花の下に、思い出を

一刻ショウ

花の下に、思い出を


 ――生まれ変わっても、また。


   1


 あれは花の季節だった。

 咲いていたのはなんの花だったか。ただ花びらがいくつも宙を舞っていたのを覚えている。

『――……』

 誰かが振り返ったような気がしていた。遠くぼやけた記憶の中で小さな唇が動く。呼びかけられている、と思った。

 その人は自分に話しかけている。よく見えないけれど、顔は確かにこちらを向ていて、微笑みをたたえているように見えた。

 うつくしいひとだ。

 顔のつくりはわからない。けれど、昼の穏やかな日差しを浴びる立ち姿は、花の妖精のようで。

 蜃気楼にかき消されそうなそのひとを見ていると、どうしようもなく焦燥感が湧き上がってくる。はやく逢わなければ。

 はやく逢いに行かなければ。

『――……』

『――……』

 あやふやな声に応え、自分もなにかを言った、ようだ。すべてが頼りない情景の中では己の声さえ聞こえない。

 夢を見ているようだ。

 手を伸ばしても、足を動かそうとしても、一寸も前には進めない。あのひとの傍には近寄れない。はやく逢わなければいけないのに。

 耳がぼわぼわと、水中にいるかのように利かなくなる。目の前が滲んでいく。

 眠りに落ちるように、急速に周りが認識できなくなって。

 それでも、最後にが声を立てて笑ったのだけは、間違いようもなく――。


   2


 目が覚めた。

 塩化ビニルの素っ気ない天井が目に入る。カーテンの隙間から無彩色の日光が差し込んでいささか眩しい。

 光を避けようと寝返りをうつと、ぎりぎり腹に引っかかっていた毛布がばさりとベッドから落ちた。ため息をついて体を起こす。

 今は何時だろう。

 枕元で伏せたままになっているスマートフォンをひっくり返すと、目覚まし用にセットしたアラームがいつの間にか無音状態になっていて、バイブレーションを繰り返していた。

 アラーム画面の表示は八時。二時間の寝坊だが、問題はない。せわしなく震えるスマートフォンを黙らせて床に足をつける。

 今日は日曜日だ。

 スウェットのままリビングに下りると、もう誰もいなかった。そういえば今日は両親ともに出かける用事があると言っていたな、と思い出す。

 がらんとして火の気のないリビングは、カーテンが開け放たれていたせいか暖かかった。外はよく晴れているらしい。寝起きでもつれた髪を手櫛で整えながら冷蔵庫を開けて、とりあえず作り置きの麦茶を飲む。

 さて、どうしよう。

 昼食をとるには早いが、朝食にはちょっと遅い。

 少し考えて、戸棚からシリアルを出した。牛乳をかけたそれをキッチンに立ったままもそもそ食べる。どこかへ出かけよう。薄暗いキッチンから明るい庭を眺めてふとそう思った。せっかく天気がいいのだし、うちに居たってすることもない。


 パーカーとジーンズに着替えて家を出る。

 行先は特に決まっていないが、なんとなく駅とは反対方向に歩き出した。まあ駅の方は、学校の行き帰りに嫌でも通るし、あんまり人の多いところへ行く気分でもない。

 日曜の住宅街は人気が少ない。みんなどこかへ出かけているか、あるいは家でのんびりしているのだろう。

 道中のコンビニに寄って飲料コーナーを物色する。目移りしつつ最終的にジンジャーエールを選んで取り出した。炭酸飲料は好きだ。レジに並んだとき、つい横のホットスナックに目が留まる。

 結局アメリカンドッグを買ってしまった。

 さっきシリアルを食べたばかりなのだが、まあいいだろう。そんなにたくさん食べたわけではないし。

 甘い生地をかじりながらてくてく道を歩いていく。

 真ん中に水路のある道路は、街路樹がまさに花の盛りだった。

 ぼうっと花を眺めている間にいつのまにか公園に着いていた。公園といってもそんなに広くない。住宅と住宅の隙間に空いた空間を利用した、ちょっとした休憩所みたいなものだ。

 そこに、そのひとはいた。

 黒い髪が春風にそよぐ。

 花びらが宙を舞う。

 桜の木の根元に、そのひとは立っていた。

 どこかで見たことのある光景のような気がして、思わず足を止める。こんな知り合いはいないはずなのだけれど。

 猛烈な既視感が襲いかかって思考が鈍る。まるで夢を見ているようだ。

 黒く長い髪に覆われた白い頬がわずかに動く。振り返る、と瞬間的にわかった。

 振り返った。

 黒目がちな瞳と目が合う。知っている、と思った。なんの根拠もなく。理性では知らないと判断しているのに、感情がそれを否定する。知っているのだ。昔からずっと、このひとを知っている。

