第45話

 安浦は心配の籠った泣き声を通路に放つ。


「でも、しょうがないさ。きっと、南米に行けば色々と良くなるさ」


 私の体はもう痛みがない上に、ピンピンしている。不思議な感じだった。何か、こう、生まれ変わった感じだった。


 煤ぼけた顔をハンカチで拭いた呉林は、疲れてずぶ濡れの安浦と私に、


「二人ともなんとか無事のようね。残念だけど、まだここは危険よ。油断しないで戻りましょう」


 呉林は何かに警戒しているように背筋を伸ばして、きびきびと歩きだした。まるでとても警戒している黒豹のようだ。地味なスーツはところどころ煤ぼけていた。


 私たち三人は元来た道を歩きながら、


「赤羽さん。精神や体の方の感じはどう。まだ、七番目の者に覚醒したてだから安定してないかもしれないけど。それと、恵ちゃんの方は疲労が心配ね」


 呉林は、安浦に心配の眼差しを向けたが、さっきの安浦の救出を超能力的直観で知っているかのようだ。今では胸をときめかせて信じられないものを見るような顔で私を見ている。


「安定しているかは解らないけれど、悪い感じはしない。それと、七番目の者って何?」


「それは、姉さんの所へ行ったら話すわ。それと、恵ちゃん……疲れているだろうけど、お姉さんの車まで我慢してね」


 私は非現実の世界で、自分の中のもっと非現実なことを実感したが、不思議とあまり気にしなかった。普通というか平常心というか……。今でも信じられないが。


「ご主人様。さっきナメクジを宙に浮かせた。どんなことしたの?」


 疲労を隠せなくなった安浦は、さっきの事をうまく呑み込めていないが、言葉では絶対に言えない不思議な空気の流れは感知したようだ。


「解らない。体も精神も、まるで俺じゃない人間が俺の中にいて、そいつが何か叫んでいるようなんだ。でも、やっぱり悪い感じはしない。それと……怪我がほとんど治ってきているみたいなんだ」


 私はその時、安浦は何時間もあのナメクジから逃げ回っていたのだろうかと思った。


「でも、凄いわ。これで世界は救われるはずよ。未だに私でも信じ切れないけれど……。私……あなたが好きよ……」


「え?」


 心の中に一陣の爽やかな風が吹いた。私はこの世界から抜け出せれば、きっと呉林とうまくいくとこの時、確心したのだ。


「駄目―! 真理ちゃん! ご主人様はあたしと結婚するの!」

「頑張るぞ!」


 二人は喧嘩しそうだったが、睨めっこをしただけだった。そういえば、安浦はいつも一人ぼっちだと言っていたが、それは過去の話で呉林に会う前だったのだろう。


「あ、呉林。キラーって確か殺し屋のことだよな? 俺たちを殺すために誰かが雇ったのか?」


 私は背筋が冷たくなるのを何とか我慢して、呉林の顔を見る。


「うーん。私たちは何度も夢の世界から生存しているから……。ごめんなさい。今は何とも言えないの」



 呉林はそういうと、考えるため。私の視線を避けるように顔を鬱向かせて、ぶつぶつと独り言を言い出した。



「キラーって、あの巨大なナメクジ?あたしたちが誰かに狙われているとしたら……。どうしよう……」


 安浦はびしょびしょの服装で、決して寒さからではない。怯えからの震える声を発した。


「キラーか……」


 私は安浦の肩に手を置いた。少しでも安心させてから、自分の不思議な力で、キラーやその雇い主を何とか出来ればと切に願った。


 無限の女子トイレを抜け出て、洋服店から顔を出した頃には、空の巨大な赤い月は遥か北の方へと沈みかけていた。


 道路の目の辺りが暗い人々は決して、動いていなかった。何十人と私と渡部が叩きのめした人たちも、倒れたきり身動き一つしない。


「どう。七番目へと覚醒した?」


 霧画は高級車の助手席を開けて呉林に尋ねる。


「ええ。凄かったわ。本当に夢みたい。……でも、現実なのよね。いろんな意味で」


 呉林はぶつぶつとした独り言を止めて、満面の笑みで霧画に話した。


「いいなー。私も見たかったわ。あ、でも怪我の治療が先ね。渡部くんはすでに病院に運んだわ。次はあなたよ。わ、凄い。怪我が治っているようね。安浦さんも私の車で休んでね」


 霧画は私たち三人に車に乗るよう手招きした。助手席に私、後部座席に霧画の後ろに呉林、私の後ろに安浦が乗った。霧画の甘い香水の匂いは心を落ち着かせる。まるで子供の時、甘い食べ物に囲まれて優しく包まれている感じだ。後部座席の安浦は極度の疲労のためにすぐに倒れるように眠りについた。


 夜のドライブ。静寂の道路を車は走る。行き交う人々は空っぽの表情で微動だにせず、また静かである。全員、不気味に目の辺りが暗くなっていた。


 私が倒したキラーって、何者?


「霧画さん」

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