卓上ロッカー

月城 鷹

僕が僕であるために

第1話 プロローグ

 真夏の太陽が燦々と輝き、その照り付ける強い日差しがジリジリとアスファルトを焼く。蝉たちはまるでそれを祝福するかのように騒がしく合唱していた。


 8月のとある1日、文化ホールには多くの人が押し寄せていた。外は暑いというのにやたらと着飾った親子の姿が目立つ。その理由は、本日この場所でジュニアピアノコンクールが行われるからだ。


 この日開催されるコンクールは、ピアノコンクールの中でも有名なコンクールの一つだ。かつての受賞者の中に、現在世界を舞台に活躍している人が何人もいることから注目を集めている。子供達にとっては夢のプロピアニストへの第一歩に繋がる大切なコンクールとも言えるだろう。それだけに演奏に臨む子供達だけでなく、その親達も並々ならぬ期待を持って自分の子供を応援しているのだ。


 現在その文化ホールの控え室にいるのは、このコンクールの12歳以下の部のファイナル出場者達だ。部屋の中はエアコンがよく効いており、涼しくやや乾いた空気が漂っている。

 そこにいる子供達は、まるでピンと張った糸を思わせる緊張感を漂わせている。譜面とにらめっこする子や手のひらに人の文字を書いて飲み込む子、目を瞑って手を動かしイメージを高める子など様々だ。涼しいはずの部屋だが、子供達の熱意と言う名の熱気で満たされていた。


 そんな中に瀬能卓人という11歳の少年もいた。ベストスーツを着て椅子に座り、自分の番が来るのを待っている。しかし、卓人は周囲の雰囲気に反してまるで糸が切れた操り人形のようにだらっとした姿勢で椅子に腰掛けていた。その視線は、ぼんやりと天井付近を見上げている。

 周りの子供たちは卓人の様子に最初は不思議そうな視線を向けたりしたものの、次第に各自の演奏前の準備に集中し始めていった。やがて、順々に係員に呼ばれ演奏に向かっていった。


 遂に卓人の順番がやって来る。


「それでは9番瀬能卓人君、準備をお願いします」


 係員の呼ぶ声に卓人はピクッと反応し、操り手に糸が引っ張られたかのようにぎこちなく立ち上がった。卓人は係員の方を向き、か細い声で「……はい」と返事をしてゆっくりと会場へ向け歩き出す。


「瀬能君、大丈夫ですか?」


 係員は自分に近づいて来る卓人に思わず尋ねてしまった。演奏前ということもあり、大抵の子供は緊張しているのでそう珍しいことでは無いはずなのだが、青ざめた顔に震える身体、そして何より精気を感じられない目をした少年に心配してしまったのだ。卓人はその問いに声は出さず、首を縦に振って答えた。そして、舞台へと歩き出した。


 舞台に入っていくと大勢の視線が自分に集まるのを感じる。卓人はぎこちなく観客席に一礼した後、ピアノの前の椅子に座った。鍵盤をぼんやり眺め、ふと天井を見上げ、自分を照らしつけるスポットライトを忌々しそうに睨みつけた後、鍵盤に手を添える。そして弾き始めた。“最後の約束”を守るために。


 卓人の指が鍵盤に触れた瞬間、会場の空気が張り詰めたものに一変した。その演奏は楽譜に忠実でありながらどこまでも冷たく、冷房の効いた会場の温度を更に下げるように澄んだ旋律を奏でた。これまでの演奏者と同じピアノで弾いているのか不思議なほどそのピアノの音は観客の耳に響いた。観客はその演奏にのめり込み、時間を忘れた。


 あっという間に演奏が終わりが来た。卓人の指が鍵盤を叩き、最後の一音を奏でるとその一音の響きを聴き逃すまいとしているかのように会場は静まり返った。


 卓人は演奏を終え、椅子から立ち上がった。ふらつく体をぎこちなく動かして観客席に向かって礼をする。するとまるで氷が溶けるのを待つかのように一拍間が空いたあと、さざ波の様な拍手が響き、それはやがて万感の拍手に変わった。その拍手に胸が締め付けられる。


 (あの演奏の何が良かったのだろうか)


 卓人は考えるも答えは出ない。今の演奏に、自分という存在の居場所があったのか卓人にはわからなかったのだ。ただ会場の熱気とは裏腹に、少年の心は締め付けられた。早く舞台の裏に隠れたかったが体に上手く力が入らない。卓人はふらふらとした足取りでゆっくりと舞台を後にする。


 そして、卓人が舞台裏になんとかたどり着くと一人の少女が出迎えた。少女は目を大きく開け驚いた表情をしていた。そして少し悔しそうに口を歪める。


「どうしたのよ、今日のあなた…。凄かったわ。あんな演奏を聴いたの初めてよ」


 しかし、今の卓人には目の前の子が何を言っているのか上手く頭に入ってこない。さっきまでの歓声がガンガンと頭に響く、あの拍手は誰に贈ったものだろうか? 


「……ちょっと、瀬能くん大丈夫? 顔色悪いわよ?」


 (あの演奏に僕はいない)


「おぇ…」


 胃がすくむような吐き気を覚え、卓人は口元に手を当て、その場にしゃがみ込んでえずいた。喉が焼けるように熱い。


「ちょっと……どうしたの!? ねぇ、瀬能君! 大丈夫? 誰か! 誰か来て!」


 女の子の叫んでいる声がどこか遠く聴こえるが、それを無視して卓人は自分の手のひらを見た。


 (…やっぱり赤くないんだ)


 少し残念な気持ちを胸に抱きながら、卓人は意識を失った。


 この日行われたピアノコンクール12歳以下の部の優勝者は、それ以降コンクールに姿を見せることはなかった。

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