 彼女は笑っていなかった。記憶の中では微笑んでいたはずなのに。

 少し不思議そうな顔で、小首を傾げてこちらを見る。黒檀の髪に白磁の肌、墨で描いたような瞳。

 春のようなひとだ、そう感じた。

 たったいま舞い落ちていく花びらと同じ色の唇が動く。

「――あなたは……」

 惜しみのない日差しを浴びて、桜がよく似合う彼女は口を開いた。きついところのない、パウダリックな声。

「どこかで、会った、かしら?」

 どくん。

 心臓が音を立てて飛び跳ねた。そのまま止まってしまうかと思った。

 返す言葉を考える前に、首が勝手にがくがくと頷く。舌をもつれさせながらなんとか応えをひねりだした。

「お、おれも。おれもそう思ってました! けど、思い出せなくて。すいません……」

 ふわり。

 彼女は微笑みを浮かべた。どこか現実味のないやわらかな笑みは、やはり記憶を刺激する。

「どうして、謝るの? わたしも、思い出せないわ……たしかに、知っている気が、するのだけれど」

 一言ごとに区切る喋り方は、妙に芝居がかっているようで。それでいて彼女には自然体であるように感じられた。

「そうだわ」

 くるり、と体ごとこちらに向き直った彼女が手を合わせる。

「お名前を、教えてくださる? そうしたら、思い出すかも、しれないわ」

 ふっくらとした唇の両端が上がって、いたずらっぽく目が細められる。

 うつくしいひとだ。

 少しだけ見惚れながら名前を言うと、彼女はまた首を傾げた。

「やっぱり、思い出せないわ……。あなたは、わかるかしら?」

 そう言って教えられた名前は、残念ながら記憶のどこにも引っかからなかった。どうしてだろう。こんなにも”知っている”のに。

 その旨を伝えると、彼女も残念そうな表情をした。

 白い顔がうつむいて、髪が肩をすべりおちていく。

 けれど、次の瞬間にはぱっとまた前を向いて、その陶器のようなおもてにはおっとりとした笑みが浮かんでいた。

「思い出せないなら、仕方がないわ。また、お会いしましょう」

 きっと、会える、でしょうから。

 最後に意味深な言葉を残した彼女は、セピア色のスカートをひるがえして、公園を出ていった。

 彼女の現実離れした雰囲気にあてられていた自分は、ついぼんやりと見送ってしまう。

 そして気づいたときにはもう遅く、道路に飛び出して探してみても、彼女の影は道のどこにも見当たらなかった。


   3


 月曜の朝は憂鬱だ。

 貼り付く目蓋を無理矢理引きはがして目を開く。

 鼓膜を揺するような金切り声をあげるアラームを切って、なんとか体を起こした。

 昨日のことが頭から離れない。

 そのせいで昨夜はなかなか寝付けず、今朝はすこぶる眠かった。

 やや生地がテカってきた学ランに袖を通して階段を降り、まずは洗面所に向かう。

 顔を洗って寝癖を直すとやっと目が覚めてきた気がする。食欲はあまりないのだが、惰性でダイニングに入って用意された朝食を片づける。

 だらだらとトーストを押し込んで時間ギリギリに席を立つ。

 高校までは、電車で十分。そのあと徒歩で十五分。正直だるいが仕方ない。

 さすがに平日の朝ともなれば人通りは増える。誰も彼もスーツや学生服に身を包んで、辛気くさい顔でつかつか歩いている。

 自分もその群れに交じって、耳障りな数十の足音をかき消すようにイヤホンから音楽を流す。

 ベルトコンベアに乗った部品みたいにぞろぞろ駅に着いた自分含む人波は、そのまま車両に乗っけられて、会社あるいは学校へ出荷されていく。

 まだ春なのに蒸し暑さすら感じる車内で受動的に流行りの曲を聞きながら突っ立て十分、電車は一分の狂いもなく下車駅に到着した。ぐわっと塊ごと押し出されて改札を抜ける。

 しばらく歩いたころには、周囲はほとんど自分と揃いの制服だらけになっていた。

 教員の立つ校門を意味もなくひやひやしながら潜り、玄関で靴を履き替えて階段を上がる。なんだって毎日こう面倒くさいことをしなくてはならないのか。

