あの日、電話の向こうで

美尾籠ロウ

あの日、電話の向こうで

「今さら何言ってんだよ。もう遅すぎるわ!」

 俺は冷え切った部屋の中、携帯電話の向こうに向かって怒鳴っていた。

「だが……大丈夫か、と思ってな」

 親父の声を聴くのは約六年ぶりだ。

 俺の記憶にある親父の声と、さして変わっていなかった。

 音信不通だった六年のあいだ、親父は苦労もせずに、のうのうと生きていたのか。もう古稀は過ぎたはずだが、それほど老いていないのか。

「くそっ」

 自然に携帯電話を摑む手に力が入った。

 親父が、俺と妹とおふくろを置き去りにして、姿を消したのが六年前の夏だった——七ケタに届こうという借金を残して。

 お人好しで、軽い気持ちで当時の同僚の連帯保証人の印鑑をついた結果、自分が借金の肩代わりをすることになった——世間ではよくある話だ。

 もちろん俺たちの家族にとっては「よくある話」どころか、青天の霹靂というやつだった。

「あんたなしで、これまでやってきたんだわ。今さら、あんたの心配なんか要らん。クソの役にも立たん」

 俺は携帯電話に向かって吐き捨てた。

「母さんの……」

「はあ? うるせえ!」

 親父の声を遮り、左手に摑んでいた掃除機の取っ手を投げ捨てた。そいつは家具のないがらんとした八畳間に転がり、乾いた音を上げた。


 俺は高校を出て、小さな電気工事店に就職した。無論、大学に行きたかった。けれどあの頃、そんなことを口に出せるような状況ではなかった。妹の彩佳あやかは隣の県の県立大学文学部に進学することができ、来月には大学四年になる。

「で、おまえはほんとうに大丈夫なんだな。家のほうも」

 親父の淡々とした口調が、俺をいっそういら立たせた。

 俺は深く深くため息をついた。

「あんたに心配されたない。それだけだわ。もう切るで」

 携帯電話から耳を離した。今日は無理を言って仕事を休ませてもらっている。社長の嫌味な声がまだ俺の耳朶にへばりついているのだ。貴重な休日の大事な一秒を、あの男のために費やすなんてありえない。

「あ、待て」

 携帯電話から、低い声が漏れた。

「まだなんかあるのか? 切るで。こっちは忙しいんだわ。二度とかけて来んで——」

 俺の声に親父が割り込んできた。

「彩佳とは連絡取れたのか?」

 俺の神経は、ますます逆撫でされた。

「彩佳? かりに今ここにおっても、絶対にあんたと話なんかさせんわ!」

「話なんかしなくていい。おまえ、彩佳に早く連絡しておけよ」

「ふざけんな!」

 俺はついに大声を上げた。

「なに、今になって父親面しとんだ。あんたの命令なんか聞かんわ。一応、言っとくけど、あいつは就活しとる。このご時世、厳しいらしいけれど……あんたに関係ないわな。以上、おしまい! 気ぃ済んだだろ!」

 俺は、眼の前の段ボールを蹴飛ばそうとして、ゆっくりと足を床に下ろした。

 まだガムテープで閉じておらず、開いたままの蓋からビデオテープが覗いていた。今や時代遅れとなってしまったHi-8ビデオテープ——かつて家族であったはずの四人の映像が録画されているはずのビデオテープ。

 捨ててもよかった。捨てるべきだったかもしれない。いずれにせよ、プレイヤーがないのだから、もう再生できないのだ。

 俺は「捨てよう」と言ったが、彩佳は頑強にそれを阻んだ。

 親父が行方をくらませてから、借金の返済のため、おふくろは、ありとあらゆる親戚に頭を下げて、金を借りた。

 無論、それだけで足りるはずもなかった。昼は牛丼チェーン店で働き、夜は、酒も飲めないのに居酒屋で未明まで働きづめだった。

 しかし俺は、おふくろが沈み込んだり、疲れ切った様子を一度も見たことがない。

 おふくろは、人よりもずっと早く老け込んだ。六十六歳だったが、十歳は老けて見えた。

 そして、あっけなく死んだ。

 せめてもの救いは、苦しむことなく、体中に管を突っ込まれることもなく、倒れて三時間後には息を引き取ったことだ。

 急性心不全——そんな病気は存在しない。原因不明の「突然死」を、医者はそう呼ぶ。

 ちょうど昨日、一周忌が終わったばかりだった。法事も何も行なっていないが。その時期を意図していたわけではないが、この借家から引っ越すことになっていた。明日の朝にはトラックが来る。これから俺が暮らす1Kのマンションに、持って行けるものは限られている。

