髪を解く

@mayukani381

1.アンビバレント

大人達に「今何してるの?」と尋ねられ、「大学生です」と答えると「今が一番楽しい時だね」と返されることがよくある。私はこれを人生のネタバレと呼んでいるのだが、このネタバレが本当に嫌で仕方ない。私は今現在のところそれほど楽しくないという現状を鑑みると「この先の人生はこれ未満なんじゃないか」という不安が湧いてくるからだ。そういうことを言う大人達が私に嫌がらせをするつもりがないことも、大人達が真実だけを口にするわけでもないことも分かっている。しかし、まだ起きてもいない将来の嫌なことについて予測する性分を持つ私と人生のネタバレの相性がとにかく悪い。ちなみに、私がなぜ将来の嫌なことについて予測する癖があるかというと、それは多分、実際にその事が起きた時に事前に予測しておくことができれば受け身が取りやすいからだと思う。「今が一番楽しい時期だね」という言葉を初めて耳にした時は「この人は大学時代が一番楽しかったんだ」程度にしか思っていなかった。しかし、大人達との会話を重ねていくと大学もしくは高校が一番楽しい時期だったという返答が異常なほどに多いことに気がついた。そういうサンプルが増えていくに連れて「この先の人生は現状未満になる可能性が高いのではないか」という疑念が私の中で少しずつ大きくなっていった。人間は希望という名の病に犯されているからこそ生きていけるというのに大人達はとんでもないことをしてくれたなと私は思う。


 今日の講義は午後からなので午前中に通院を済ませる。「発狂ヶ丘精神病院」、ここが私が2週間に一度通っている病院だ。昨今は大メンヘラ時代なのでどこの精神病院も毎日大混雑。例に漏れずこの発狂ヶ丘精神病院も大混雑なので今日も朝イチで行っても既に15名ほどが列を成していた。受付で診察券と保険証を出して整理券を受け取って待合室の席に着こうと空いているイスを探す。かろうじて1席空いているのだが呪詛のような言葉をブツブツと垂れ流しているおじさんの隣しか空いていないので外で待つことにした。病院の出入り口のすぐ側の壁にもたれ掛かって「また4時間待ちかな」と考えながら爪を噛む。そうしていると、ストレッチャーに仰向けに寝かされた老婆が家族らしき人に病院内へ運ばれていった。その少し後には不規則な踊りを繰り返しながら歩く中年男性とその親と見られるやつれた爺さんが入っていった。そういう人に対する嫌悪とかはないのだがそういう人が通う病院に通っている私という人間は大丈夫なのだろうか。怖い。

 2時間ほど経って待合室の安全そうな席が空いたので座る。向かい側の雑誌や新聞が置いてある棚に漫画雑誌があることに気がついたので適当に1冊取って席に戻った。手元の本に目をやると、表紙にも裏表紙にもデカデカとグラビアモデルの写真が載っているタイプの漫画雑誌だった。「これじゃ私が病院で卑猥な本を読んでいる痴女じゃないか・・・いや、本を開いていればそうは見られない」と思い早速、本を開いてパラパラと捲り興味を引く漫画を選ぶ。慢性病と不眠症で全く頭が回らず漫画のセリフ程度の文章すら頭に入ってこない。仕方がないので3ページに1回ラッキースケベが起こる卑猥な漫画を選んで読むことにした。「私って痴女かもしれない・・・」と思い落胆する。

 そこから更に2時間ほど経過してようやく診察の順番が来た。ニコニコ笑顔の看護師に連れられ診察室に案内される。医師が「どう?」「じゃあこの薬増やして新しいのも追加するから」「はい、お大事に」と言って診察は終了した。私はたぶん合計で10秒も言葉を発しなかったと思う。大メンヘラ時代の精神病院はどこも長蛇の列なので他院に移るわけにもいかず、この診察のために私はいつも4時間待つ。不満はあるけれどどうしようもないので、とりあえず新しいお薬で症状が緩和することに淡い期待を奮わせ無理矢理歓喜しながらアパートに帰る。住処に着いたところで「大学が始まる!」というラベルのアラームが鳴ったので薬を玄関先の廊下に放り投げて大学に向かう。病人は忙しい。


 もう落ちないのであろう汚れが付いた大学のリノリウムの廊下を歩く。丁度、研修室から出てきたゼミの教授と鉢合わせる。私が書き終えた卒業論文について数箇所だけ確認して欲しいところがあったので私はその旨を伝えて教授を研究室に押し戻す。縦長8畳ほどの研究室の中は図書館よりも本の密度が高く少しカビ臭い。話に聞くと本の密度とカビ臭さは教授の自宅も同じような塩梅だそうだ。本を多く読めばすごいとか偉いということは思わないがこれだけの本を読んでいる人間には素直に畏怖を感じる。論文の確認を終えた教授がゴーサインを出したので後日に卒論として提出することになった。論文の内容に関連した会話を教授とする。この教授はどこか悲壮感を感じさせるが決してニヒルなどには寄っていない雰囲気があると話す度に感じる。それに加えてこの人からは多くの大人から感じる子供に対する無意識の見下しようなものを感じさせない心遣いが彼にはある。この人との過去のやり取りから推察すると、恐らくこの人は他人を自分にない知識や視点を提供してくれる生き物くらいに思っている部分があるのだろうなと思うが。私も教授を都合よく使ってはいるので人のことをとやかく言える立場ではないけれど、でも、そういう都合よくお互いを利用するだけの人間関係は友人や恋人や家族などと異なり、目的が明確であるので気が楽だ。


 研究室を後にして午後からは文学の講義があるので教室へ向かう。私は講義を受ける時は一番前の列の席に座る。一番前に座るとやる気があると勘違いされがちなのだが、私の場合はそうではなく単純に空いていて気が楽だからそこを選ぶ。同じようなことを考える人間は大学という限られたコミュニティの中にも少数だけれども存在するようで、いくつかの講義では毎度同じメンツが前の方の席に散り散りに座っている。決して話掛けはしないが席に座っているのを見るたびに「お・・・いる・・・」くらいの認識はする紙より薄い人間関係がそこにはある。教室に着いた。まばらに一人で座っている学生もいれば数人の友人グループで固まって談笑している学生もいる普通のいつもの光景だ。最前列の真ん中の長テーブルの、真ん中の席にお手本のような姿勢で紺色のジャージ姿の女が一人で座っている。性別と年の頃は私と同じで肩甲骨の終わりあたりまでの長さのストレートの黒髪と整った顔立ちのその女を教室の入り口あたりで見つけた私は「顔の良い女・・・」と思った。そのまま彼女の席の前を通り過ぎようとしたところ、缶ゴミの日にