第8話 いずれ、必ず

 旅行と言う名の秘かな逃避行は、妹の襲来によって終わりを告げた。

 二泊三日で宿をとっていたので、今日を含めてあと二日残っている。

 しかし、こうなってはもう戻るしかない。



「さて、行きましょうか。兄さん」


「あぁ、わかった。ちょっと待っててくれ」



 俺は帰り支度をするため、荷造りを始めた。

 だが、そんな俺をおかしな奴を見るような眼で妹が見ている。



「……? 何をしているんですか、兄さん。荷造りなんて始めて」


「え? だって、帰るんだろ?」


「そんなわけないじゃないですか。私、まだ温泉にも入ってないんですよ?」


「え?」



 温泉? 何を言っているんだ。

 ここは宿泊客じゃないと温泉は入れないし、そもそも俺を連れ戻しにここまで来たんじゃないのか?



「知ってましたか? ここ、家族なら一緒に入れる貸し切りの混浴温泉があるって」


「そう、なんだ。でも、そういうのって別料金っていうか、事前に予約いるんじゃないのか?」


「先ほど確認したら貸し切り温泉は空いているそうです。お金はすでに支払いました。私もあと二日ここに泊まりますので」


「え?」



 妹が泊まる?

 なんでそうなる。何を考えているんだ、妹よ。



「仕事は……仕事はどうする!?」


「事務所の方には体調不良ということで連絡しました」


「そ、そんな簡単に休めるのか?」


「そんなわけないじゃないですか。多くの人に迷惑をかけることになります。私のイメージも悪くなるかもしれません」


「じゃあ、なんで! 学校だって、高校受験が控えてるんだから休めないだろ!?」


「兄さんは、これまで頑張ってきた私に束の間の休息も許さないと? 自分は休んでおいて?」


「えっ。いや、そういう、わけじゃ……」



 確かに、俺にこんなことをいう権利なんかどこにもない。

 俺は心配して言ったつもりだったが、妹だって休みが欲しいはずだ。

 

 こうなってはもう、何も言うことができない。



「さ、行きましょう。午後は清掃で入れなくなるそうですよ」


「そうか、じゃあ急がないと……って、待てぃ! 何も混浴で入ることはないだろ!?」



 あまりにも妹が堂々としていたものだから気付くのが遅れたが、混浴ってなんだ。

 中3になる妹と二つ離れた社会人の兄は、果たして世間一般的に家族だからという理由で混浴していいものだろうか? いや、よくないはずだ。


 いくら俺に負い目があろうとも、これだけは正論を盾に抗議しなくてはいけない。



「何か不都合でも?」


「いやいや、不都合あるよ。ありますよ!! もう互いに子供じゃないんだから!」


「もしかして、恥ずかしいんですか? 妹相手に、裸を見せるのが恥ずかしいと?」


「は、恥ずかしいとか、それ以前の問題だ! 世間的に、モラル的にイケないことだって咲も分かるだろ!」


「ありもしない世間様はここにはいません。ここには私と兄さんの、二人だけです。私は兄さんを信じています。だから何の問題もありません。……それとも、自信が無いんですか?」


「自信って何のこと!?」


「安心してください。兄さんの言う通り、私も昔ほど子供ではありません。仮に、もしなっても兄さんのことを責めたりはしませんので」


「はぁあああ!?」



 まさか妹は俺が欲情でもすると思っているのだろうか。

 絶対ない。そんなことは天と地がひっくり返ってもないことだ。


 俺はただ一般常識を言っただけ。

 しかしこのままでは妹に要らぬ誤解を持たれるかもしれない。

 俺は身の潔白を証明するが如く、妹に言い放った。



「ふざけんな! 俺が咲にそうなるわけないだろ。ぜっっったいに、ないッ!」


「ええ、もちろん信じています。さすが兄さんです。では、行きましょう」


「よぉーし、行ってやる……ってなるかー!!」


「はぁ……兄さん、いい加減子供みたいに駄々をこねないでください。どっちなんですか? 忙しい妹を労うために一緒に温泉に入るのか、それとも妹に発情する変態だから一緒に入らないのか。どっちです?」