 べつに勉強するのが嫌だというわけではないのだけれど、人にもまれながら通学するのは億劫だ。精神的に疲労する。

 教室に入ると、なにやら妙にざわついていた。

 挨拶がてら近くの席の生徒に訊ねたところ、どうやら転校生が来るらしい。

 このクラスに、だ。

 始業式からまださして日が経っていない今ごろに転校とは、なにかの事情で新学期の始まりに間に合わなかったのだろうか。

 まあ、自分には関係のないことだが。

 他人と深い付き合いはしない主義だ、雑談くらいはするかもしれないが、相手の事情に首を突っ込む気はさらさらない。

 音だけは軽妙な予鈴が鳴り、くたびれたスーツの担任が入ってくる。いつもすぐ閉めるはずのドアを開け放したまま。

「えー、もう知っているひともいるかもしれないが、今日からこのクラスに、新しい生徒が通うことになった」

 担任が廊下へ向けて手招くと、開いたままのドアから女子生徒が入ってきた。

 冬服の黒いセーラー服。

 黒檀の髪に、白磁の肌。

 思わず息をするのも忘れて黒板の前を凝視する。

 彼女だ。

 昨日桜の下で会った、あのうつくしいひとだ。

 彼女は澄ました表情で担任の横へ立っている。促されて口を開いた。やはりやわらかな、パウダリーな雰囲気のある声。

「はじめまして。少し遅れて、しまいましたけれど。片桐かたぎり玲衣子れいこといいます。今日から、よろしくお願いします。」

 区切るような口調は変わらず、丁寧は話し方はそういえばあまり高校生らしくないなと今更ながらに感じる。

 じっと見つめている間に自己紹介を終えた彼女は、担任に指示されてひとつ頷くと教壇を降りてこちらへ向かってきた。

 そのままにこりと笑みを浮かべて、隣の席――クラスで唯一空いていた、窓際の一番後ろの席に着く。

 名字は”か行”だが、とりあえずは余った席を使うらしい。

「やっぱり」

 彼女は朝礼を始める担任の目を盗んでこっそりと話しかけてきた。

「また、会ったわね?」

「どうして……」

 昨日会ったときには、自分は制服も着ていなかったし、ここの生徒であることはわからなかったはずだ。なのにどうして、また会うことを知っていたのだろうか。

「なんとなく」

 彼女はまたいたずらっぽく微笑んで目を細めた。

 黒い瞳は、同色の髪とおなじく、白い肌によく映える。薄紅色の唇が弧を描いた。

 ねえ、と囁く。

「あとで、校内を案内して、もらえるかしら?」


   4


 昼休み。

 授業終わりのチャイムが鳴るなり目線で圧をかけてきた彼女を連れて購買へ行く。

 購買があるのは玄関のすぐ近く、体育館との渡り廊下の間だ。広めのスペースが開いているとはいえ、昼休みが始まってすぐはごった返す。

 それでもなんとか昼食のパンを二人分ゲットして、今度は校舎外へと場所を変えた。

 教室のある校舎と特別校舎との間には中庭がある。

 ベンチがいくつか置かれていて、人通りもあまりないので(そのぶん日当たりも悪いが)自分は穴場スポットとして利用している。

 裏口からちょっと離れたベンチに腰かけ、パンのビニール袋を破きながらそーっと声をかける。

「えーっと、片桐、さん」

「なあに?」

 彼女が首をかしげると、墨色の滝みたいな髪がさらりと流れる。

 少しためらってから思い切って訊ねてみた。

「どうして、その、この学校に俺が通ってるってわかったの?」

 その問いに、彼女はぱっちりとした目をまたたかせて、それからぱっと破顔した。

「ないしょ」

 欲しい答えは得られなかったが、その満面の笑みがあまりにも綺麗で、愛らしかったので、ろくに問い詰めもできずに黙ってパンにかじりつく。

 争奪戦をくぐり抜けて手に入れたウィンナーロールは美味しい。

 昨日食べたアメリカンドッグもそうだが、ウィンナーは甘みのある生地とよく合う。しばらく無心で食べていると、クリームパンを器用にちぎっていた彼女が、でも、と言葉をもらした。