「近況はあとでいいんだ。とにかく、早く電話で連絡取っておけ」

 携帯電話の向こうで、親父が急に声を荒げた。

 その声をきっかけに、親父が俺たちを捨てる前——まだ「家族」が存在していた時代の我が家を思い出した。

 親父は、上機嫌でいるか、いら立って周囲に当たり散らしているか、その両極端の思い出くらい甦ってこない。今考えれば、それはきっと平サラリーマンの鬱屈とアルコールのせいだったのだろう。

「しつこいわ。何度も同じこと言わさんといてくれ! 彩佳もあんたとは赤の他人だで、要らんこと、もう詮索しんで!」

 一気にまくしたて、俺はふと気づいた。

「ちょっと待ちゃあ……なんで、なんで俺の携帯の番号知っとんだ?」

 自然と口調が荒くなってしまう。

 携帯電話の向こうで、やや間があった。

「母さんから、聞いてたんだよ」

 かあっと血液が沸き立つのを感じた。脳が熱くなる。携帯電話を握る手に力がこもった。このまま握りつぶしてしまうのではないか、というくらいに。

「母さんと連絡取っとったんか? 考えられん。マジ、考えられんわ。どんだけ恥を知らんの?」

 俺は続けた。

「はあ? あんた、アタマおかしないか? 母さん、あんたのせいで死んだようなもんだがね! ホントにあんたと話してると、俺のアタマもアホになりそうでかんわ」

 俺は、部屋の片隅の位牌と骨壺に眼を向けた。急に、おふくろのそばで怒鳴っている自分が恥ずかしくなった。

 俺はその部屋から廊下に出た。一気に冷気が体を包んでくる。おふくろに聞こえるわけもないのだが、隣のダイニング・キッチンへ向かった——今は家具も何もなく、がらんとした空虚な空間に十箱あまりの段ボール箱が並んでいる。

 かつて「家族」と呼ばれたこともある四人が囲んだテーブルと四つの椅子は、リサイクル・ショップから来た店員に二束三文で買い叩かれた。それでいい、と思った。親父と一緒に朝夕の飯を喰っていた記憶なんか、さっさと消し去りたかった。

