坂の上にある情景

ムギオオ

第1話 その男は、幸せな家庭に憧れているだけである。

 M大学医療動物実験研究施設内のクリーンエリア。

 マウスの飼育員である一色いっしき 清吾せいごはケージ交換の作業の手を止めて物思いに耽っていた。


 昨日の晩、彼は恋人である霧島 優子から電話で別れを告げられ酷く落ち込んでいる。

 今日は彼が25才になる誕生日だと言うのに…………。


 めでたい気分とは程遠い最悪の誕生日を迎えた彼は、チョロチョロ動き回るマウスを掴む余裕も元気も無かった。


 清吾は高校卒業後この大学で飼育員として働き始め今年で七年目になる。

 霧島 優子は一色 清吾の三つ下であり、彼の三年後に飼育員としてやって来た。始め清吾は優子に全くと言って良いほど興味は無かったが、彼女からの積極的なアプローチを断り切れずに二人は付き合い始める事となった。


 清吾は最初彼女の、しょぼくれた小さい瞳も、丸い顔も、気の弱そうに下がった眉毛も、小柄で足の短く、胸が小さく寸胴でスタイルの悪い所も、服装が地味でダサい所も、気に入らなかったが全て我慢して付き合うことにした。

 何故なら彼自身も人並みの平凡な顔であり、平均的な身長、何の特技も無く、全てが十人並みの真面目だけが取り柄の、特に面白味のある人間では無いので、自分が選べる立場では無い事を充分承知していたからだ。


 ただ長年付き合う毎に、彼女のしょぼくれた小さい眼も、丸い顔も気の弱そうに下がった眉毛も、小柄で足の短く、胸が小さく寸胴でスタイルの悪い所も、服装が地味でダサいところも、段々と愛嬌があって良いと感じていた。

 それは、ただ単に彼女に情が湧いたと云うべきであろうか。


 そんな彼が二十二歳から付き合い始め、三年後の二十五歳目前に振られることになるとは夢にも思っていなかったようで、正に晴天の霹靂、寝耳に水状態であった。


 優子は今年の三月に専門学校に通うために仕事を辞めたばかりであった。僅か三ヶ月の間に何があったのだろうか? 


 本来なら金曜日の今日は二人きりでずっと過ごすつもりだったのに…………。

 清吾の考えでは、今日の二十五になる誕生日には彼女を初めて自分の家に招待しようと思っていたのだが…………昨日突然電話で別れを切り出された。

 三年の付き合いがアッサリと終わり、今日は何も予定が無くなってしまった。誕生日の前日にそんな話をするのは流石に酷くないだろうか。


 彼は理由を訊くことはしなかった。イヤ突然の事に動揺して理由を訊けなかった。

 彼女の気持ちの変化に全く気が付かなかった自分自身の鈍さ加減に呆れ果てるばかりである。


 彼女を引き留める事はしなかった。彼にもそれくらいのプライドは辛うじて残っていたからだ…………と言えば聞こえは良いが、彼女の断固とした意志と、彼女の今まで聞いたこともないような冷めた話し方で、清吾は引き留めても無駄であると感じたからだ。


 だが彼は今とても後悔している。本当は振られた理由がとても知りたいからだ。もう一度電話して今更振られた理由などとても訊けない。

 彼なりに真剣に付き合って将来は彼女との結婚も考えていたのだが…………自分に何か悪い所でもあったのだろうかと、彼はずっとそんな事を考えていた。


「しっかし、こんなちっぽけなネズミでさえ自分の子でもない赤ちゃんを育てるのに、どうなってんのかねぇ最近の世の中は? 」

 部屋で一緒に作業をしている三枝 秋文の声で清吾はいきなり現実に引き戻された。秋文は喋りながらも、マウスの尻尾を摘み上げては新しいケージへとドンドン移し替えて作業の手を休めない。