「え……ぇ?」


「さぁ、どちらです? 選びなさい」







 その後、俺は何と返事したのか記憶が曖昧だ。

 だが、気が付いたら妹と肩をくっつけて温泉に入っていた。



「ふぅー。いい湯ですね、兄さん」


「――そうだなぁ」



 温泉の効果だろうか。

 朝の清々しい空気の中、少し白く濁った温泉が体を芯から温めてくれると、何だか先ほどまでの葛藤がどうでもよくなった。


 それに、俺も妹も体にタオルを巻いているので羞恥心もそれほどない。

 ただ温泉をゆっくり楽しむことに専念できた。



「咲……本当にごめんな。勝手に休んだりして」


「はい。反省してくださいね」


「でも、きっと戻ったら大変なことになってるだろうなぁ」


「そうかもしれません」


「戻るの、すこし憂鬱だよ」


「私は少し、ドキドキしています」


「ドキドキ? なんで?」


「今まで何でも言う通りにしてきたからでしょうか。ずる休みなんて、してはイケないことをして、どこか背徳的で興奮するじゃないですか」


「ははっ。なんだ、珍しくはしゃいでるのか」


「フフッ、そうかもしれませんね」



 今まで仕事も勉強も休まず、サボらずに頑張ってきた優等生の妹。


 どこか俺とは出来が違うんだと思っていたが、こんなことではしゃぐ妹を見ると安心する。結局妹は年相応の小さな女の子で、遊び盛りの子供なんだと思い出させてくれるのだ。

 


 童心に戻った妹を見て、俺はちょっとした悪戯心で妹に温泉をかけてみた。



「えいっ」


「きゃっ、何するんですか」


「ずる休みする悪い娘に罰を与えたんだ」


「なら、悪い男に罰を与えるのは私しかいませんよね?」



 そう言いながら妹は体をこちらに向ける。

 何やら悪巧みをしている邪な顔だ。


 俺はてっきり、温泉のお湯をかけてくるものだと思っていた。

 だから、すっかり油断していた。忘れていたのだ。

 妹がこの顔をする時、何をしてくるのかを――



 むぎゅっ


「ぎょっ――――!!」



 白く濁った温泉のせいで、全く見えなかった。

 まさか妹の魔の手が、再び俺の急所を掴もうとしていたことに。


 そして間抜けにも命同然のものをタオル越しに掴まれてしまい、変な声が出てしまう俺。



「……フニフニして、柔らかい。懐かしい感触」


「やめ、やめてぇッ、モミモミしないでぇえ!」



 俺は急いで妹の握る手を振り払おうと、妹の腕を掴む。



「あまり暴れないで、兄さん。久しぶりで力の加減を忘れちゃってるから、あまり抵抗されるとこういう風に……」


 むぎゅぅうう


「あばばばばばば」



 徐々に握力が強くなっていく感覚。

 それに比例して俺の体から力が抜けていく。



「さ、咲っ……おま、お前、恥ずかしいとは思わないのか! 年頃の女子がこんな、こんな非道、許されると思うのかぁぁあッ!」


「……」


 もみもみもみもみ……



 俺の必死の訴えをものともせず、ただ無言でひたすら揉み続ける妹。


 しかし、その揉み方には痛みどころか圧迫感すら感じられない。

 優しい手つきでただ揉んでいるだけなので、次第に俺も慣れてくる。


 ただ、やめる気配のない妹の悪戯に俺は少し不気味さを感じ始めた。



 もみもみもみもみ……


「……咲? ちょっとしつこいんじゃないか?」

「……」


 もみもみもみもみ……


「おーい? 聞いてる?」

「……」


 もみもみ……


「……兄さんは、兄さんのままなんですね」

「どゆこと?」



 妹は揉むのを止め、俺の急所を解放した。

 

 妹の謎の言葉に俺は問いかけたが答えは返ってこなかった。

 ただ、悪戯をされたのは俺なのに、なぜか妹の方が少し不機嫌そうになっている。


 再び妹は俺に肩をくっつけ、ため息を吐いた。



「はぁ」


「どうした、急に」


「いえ、少しガッカリしまして」


「人の大事なものを揉みしだいておいて何言ってやがる。セクハラで訴えるぞ」



 どういう意味だ、コノヤロー。

 お前だってタオル越しでも分かるくらい貧相な身体してる癖に。


 流石にこれを言葉にすれば、次は潰されてしまうかもしれないので黙ってはおくけど……。



「……兄さん。これは私の好奇心なのですが、兄さんは欲しいものがあったらどうしますか?」


「唐突に何だよ」



 急に欲しいもの、と言われても少し困る。

 