「あなたのこと、思い出せないのは、本当よ」

 手を止めて彼女の方を見る。彼女は目を伏せたままぽつぽつ話した。

「昨日、あなたに会ったとき、確かに、知っていると思ったの」

 いい意味で人間味の薄い、白磁の如き頬に、黒々と長い睫毛まつげの影が落ちる。

 人形めいたうつくしさだ。

 ゆったりとした語り口調も含めて、彼女にはまるで夢の世界に生きているかのような不思議な佇まいがある。

「それで……考えたのだけれど。あなた、夢を見たことは、なぁい?」

「――ゆ、め……?」

 なにか思い出しそうな気がした。

 春の日差し。

 宙を舞う花びら。

 あたたかく微笑むうつくしいひと。

 それから、なにか大切なことが――。

「……大丈夫?」

 はっと目覚めるように思考が現実に帰ってくる。

 なにを考えていたのだったか。すぐ眼前では彼女が心配そうなまなざしでこちらを覗き込んでいた。

「あ、うん……。大丈夫。なんか、思い出せそうな気がしたんだけど……」

「ええ」

 彼女は真摯しんしな目で相槌を打ってくれる。

 それをちょっと申し訳なく感じながら、頭にかすかに残った単語を繋ぎあわせてみた。

「ええっと。春、のような気がするんだよね、会ってたの。あと花びらと、女のひと、かな? かなり曖昧あいまいなんだけど」

 話している間にだんだん自信がなくってきて最後の方はぼそぼそと呟くようになってしまった。それでも彼女は真面目な顔のまま、いいえ、と言ってくれた。

「わたしも、花は、見た気が、するわ。桜、じゃないかしら?」

「桜……そうだ、桜だよ! 確かに桜だ!!」

 いったん口に出すと、それまで思い出せなかったのが嘘のようにするすると記憶が溢れ出した。自分たちはどうやら、同じ内容の夢を別々の人物の視点で見ていたようだった。

 桜の舞う庭。

 少し離れた場所に立つ誰か。

 そして、はやく逢わなければという焦燥感。

 共通していたのはこの三つだ。

 昨日会った公園の桜は、夢に出てきた桜の木とよく似ていた、と彼女は言う。俺には木の区別なんてつかないが、彼女曰く枝ぶりがそっくりなのだという。

 もう一度あの公園へ行ってみないかという彼女の誘いに、一も二もなく頷いた。


 放課後。

 授業が終わるなり、俺たちは急いで荷物をまとめて教室を出た。

 昼休みの間に転校生とこそこそ中庭へ行っていたことがばれた俺は、休み時間のたびにクラスメイトからの質問攻めにあってしまい、うかうかしていると放課後まで潰れてしまいそうだったのだ。

 教師に目をつけられない程度の速度で階段を駆け下り、まだ人気ひとけの少ない校門を抜ける。

 駅に着くと、ちょうどよく停まっていた電車に飛び乗った。

「ちょっと……疲れたな」

「そう、ね。こんなに、急がなくても、よかったかも……」

 平日の午後。車内はしんとしている。全く人がいないわけではないが、人々が帰宅するにはまだ少しはやい時間帯だ。

 十分経って、最寄り駅に着く。ホームに降りて、今度はゆっくり歩きだした。

 公園は、やはり無人だった。素っ気ないガゼボとその下のベンチの他には、水飲み場と何本かの木が植わっているだけの、遊具も何もない公園だ。

 桜は相変わらず小さな花びらをひらひらと散らしている。

 ピンクの絨毯を踏みしめて、彼女は昨日と同じ位置に立った。

「はやく……」

 頭上の枝を見上げながら、彼女がぽつりと呟く。

「はやく、と思ったのよね、”わたし”は」

 誰に聞かせるでも無さげな呟きだったが、俺は自然とそれに頷き返していた。あの焦燥感は、なんだったのだろうか。

 自分たちも、急ぐべきなのだろうか。

 結局その日はなにもわからず、俺たちはまた明日話し合うことにしてそれぞれの家へと帰った。


 その晩。

 また夢を見た。

 今度は桜の下ではない。どこか、見晴らしのいい……高台の展望台らしき場所だ。町並みはどこか時代がかっていて、この辺りではあまり見たことのない黒い瓦屋根がぴかぴかと連なっている。

