第14話 三枝 秋文

 仕事仲間の三枝だと気づいた清吾は「あ」と間抜けな声を上げた。三枝の方も清吾に気がついたような表情を浮かべた。


 このような状況は本来なら確実に無視する案件なのだが、知り合いなのでそう言う訳にもいかない。

 見捨てておいて、明日の職場で「昨日は大丈夫でしたか? 」などと惚けている場合では無い。


 そんな薄情な事をすれば、仕事場での清吾の信用問題に関わる。次会う職場で気まずさ百倍である。それどころか、今日、今、三枝 秋文はここから無事に帰れるかどうかさえわからない状況である。


 清吾はひかりと翔太を急かして、一旦この場から離れた。


 それからひかりに同僚の危機だと説明して、翔太を連れて先に帰ってもらうことにした。ひかりは何度も何度も「危ない事はしないで下さい」と、清吾に念を押した。清吾もそんな気はさらさら無い。

 後々の事を考えると一応、声をかけるフリくらいはしておかないといけないと思っていただけである。その旨を伝え、清吾はひかりに無事帰ると約束した。


 ひかりが翔太を引きずって足速に帰ったのを確認して清吾は引き返した。


 引き返している間、清吾は飲茶を食べに来た事を後悔していた。「やっぱり、天麩羅にしておけば良かった。だったら、こんな事にはならなかったのに……」と心の中でそればかり繰り返していた。


 清吾が先ほどの場所に戻るとそこには誰もいなかった。三枝はまた路地裏に連れ込まれたのだろう。清吾は恐る恐る路地裏に足を踏み入れた。


 路地裏の光景は、清吾にとっては全くの異世界である。

 暗く異様な雰囲気が漂う路地裏では先ほどのゴリラみたいな男が三枝の胸ぐらを掴み軽々と持ち上げていた。圧倒的な異次元の世界に清吾は只々怖くなった。


「あの、すみません」

 清吾は消え入りそうな声で恐る恐る声を掛けた。


 ゴリラ男が振り返って清吾を見て舌打ちした。ヒョロノッポが大声を張り上げながら清吾に向かって来るのを、ゴリラ男が止めた。そしてゴリラ男は、秋文の胸ぐらを掴んでいる手を放した。不意に手を放された秋文は、地面に上手く着地出来ずに尻餅をついた。彼は声を出さずに、痛そうに悶えていた。

 それから秋文は清吾の方を見て「ニカッ」と歯を見せて笑った。その笑顔は、清吾に「心配しなくても大丈夫」と言っているようだった。


 秋文を解放したゴリラ男は、向きを変えてズンズン足早に清吾に迫って来た。


 ゴリラ男の威圧的な雰囲気と暴力的に厳つい体格に、清吾は慄いて言葉も出なかった。

 この男の丸太のように太い腕で殴られたら、一発で即死のあの世行きだろう。清吾の柔い身体では首が千切れ飛ぶかもしれない。そんな事を考えながら見つめていた……と言うより見つめている他なかった。蛇に睨まれた蛙の如く、恐怖で微動だに出来なかったのである。


 遂にゴリラ男が目の前に迫った。清吾が殴られると思い身構えた瞬間、彼の大きな分厚い左手がゆっくりと清吾の右肩に置かれた。


 手の重みで清吾を地面に埋める気なのかと思うくらい、置かれた手は重かった。


 それからゴリラ男は「そう怖がらなくても俺は関係ない人間に危害を加えるつもりは無いよ」と言いながらニッと歯を見せ屈託の無い笑みを見せた。


 その笑みが余計に清吾を恐怖のドン底に落とした。

 清吾は冷や汗が止まらなかった。


 男に向かって言う事だけ言って直ぐに諦めて帰れば、三枝の事を助けようとした清吾の体面は保てるだろうと考えた。

「彼は職場の仲間なんです」

 清吾は震えながらもなんとか言うことが出来た。

 そして、この男が優しい間に帰りたいと切に願った。

 只々、この男が恐ろしかったからだ。まだ一度も怒らせてもいないのに、兎に角怒らせたくなかった。


 暴力団の脅しの手口として、恫喝と懐柔を繰り返すというのを聞いたことがある。暴力団からすればもうこの人にこれ以上怒られるのは嫌だと思わせればいいだけだ。相手に怒鳴られたくないから、要求を呑んでしまう仕組みである。


 だが清吾の心は怒鳴られる前から既に縮み上がり、完全にへし折れてしまっている。


 清吾の言葉を聞いて男は納得いったように言った。

「あっ、ああ、そうなの、それでかぁ。うーん、でも彼は我々に借金をしていてね。返済も滞っていてるし。これから君も、こんなのに関わらない方が良いんじゃないかな」

 男は案外、聞く耳を持っているようで、逆に清吾にアドバイスをしてきた。冷静且つ丁寧な口調で言い終えた男は肩をすくめた。


 今のがまさに懐柔作戦なのかどうなのか清吾には分からない。怖かったが彼は対話を試みた。

「お、お幾らですか? 彼の借金は? 」


「百五十万」

 男は満面の笑顔で答えた。


「今すぐ送金します。口座を教えて下さい」

 清吾は迷わず応えた。

 清吾はどうして彼の代わりに払おうと思ったのかのか自分でも分からなかった。ただこの偶然の出会いに運命を感じたのだろうか。何故かは分からないが、そうした方が良いような気がしたからだ。


 清吾の問いに男は少し驚いた顔をした。それから溜め息混じりに首を振ると清吾を諭すように話し出した。

「馬鹿を言っちゃいけない。コイツは君の同僚かもしれないが、そこまでする仲なのかい? もし只の仕事仲間ってだけなら、お人好しにも程があるぜ。悪い事は言わないから、こんなだらしのない男と関わるのは止めて、今すぐ来た道を戻りなさいよ」

 どうやら男は本当に親切心で言っているようだ。

「ヤクザのくせに……」言葉には出さなかったが、心で呟いた。


「清吾くん、俺は大丈夫だから」

 奥でノッポに髪の毛を掴まれながらも気丈に振る舞う秋文の目は、何時も冗談を言っているそれとは違い、かなり緊迫して見える。


 ヤクザ者の男や秋文も言っているように、清吾は今すぐ踵を返し帰りたい気持ちで一杯ではある。だがここで清吾が立ち去ってしまっては秋文が無事に済むはずがないのは明らかである。


「いえ、今すぐ送金しますので彼を助けて下さい」

 清吾は言葉を振り絞った。


 ゴリラ男は少し呆れたように「了解した」と短く返答した後、口座番号を教えた。

 清吾が素早く携帯から送金すると、ヤクザな男達は立ち去った。去り際にゴリラ男の方が清吾に領収書と名刺を渡し「君、なかなか良いよ。何か困った事があったらここに連絡してきなさいよ」と言った。


 名刺には「解決屋 六角 海道」と書かれていた。

「かいけつや ろっかく かいどう」

 清吾は唸る様に読み上げ、鼻で笑った。

 名刺をくしゃくしゃに丸めてポケットにつっ込むと「絶対に連絡などするかっ! 」と固く心に誓った。

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