 フローリングの床にあぐらをかいた。おふくろに聞こえるはずもないのだが、自然に声が小さくなった。

「とにかく、もう二度と電話かけてくんな。あんたの番号、着信拒否にするし。彩佳の番号も、絶対に教えんで!」

 俺は携帯電話を顔から離し、切ろうとした。そのときだった。かすかに声が聞こえた。

「ああ? カナ、車で待ってなさい……」

 親父が誰かに呼びかけたようだった。

 部屋は寒いはずなのに、急に、全身が火照ってきた。

 ——女だ。

「おい、誰かおるんか?」

 俺は声を上げた。

 携帯電話の向こうから、何かごそごそとノイズが聞こえた。まだ、親父は電話を切っていない。

「もしもし! なあ、誰と話しとんの?」

 答えはなかった。親父は受話器を手で押さえたままのようだった。

 激しい怒りの二秒後には、大きな空虚さが頭蓋骨の内部を満たした。

 ——親父には、女がいる。

 俺たち家族を捨てて六年。

 俺自身が言ったのだ。「もう他人だ」と。

 赤の他人が、どこでどんな女と付き合おうと、知ったことではない——はずだ。

 俺は、罵倒の言葉を苦味とともに飲み下した。反吐が逆流し、口から出て来そうだった。耐えた。

 苦かった。

 こちらが電話を切ろうとしたまさにその瞬間に、携帯電話の向こうから親父の声が聞こえた。

「おい、聞こえるか」

 まったく変わらぬ口調。

 ——くそったれ。

 と思った。

「聞こえん。なんも聞こえん」

「わかった。父さんからは、もう電話はかけない。とにかく、なるべく早く、彩佳には連絡しておけよ」

「うるせーよ。『なるべく早く』とか言う資格、あんたにはもうあれせんわ」

 が、そう言った瞬間だった。

 さきほどからずっと胸の奥のどこかに引っかかっている違和感が、一気に膨らみ、ぱん、と音を立てるかのように、弾けた。

 何かが、ずれている。

「ちょ、ちょっと待ちゃあ……もしもし、聞いとる?」

 ごくり、と唾を飲み込んだ。今までとは異なる苦さを覚えた。

「なんだ?」

 親父の声が携帯電話に戻ってきたとき、不覚にも少しだけ安堵した。

「なあ、あんた、さっきから、何言っとるんだ?」

「何って、何だ? だから、そっちは大丈夫なのか、って——」

「いや、ちゃうちゃう、何が大丈夫か、って意味だがん」

 完全に立場に逆転していた。俺は狼狽していた。

「なあ、何、隠しとるん? 何知っとんの?」

 またしても、しばしの間。

 妙に冷静な親父の声が携帯電話から聞こえてきた。

「おい、おまえ、気づかなかったのか?」

「だから何が?」

 少し間を置いて、安堵のため息のような音が携帯電話越しに聞こえた。

「そうか、よかったな」

 俺はさらに狼狽しながら、携帯電話に向かって怒鳴った。

「だから、何がよかったん!」

「そっち、揺れなかったみたいだな」

 親父の声には、笑みが混じっている様子だった。

「揺れる? 揺れるって……何が?」

「地震だよ」


「じ、じしん……?」

 俺の脳内で、「じしん」という音声と「地震」という単語が結びつくまで、丸々五秒はかかった。

「なんだ、やっぱり気づかなかったのか。じゃあ、そっちはあまり揺れなかったんだな。ホッとしたよ」

 親父の声色に、俺は安堵の響きを聞きつけた。

「地震って、どこで?」

「テレビで見ればいいだろう」

 俺はダイニングを見回した——もはや存在しない「家族」の憩いの部屋。

 古い十四型のブラウン管テレビは、片付けたばかりだ。

「くそっ、こっちはもう整理しとる」

「そうか……引っ越すんだったな」

 親父の声に、どこか淋しさを感じた。俺はその声を耳朶から振り払った。

「そっちのテレビ、何と言っとるの?」

 電話の向こうから、親父がかすかに笑う声が聞こえた。

「いやあ、参った参った。部屋のなか、ぐっちゃぐちゃなんだ。箪笥は倒れてくるし、テレビもひっくり返ってるし……そもそも停電しているからな。テレビなんか見られんよ」

 まるで他人事のような口調だった。それが、俺の焦燥感をかき立てた。

「ちょ、ちょっと待っとりゃあ」

 俺は廊下に跳び出した。

 どこだ? テレビはどこに片付けた? テレビを段ボールにしまったはずはない。そのまま出してあるはずだ。

「あのよ、どこにおるの?」

 あえぎつつ、携帯電話に向かって言った。

「え? L市だ。いいところだぞ。寒いのが玉にきずだけどな。海が綺麗なんだ。こっちに来てから、海釣りってものを始めたよ。もっとも、そんな暇はあまりないけれどな」

 聞き覚えのない土地だった。

 そのとき、段ボール箱と箱の隙間に、十四型ブラウン管テレビを見つけた。

 幸い、この家の電気は明日止める予定になっていた。今日はまだ電気が通っている。

 テレビを持ち上げた。

「で、あんたは、怪我しとらんの?」

 俺はテレビをダイニングへ運んだ。その姿勢で、肩と頬で挟んだ携帯電話に向かって話すのは、とても不安定な格好だった。

 あ、と思ったとき、汗ばんだ手からテレビがずるりっと滑り落ちた。

 大きな音を立てて、テレビが落ちた。床に傷が付いたようだ。が、どうせ今日中にこの部屋を出るのだ。知ったことじゃない。

 それよりもテレビが壊れていないかどうかのほうが、心配だった。コンセントにプラグを刺し、アンテナ・ケーブルを刺した。スイッチを入れる。

 チャンネルはNHKに合っていた。

 地上デジタル放送には非対応だ。画面右上には、わざわざこれ見よがしに、嫌がらせかのような「アナログ」のテロップがデカデカと表示されている。

「な、なんだよ、これ……?」

 テレビの故障なのか、アンテナがうまく接続できていないのか。

 それとも、放送事故なのか——

 そのいずれでもないことはわかっていた。

 わかっていたが、俺のアタマは、その光景を受け止めることを拒否していた。

 今、ブラウン管に映っているのは、この瞬間に起こっている事実をカメラで撮った映像なのだ。

 不意に、俺は胸の奥を冷たい掌で鷲摑みにされたような気分に襲われた。一瞬、呼吸をすることすら忘れそうになる。

 画面から視線を離せない。耳に忍び込んでくるアナウンサーの声も、理解不能な外国語のようにしか聞こえなかった——いや、俺の視覚も聴覚も、理解することを脳が拒否していた。

 あり得ない。

 あり得るはずがない。

 あってはいけない。

 絶対に、何かが間違っている。

 俺は必死に自分に言い聞かせた。

「おう、大丈夫か? 『痛い』なんて聞こえたけど——」

「バ、バカ野郎!」

 怒鳴った。その怒鳴り声が震えていた。俺自身、誰に対して怒鳴っているのかわかっていなかった。

「震度7って、何ぃ! いったい、何が起こっとるの?」

 変わらず、淡々とした親父の声が返ってきた。

「そんなことを父さんに言われてもなぁ。確かに大きな揺れだった。七十年も生きてきたが、人生初だよ」

「それだけとちゃうがね! 『大津波警報』出とるがや!」

 ブラウン管の中では、ヘリコプターの空撮映像が映し出されていた。

「ウソやろ……あり得ん……ウソやろ……」

 俺は、腰から下の力を完全に失った。

 床にへたり込んだまま、ただただブラウン管を見ることしかできなかった。口からは無意味な言葉が漏れ出るだけだった。

 広い田畑、ビニールハウス、人が住んでいるのか、農機具のための小屋なのか、平屋の建物の数々……

 それらの上に、信じがたいほど巨大な「何か」が、情け容赦なく覆い被さっていく。そいつが、画面を埋め尽くす。

 どす黒いアメーバ状の生き物——まるで安っぽいCGで作られた、B級のハリウッドSF映画のワンシーンのようだった。

 が、無論、CGでもなければ、SF映画でもなかった。


 唐突に、既視感に近い奇妙な感覚を覚えた。

 あれは、十年前のことだった。まだ「家族」が家族として機能していた頃の記憶だ。

 俺が十一時頃に仕事から帰宅すると、珍しく九時には床に就くおふくろが起きていた。親父はもう寝ていた。無論、その何年か後、大きな借金を背負うことになろうとは、家族の誰もが想像だにしていなかった。

 ——アメリカでね、とんでもないことが起こってるみたい。

 おふくろが言ったのを覚えている。

 ブラウン管には、望遠レンズで撮影されたビルの映像。煙がうっすら上がっている様子が見えたような覚えがある。

 ニューヨークで、飛行機が高層ビルに突っ込んだらしい。

 ——お父さんはね、管制塔のミスじゃないか、って言って。もう寝ちゃったけど。そんなことないわよねえ。

 そう言いながら、眠そうなおふくろも部屋に戻った。

 俺は、眠れそうになく、テレビを見続けた。

 それから約十五分後、アメリカの象徴のような超高層ビルのツインタワーが倒壊する様を、俺はブラウン管の向こうに見た。

 当時、バカみたいに量産されていたハリウッド製ディザスター映画のワン・シーンのようだ、と俺は思った。


 ブラウン管のなかの貪欲な漆黒の化け物は、その大きさを増していた。

 こいつは、家を喰らっている。田畑を喰らっている。大地を喰らっている。ところどころで炎すら吹いている。

 ——なんだ、これは?