 けれど、ひときわ目立つ一軒のそれには見覚えがあった。

 赤い屋根の洋館。白い外壁が日差しに眩しいそれは、確か町はずれにぽつんと建つ無人の館のはずだ。

 あのひとの家だ、と思った。

 あそこに住んでいるひとこそ、自分が逢わなければならないひとだ。

 しばらく洋館を眺めたあと、視点はぐるりと回って動き始めた。前に。はやく行かなければ。行って、為すべきことを為したのち、必ずあのひとを迎えに行くのだ。


   5


 翌朝。

 駅へ行く途中の道で彼女に声をかけられた。人ごみに流されながら話を聞くと、どうやら彼女も新しい夢を見たらしい。

 俺が高台の夢を見たのに対し、彼女はまたもあの桜の夢を見たそうだ。ただ、その内容は前回と変わっていたそうで。

「――埋めた?」

「そう。……あの、桜の下に、ね。なにかを埋めた、のよ。なにかまでは、わからないの、だけれど」

 それでね、と彼女はなんでもない調子で続けた。

「掘って、みない? あの、桜の下」

 予想以上に思い切りのよい提案に、俺は目を見開いて、え? と間抜けな声を漏らすことしかできなかった。


 決行は深夜ということになった。公園の木の根元を掘り返すなんて、誰かに見られたら通報待ったなしだろう。

 母が愛用している園芸用のシャベルをこっそり持ち出して、寝静まった家を抜け出した。

 道中で誰かに会うことのありませんようにと祈りながら街頭の灯る静かな住宅街を歩くことしばし。公園ではすでに彼女が待っていた。

 暗い色の服に身を包んだ彼女は、真っ黒い髪もあいまって闇に沈んでしまいそうに見えた。肌と、手先だけがぼおっと浮かび上がるように目立つ。

 彼女は片手に俺と同じようなシャベル、もう片手に懐中電灯を持っていた。光源には考えの及ばなかった俺はちょっと落ち込んだ。

「ごめん。遅くなって」

「大丈夫、よ。わたしも、着いたばかり、だから」

 彼女が手に持った懐中電灯を木の根元へ向ける。薄黄色の円が木と地面の境を照らした。

 暗闇の中で彼女と目を合わせ、頷きあう。

 土がなかなか硬く、最初はシャベルが刺さりづらくて手こずった。

 根気よく掘り続けると、シャベルの先端がなにかに当たった。傷つけないように気をつけて周りの土をよける。

「これは……」

「――文箱、かしら?」

 土の中から掘り出されたのは黒塗りの木箱だった。縦横二十センチくらいの、たいして大きくはない箱。けれど施された金と虹色の装飾はこの箱が高級品であろうことを示している。

螺鈿らでん細工、ね。綺麗だわ」

「玲衣子さん、開きそう?」

 拾い上げて土を払った彼女にそう聞くと、彼女は細い指を蓋にかけた。ゆっくりと持ち上げる。

 中にあったのは折りたたまれた和紙と、木製の櫛だった。櫛には桜の模様が彫り込まれている。

 彼女は箱をこちらへ手渡すと、古びて黄ばんだ和紙をそうっと開いた。筆で書いたらしき褪せた墨色の文字。


 ――あなたを必ずお迎えに上がります。


 和紙にはただ一言、そう綴られていた。筆跡はややたどたどしく、あるいは緊張した状態で書いたのではないか、と彼女は言った。


 文箱は、現在の洋館の持ち主であるというひとへ届けた。そのひとは驚いた顔をしながらも、中身を確認してずいぶんと喜んでくれた。

 それから何日か経ったけれど、夢はもう一度も見なかった。

 心霊現象というには恐怖感もなく、あっさりしていて、本当に夢のような出来事だった、と思う。


「あの夢はなんだったんだろう」

「さあ? でも、楽しかったわ」

 あなたと、冒険ができて、と彼女は笑った。日差しに融けるような透明な笑みだった。


   EX


 ――あなたを必ずお迎えに上がります。


 その約束が果たされることは、結局なかった。

 わざわざ遠方から訪ねてきてくれた、彼の友人だというひとの話によると、彼は数年前から病に罹っていたらしい。

 手紙には、そんなことはひとつも書いてはいなかったのに。

 待つ相手のいなくなったわたしは父の勧めを断ることもできず、別の男性のところへ嫁ぐことになった。穏やかそうな、いいひとだ。

 手紙をなんとかしなければ、と思った。

 今までは心のよすがとしてきたあの手紙を、結婚するならば手離すべきだろうと思う。しかし、処分してしまうのには、少なからぬ抵抗があった。

 だから、埋めたのだ。

 あの桜の下、ふたりが何度も逢瀬を交わしたあの場所に。

 いつか土に還ってくれれば、と願って。

 あなたも土に還ったのだろうから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

花の下に、思い出を 一刻ショウ @SyunSyou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