは店を出た。トランクの荷物があったので、帰りは電車ではなくタクシーでそのまま事務所まで行ってもらった。
車の往来も少なく、遠くの山や広がる空を遮るものが何も無い田園風景を眺めながら、僕は窓を少しだけ開けて爽やかな空気を吸い込みもの想いに耽っていた。横でルナが「ねぇ」と呼ぶまで、時間も場所もわからぬままボケっとしていた。
「ん? なんだい?」
「帰ってきちゃって良かったの?」
喫茶店でオーナーと話している間、ルナはスマホを使って彼女のことを調べていた。店を出る時に僕を呼び止めようとしていたけど、そのまま背中を押して出てきてしまった。
――上杉
窓を閉め、カバンからタブレットを取り出し、ルナから送られてきた情報を確認した。そして一言「デリヘル……か」と呟き、電源を落とした。
さらにルナは、僕がオーナーと話している時にこっそりと写真を撮ったようで、預かっている伊野さんの顔写真と照合していた。結果は、高確率で骨格が一致していた。つまり、あのオーナーは上杉
「うん。そうだろうね」
「知ってたの?」
「話しの途中から……もしかしたらって思ったよ。伊野さんの名前を出したら、表情が微妙に変わって視線が定まらなくなってきたからね。本人は平静を装ったつもりだろうけど」
「じゃあ、どうして?」
何も問い詰めないで出てきたか、と言いたそうな表情だった。僕は窓の外を眺めながら「データを突きつけても、証拠にはならないからね」と答えた。仮に伊野さんが生きていて、誰かのアイデンティティと入れ替わったとしても、それはあまりにも時間が経ち過ぎていたし、突きつけたところでシラを切られるのがオチだろう。相手は、酸いも甘いも経験してきた老婦人なのだから。
「じゃあ、本を置いてったのは何で? 売れたら補充に行くの?」
「いや、仮に売れても連絡は来ないと思うよ」
「どういうこと?」
「ここから先は、あの人の気持ち次第だ。本当に伊野さんだったら、何かしら動きがあるかもしれないし、何も変化は無いかもしれないけどね」
興味があると言ったのはリップサービスだったかもしれないが、僕の書いた『賢者の手』は今の彼女には是非とも読んでもらいたい。嘘はいずれバレるもの、世の中には理屈抜きで真実を暴く者がいることを、それとなく知って欲しい。そして罪を犯したものは、やったことを決して忘れてはならない。たとえシラを切り通せたとしても。
「プレミアのおじさんには、どう報告するの?」
「そのままだよ。伊野さんが生きているかは、調べても分からなかったってね。それでも報酬はもらえるし、やる事はやったさ」
「嘘はいずれバレるんじゃない?」
「ぐっ……大丈夫だ。ルナがバラさなければ……ね。嘘のレベルが違う」
「ま、私はどうでもいいけど。なーんか、結局はフタヒロさんの本を押し付けに行っただけみたいな感じだったね」
「押し付けにって……言い方っ!」
「
「それも勘弁してくれ……」
長いトンネルを抜けると、空はすっかり暗くなっていた。広い空に満月がくっきりと浮かんでいる。遠くで東京西部の街明かりが煌めいていた。
ふと、マリアのことを思い出した。そして、一茶さんは今頃どこで何をしているだろうか。僕は両手をパンと合わせて、目を閉じた。
たまに……『賢者の手』を頼りたくなる時がある――。
『賢者の手/関川二尋』
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