 わからない。

 まったく、わからない。

 俺なんかの理解の及ばない、信じがたいほどに巨大な「理不尽」の塊が、人の生きる土地を浸食している。

「何だ、これ!」

 思わず声が漏れた。

「おい、どうした?」

 親父の声が小さく耳に届いた。

 巨大な化け物は、さらにその先へ増殖し続けている。

 拡大を続けている。

 ——ウソだ。あり得ん。

 馬鹿げて幼稚で空疎な言葉が脳内でぐるぐると回転し続けている。

「父さん、逃げやあ」

 かろうじて出た声は、裏返っていた。

「はあ? こっちは大丈夫だ。余震は、何度かあるけれどな……」

「大津波警報なんだて! これから大津波が来るんだて! 十メートルとか言っとるぞ。防災無線とか、消防の広報車とか来とらんの?」

「いいや、来てない。周りは静かだよ。だから、大丈夫だ。おまえは心配するな」

 妙に冷静な親父の声に、俺はますます焦りを感じた。

「ラジオは? ラジオないんか?」

「ラジオは……電池が液漏れして使えなくなっててなぁ」

 ブラウン管のなか——道路が見えた。まるでミニカーのような数台の車が立ち往生している。走っている白いワゴン車も見える。

「バカ、どこ走っとる!」

 届くはずもない白いワゴン車に向かって、俺は叫びに近い声を上げた。

 どす黒い塊が道路に近づいた——

 画面がスタジオに切り替わった。

 切迫した表情の男性アナウンサーが、何か言っている。その言葉は日本語のはずだ。しかし、まったく俺の耳には入らない。

 画面の隅に日本地図——太平洋岸のほとんど全部が赤く縁取られて明滅していたい。当然、俺たちが住んでいる街の付近も。

 口を開いた。もはや何も言葉は出てこなかった。呼吸は浅く、荒い。

 茫然と、ブラウン管を眺めていた。

 どんな感情も、沸き起こって来なかった。

 冷静だった。ひどく、妙に冷静だった。

 恐怖もなかった。驚愕もなかった。怒りも、哀しみも、何も感じなかった。

 心が、感情を抱くことを停止しているかのようだった。

 かすかに俺の名を呼ぶ声が聞こえたような気がした。

 我に返った。いつの間にか、俺は携帯電話を床に落としていたらしい。

 拾おうとした。腕を伸ばした。指先が震えていて、拾い上げるのに苦労した。。

「おい、しっかりしろ。大丈夫なのか?」

 俺は口のなかが乾き切っていて、声が出なかった。

「父さんな——おい、聞いてるか」

「き、聞いとる」

 口中はまだ乾燥していた。

「今だから言うけれど……おまえにも、彩佳にも、もちろん母さんにも、悪いことしたと思ってる」

 俺は狼狽した。立ち上がった。段ボール箱が並ぶキッチンを、俺は檻のなかの熊のようにうろうろと歩き回っていた。

「そ、そんなこと、後でええて! 早よ逃げやあって! あとで話聴いたる。それに……誰かおるんだろ?」

「ああ、もういい。先に車で行った。だから……もう大丈夫なんだ」

「なんで一緒に乗らんかったの? 警報出とるんだって!」

 電話の向こうから「くくくっ」というような笑い声が聞こえた。

「父さんな、久しぶりにおまえの声を聞いたら、もうちょっと話したくなってな——」

 はっとした。

 親父自身の口から「父さん」という単語が発せられていた、ということに今になって気づいたのだ。

「そ、そんなの、避難してからたっぷり聴いたるで。嫌になるくらい、これまでの俺らの苦労を教えたるがね」

「やっぱり……最後までダメだなぁ、父さんは……」

「ダメかどうか、後で聞いたるで、早よ逃げやあ!」

「母さんに、ちゃんと謝りたかった」

「だったら、はよ帰ってきて、位牌に向かって謝りゃええがん! だから、逃げやあ!」

「父さん、いつもおまえや彩佳の期待を裏切ってばかりだった。最後の最後まで、裏切りっぱなしだったな」

「何言っとるの!」

 しばしの沈黙があった。その後、親父は

「母さんは、許してくれないだろ……」

 突如、「ばさっ」というような、ちょうど巨大な鳥が羽ばたくような、あるいは着地するような音が、親父の声を断ち切った。

 次の瞬間、電話は切れた。

 虚しい空電音。

 俺と親父の電話がつながることは、二度となかった。


 須藤すどう日向子ひなこは、眼の前の麦茶に手を付けようとしなかった。俺の住む狭い1Kの部屋の中、さらに窮屈そうに座布団の上でさらに身を縮めていた。

 が、その隣に座った少女——須藤日向子の娘、佳奈かな——は、母親のほうをちらちらと見ながら、冷えたアップル・ジュースを美味しそうに飲んでいた。

 須藤日向子は四十二歳だとのことだったが、もっと老けて見えた。佳奈は九歳だという。

 最初に口を開いたのは彩佳だった。窓際に立ったままだった。

「暑くありませんか? ちょっと冷房下げますね。この街、原発止まってても電力は足りてるみたいだから、がんがん冷房つけてるんです」

 俺は、とてもじゃないが、言葉を発することなんかできなかった。

 ——男って、こういうときにはホントにクソ弱い生き物だ。

 俺は思った。

 須藤日向子は聞こえるか聞こえないかといった声で答えた。

「あ、いえ、暑くないから大丈夫です」

「ううん、ママ、暑いよぉ」

 須藤佳奈が、顔をしかめた。子どもは遠慮がない。

 彩佳は、苦笑しながら、エアコンのリモコンを取りに立ち上がった。

 不意に、須藤日向子の双眸から雫がこぼれ、その頬を伝った。

 怪訝そうな顔で、九歳の佳奈は母親の顔を見上げた。

 俺は黙ったまま、ティッシュ・ペーパーを箱ごと、須藤日向子に差し出した。うつむいたまま須藤日向子はティッシュで涙を拭いた。

 親父が須藤日向子と一緒に暮らして丸二年だったという。須藤日向子は、鮮魚を売りにした食堂を切り盛りしていた。

 どのように親父と須藤日向子が知り合い、ともに暮らすようになったのか、俺は知りたくなかったし、訊こうとも思わなかった。彩佳も同様のようだった。

 その食堂も、津波ですべて流された——親父とともに。

 俺は、傍らの新聞に眼をやった。

 ——警察庁発表 死亡 15745人 行方不明 4467人

 ただの数字。無機的な情報に過ぎない

 が、「4467」のなかに、親父がいる。

「彼……お父様のお陰で、わたしと佳奈は生き延びることができたんです」

 一言一言を絞るようにして、須藤日向子は言った。

「えっ?」

 俺は一瞬の眩暈を感じた。

「お二人とも……ご存じなかったんですね。最後まであの人と話していたのに」

「いや、そんなはず……」

 俺は混乱した。

「どうしたの?」

 彩佳が俺の顔を見下ろしてくる。

 あのとき、俺はずっと親父と電話で話していた——最後の最後の瞬間まで。

「電話の最中、あの人……お父様が言ってくれたんです」

 須藤日向子は親父にうながされ、娘の佳奈とともに車に乗ったという。エンジンをかけて、カー・ラジオをかけたとき津波警報を知った。佳奈は車から跳び出し、食堂内にいた親父に呼びかけた。「早く一緒に行こう」と。

 そのとき、親父は佳奈に向かって言ったという。

 ——先にママと車で高台に上っていなさい。あとで行くからね。

 俺は、全身から力が抜けていくような気分になった。

 気がついた。

 俺がテレビの映像に見入り、携帯電話を落として身動きできなかったとき——そのあいだ、親父は津波の危険を知って、須藤日向子と佳奈を逃がしたのだ。

「申し訳ありませんでした。わたしが、あなたたちお二人のお父様の命を……」

 突然、須藤日向子が土下座をし、俺と彩佳の前で、フローリングの床に額をこすりつけた。両肩は小刻みに震えている。

「ママ、どうしたのぉ?」

 娘の佳奈は、小さな小さな手を須藤日向子に伸ばした。

「須藤さん、頭を上げてください」

 彩佳が須藤日向子に近づき、そっとその両肩に手を置いた。

 須藤日向子は、泣き濡れた顔をゆっくりと上げた。

 俺は拳を握りしめた。痛いくらいに握りしめた。かすれた声で言った。

「親父は……あなたと一緒にいて、幸せでしたか?」

「お兄ちゃん!」

 彩佳が俺をにらんだ。

「ママぁ、泣いてるの?」

 佳奈は、須藤日向子にしがみつき、俺に一瞬だけ、ほんの刹那の瞬間だけ、おびえた視線を向けた。

 須藤日向子は、震える声で答えた。

「ごめんなさい……わたしは……」

 須藤日向子の声は尻すぼみに消えた。

「もう帰ろうよぉ。おにいちゃん怖いよぉ」

 佳奈は震えた声で言いながら、母親の胸にしがみついた。

「お兄ちゃんは黙ってて!」

 彩佳が俺に向かって、涙声で叫んだ。

 俺は、ゆっくりと深呼吸した。

 ——父さん、あんたは、ほんとうにどうしようもない、救いようのないバカ野郎だよ。

 心のうちでつぶやき、俺はゆっくりと訊ねた。

「須藤さんは、親父と一緒にいて……一緒に暮らして、幸せでしたか?」

 須藤日向子が、はっとして俺を正面から見た。

 窓から斜めに差し込む夕陽のせいだろうか、須藤日向子の顔は、おふくろに似ているような気がした。いや、きっとそれは光が起こした錯覚に違いない……と思った。

「もう黙ってて!」

 彩佳は言ったが、俺は無視した。

 須藤日向子は、、佳奈をしっかりと抱きしめた。そして、答えた。

「はい。とても……とても幸せでした」

 須藤日向子は、とても穏やかな表情だった。

 俺は大きく息を吐き、窓の外を見やった。

 夕陽がまぶしかった。

 俺には、まぶしすぎた。眼がくらんだ。

 ——くそったれ。

 と思った。

 俺は、かろうじて声を出した。

「ほんとにあいつ、バカだ……それが、俺の親父なんです」

 俺は、泣いていた。


「あの日、電話の向こうで」完

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