第2話
穏やかな日差しに包まれた気持ちの良い土曜日の朝。
閑静な住宅街。アスファルトで綺麗に舗装された長く続く坂道。
坂の上方、付近を見下ろすように広大な敷地に大きな洋館が建っている。
その大きな館の外観は神戸の北の異人館にある、うろこの家とそっくりである。外装はほぼ完璧にうろこの家を再現されていると言える。
外門から庭までに階段、庭園から館の入り口までに階段と、二階建ての建物プラス三階展望塔でかなりの高さになる。遠目からでも目立つ、近所でも有名な建物だ。
館の形や配置、庭園の様相は本物と同じように作られている。ただし大きさと部屋数はコチラの方が上である。この館の立地場所もかつての所有者が、異人館のうろこの家に想いを馳せ坂道の多いこの地域を選んだのだろう。
門や庭の外壁には
「写真撮影禁止、無断でSNSなどに載せられた場合、必ず法的手段に訴えます。」
とかなり強気で攻撃的な断り文句の紙が貼られている。
一見、風変わりな外観と手入れの行き届いた綺麗な庭を見物に沢山の人々が押しかけて来そうなものなのだが、この洋館のプライベートな空間は完全に守られている。
近所の人たちからは、この奇妙な洋館の持ち主は狂人と思われているからだ。誰しも狂人とのトラブルは避けたいのだろう。
美麗で壮観な外観ではあるが同時に威圧的であるこの洋館に対し周りの人々は畏怖の念を抱いているようである。
今、その洋館の三階の一角にあるサンルームの半円柱の塔の窓際に男が立っている。
館の主であるその男は、高級そうなガウンを身に纏い、優雅にコーヒーを啜りながら下々の街を見下ろしている。
港が近く、海も見える眺めは、さぞかし素晴らしい景色であろう。
正に人生の成功者のようなこの男の名は、一色 清吾。そう…………彼は一昨日、彼女にフラれたばかりのマウスの飼育員、その人である。
うろこの家の建設が1905年頃。
食品会社から大企業グループに成長させ一大帝国を築いた清吾の曾祖父がうろこの家を見て深く感銘を受け、似た土地を探し、同じ洋館を建設したのだ。
約百年前から存在する圧倒的存在感のこの洋館を地域の人間達は好奇の目と、怖れの気持ちで遠巻きに眺めるだけである。
彼は少年時代に、この洋館を親から相続した。館だけでなく両親の全ての資産を受け継いだ。何故なら彼が小学二年の時に両親が事故で亡くなったからだ。
当時、一色グループの会長の事故死として大ニュースになったのだが、清吾の庇護者があらゆる権力を行使して清吾のことに関しては一切、表に出る事は無かった。
それから彼は父方の祖母と二人きりでこの館で暮らしていく事となった。祖母は清吾を厳しく、そして愛情深く育てた。
程なく両親の経営していた全ての会社の所有権は清吾の名義に変更され、幼い清吾に代わり親戚達が企業を運営する事となった。幸いにもドラマに出てくる様な
彼には働く必要など無いくらいの資産と、親から受け継いだ会社からの毎月潤沢な収入で豪華に遊んで暮らせるだけの資金は充分過ぎるほどある。それどころか彼の資産はどんどん増えていく一方である。
では何故十分にお金のある彼が、マウスの飼育員として働いているのか? 何故、自分自身の会社で働かないのか?
彼の性格では企業のトップとして会社を運営することは難しいとの祖母と親戚の判断である。
彼の親戚が言う通りに適当な役職で彼の会社で働いても良いのだが、そうすることはしなかった。
ただ祖母は「お金あるからと言って怠惰に暮らさず真面目に働いて、真面目に生きてほしい」と言うように清吾を教育した。
そこで彼は高校卒業後マウスの飼育員になった。彼は彼自身を過小評価する傾向がある。祖母はマウスの飼育員が悪いとは思わなかったが、良いとも思わなかった。
清吾が真面目に働けば、ただ何でも良かったようだ。彼女の教えで清吾は、兎に角真面目に一生懸命働いてた。
祖母は清吾と暮らし始めて直ぐに大切な規則を幾つか作った。
細かい規則の中でも一番大事なのが
『二十五の歳になるまで誰も、この館には絶対に入れない。見せない。場所を教えない』と言うルールだ。
これは清吾の財産目当てで近づく人間から守るためで、彼の祖母が二年前に亡くなってからも彼はこの事をしっかりと守った。小学生の頃からの友人も誰も彼の家の場所さえ知らない。
祖母と親戚が学校の方にも情報を漏らさないよう徹底してもらっていたのだ。そのせいか清吾には友人と呼べる人間等一人もいないのである。それでも祖母の考えが間違っているとは思わない。寧ろ感謝している。
彼は約束を守り、彼女の優子にも自身の家に入れなかったし、場所も教えなかった。そう、彼は誕生日である今日、彼女を家へ招こうとしていたのだが……今となっては、どうでも良い事である。
次に
「身体を壊さない限り、二十五まではしっかりと働く」
と言うルールである。
「怠け者になってはいけない」とか「社会経験くらいは無いとダメだ」と清吾の祖母は事ある毎に言っていた。
祖母はもし二十五才を超えても尚、自分の会社で働きたいと思うなら構わないとも言っていた。二十五歳を越えれば流石に自分で考えて行動しろと言うことなのであろう。
清吾は遠く見える海を眺めながら、昨日の秋文の話を思い出していた。「マウスでさえ他人の子を育てるのに、人間は本当の自分の子を育てないどころか殺す者までいる」と言うような事を話していた。
確かに自分の子を育てないマウスもいる事にはいるが、「知性のある哺乳類代表の人間が何をやっているんだ」と秋文は言いたいのだろう。
そう考えると祖母も亡くなった今、孤独の清吾にはマウスの義家族が羨ましく思えた。清吾もいつか幸せな家族を築きたいと思っていたのだが……優子にフラれた現在それも難しくなった。
この孤独で寂しく、やるせない気持ちをどうやって埋めれば良いのだろうか。
今日は彼の誕生日であるにも拘らず何もすることがない、イヤ何もする気が起きない。
清吾の代わりに会社を経営して貰っている親戚から「清吾の誕生日の祝いに一緒に食事しようと」誘いの連絡があったのだが断った。落ち込んでいる気持ちを気遣われるのも嫌だったからだ。
彼は淋しさを紛らわす為に今日、明日、祝日である明後日と酒を呑んだくれて過ごすため、大量の食糧と酒を買い出しに出かけることにした。
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