 正直、俺がそんなことを考えてもいいのかと自問自答してしまう。

 俺は、今までなんの不自由なく生きてきた。妹のおかげで職につけているし自由な時間と自由なお金だってある。


 皆が欲しいと思うものを、努力せずに得たんだ。



「私は……私は欲しいもののために今まで努力してきました。ですが、本当はもっと簡単に、今すぐにでも自分のものにしたい。私はもう、我慢できそうにない」



 妹は何か強い決意を込めた目で、俺を見た。

 だが、俺はそれよりも妹のある言葉に引っかかっていた。


 簡単に、か。


 何が欲しいのかは分からない。だが、努力家で要領の良い妹が望むならきっと簡単に手に入るだろう。


 だから、心配しなくてもいい。


 そう言おうと思っていたが、実際に口にしたのは別の言葉だった。



「俺はそうは思わない」


「……兄さん?」


「もし、咲の欲しいものが大事なものなら、努力という過程を疎かにしないほうがいい」


「それでも、手に入らなかったらどうするんです? 過程なんて、何の意味もなくなるじゃないですかッ!!」




「――簡単に手に入れたものは、簡単に手放すことになる」




 俺は苦労せず手に入れた現状を、簡単に手放そうとした。


 きっと、本来であれば妹のような売れっ子のマネージャーになることは大変なことのはずだ。

 多くの経験を積み、多くの知識を身につけ、多くの人から信頼を得て、それで初めてなることができるものだ。


 それを暇だと不貞腐れ、手放そうとした。


 だからこそ、この教訓を自分だけではなく、妹にも分かって欲しい。



「だからさ、もう少し頑張ってみようぜ、互いに。なに、いつかは手に入るさ。諦めなきゃな」


「……そう、ですね。少し弱気になってました。その通りです。諦めなければ、いずれ、必ず……」

 

「どうやら悩みは解決したみたいだな。どうだ、見直したか? これが兄の貫禄というやつだ」



 妹が俺に頼るなんてこと、最近ではあまりない。

 いや、昔からなかったかもしれない。


 だからか、俺は少し見栄を張ったように妹に笑って見せた。




「――えぇ、兄さんのそういうところ、好きです」




 そういって妹は、俺の手を握り、そのまま胸にもっていった。

 タオルの上からではあるが、年頃の女子の胸を触るのは初めてだった。



「ば、ばかっ、何してんだよ!?」


「兄さんの貫禄のせいで少しドキドキしてまして。その確認をしてもらおうかと」


「や、やめろぉ!」



 俺は妹の手を振りほどき、胸から手を離した。

 その拍子に、妹の体に巻いていたタオルが解けてしまう。


 温泉のおかげでギリギリ妹の裸は見えないが、急に目を合わせづらくなった。



「タ、タオル! 解けてる!」


「……」



 妹は特に動揺した様子がない。

 俺は首を横に向けているせいで、妹が何をしているのかも見えない。


 だから、妹が近づき、俺に抱き着いてくるなんて分からなかった。



「あっ、な、なにしてんの?」


「私がどれくらいドキドキしているのか、分かってもらおうと」



 妹の上半身と、俺の上半身がぴったりとくっつく。

 タオル越しでは貧相に見えた妹の胸も、直接触れるとムニッとした柔らかさを感じることができた。



「……っ!」


「……」



 俺は体中の血が熱くなるのを感じ、息苦しくなった。

 たぶん、それは温泉のせいだけではないだろう。





 その後、どれくらいの時間が経ったかは分からない。

 だが、妹が抱き着くのを止め、身体を離した時には俺も妹も真っ赤になっていた。



「長湯したみたいですね」


「あ、あぁ……そうだな」



 互いに少し呼吸が乱れている。

 妹は湯に浮かんでいたタオルを体に巻きなおし、立ち上がった。



「いいお湯でした。今日はここまでにしておきます。また来ましょう、兄さん。二人っきりで。いずれ、必ず」


 

 妹はそういって一人で温泉から出た。

 

 俺は少しのぼせていたが、落ち着くまで温泉から出れなかった。

 男特有の性だ。

 

 妹も一緒に出ようとは誘わなかった。


 おそらく、そういうことなのだろう。

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