 三枝 秋文は霧島 優子と入れ替わりに入ってきた飼育員である。だからと言って彼は新人と言う訳ではなく、違う製薬会社で飼育員として働いていたベテランである。

 彼は明るく、背が高く、端正な顔立ちと、少し調子の良い所もあるが、人当たりの良い性格でたちまち飼育員仲間の人気者になった。


 真面目で寡黙な清吾とは正反対である。正反対の性格ではあるが、清吾は秋文のことが不思議と嫌いではなかった。

 彼の調子の良い性格も、軽さも、愛嬌があって憎めない人間だと清吾は感じている。


 ある時、清吾は秋文に何故このような仕事をしているのかと訊ねた事がある。華やかな秋文にはもっと違った、彼に似合う職種が幾らでもあるだろうと思ったからだ。

 この仕事は暗くて地味なイメージがある。人と接する事が苦手な人たちが働いていると思われがちだからだ。

 清吾もそう思っていたので、この仕事を選んだのだ。

 実際のところ話好きな人も多く、明るい職場であった。そしてそんな職場が清吾は嫌いではない。


 清吾の質問に対する秋文からの返答は「俺には夢があるからねぇ」であった。

「なに言ってんだ、コイツ? 」と当時の清吾は思ったが、秋文の機嫌を損ねない様に曖昧に相槌を打ったのを覚えている。


 彼は美術大学を卒業して自分の個展を開くべく奮闘しているのだ。


 秋文の美術大学では卒業後、運とずば抜けた才能、財力、そして強力なコネがあれば芸術の道へと進み、運が良ければデザイン会社などに就職する。しかし大半の生徒が自分の学んだ分野と関係のない所で働くか、芸術の道を諦めきれずにアルバイト生活などで食い繋ぐ毎日を過ごすはめになる。そういった人間の殆どが結局は身動きが出来なくなり腐って行くのだそうだ。そして彼も例外ではなかった。


 一般企業に就職する気などサラサラ無い秋文はギリギリやっと生活出来るだけでも良いから自分のやりたい事で暮らして行きたいようだ。


 自分のやりたい仕事で生活できるのは一握り、有名芸術家になるなどとは、一握りの中のさらに一つまみだ。


 彼は就業時間が長くない仕事を選び、ある程度の自分の為の時間が取れるこの仕事を選んだようだ。

 別に誰にも認められずとも、ただ自分の趣味として作品を作り続けるような人間にはなりたくはないのだ。秋文にはその様な人間が無様な言い訳をする負け犬に思えるからだ。


 彼は仕事の後は自分の作品作りに没頭するのだ…………いつの日かの成功を夢見て。


 清吾は秋文のそのような考えを羨ましく思った。彼は自分にも何か特別な才能が有ればなぁ…………と、ただ漠然とそう思うだけなのである。


「そりゃ、自分の本当の子であっても育てないネズミもいるけどさ…… って、オイオイ、ちょっと! 全然進んでないじゃんか、セイゴくん! 」

 秋文は話し続けながらもチラリと清吾の様子を見て唖然としている。

「えっ、あっと、うん」

 指摘された清吾は慌てて作業を再開しだした。


 秋文は、親が子を虐待する最近のニュースの話をしていたのだろうが、昨日恋人にフラれた清吾はそれどころではない。


「どうした? ひょっとして具合悪いのかい? 」

 秋文は心配そうな声を上げ、作業を中断した。


 清吾は、思い切って今の胸の内を全て秋文に話してしまおうかと思った。誰かに聞いて貰えば少しはスッキリするかもしれないと考えたからだ。


 しかし秋文のように女性からモテる人間には自分の気持ちなど到底理解できないだろうと考えて彼は言葉を飲み込んだ。

 そして「大丈夫です。ちょっと、考え事をしちゃって」と言った後、黙々と作業を続けるのであった。

「ちょっとぉ、相変わらず、無気力症候群だなぁ、もう」

 秋文は清吾を揶揄った。

 彼は清吾の事を感情の起伏の無い無気力な人間と捉えているようだ。


 確かに普段、喜怒哀楽をあまり出さない清吾だが全てにおいて無気力という事も無い…………と、自分では思うのだが…………他人からはそう見えても仕方がないかもしれない…………そして確かに、いつ何時も気力は無い…………覇気も無い。今はより一層…………何も、無い…………。


 結局、清吾はこの日、昼休み時間になっても作業を続ける羽目になった。

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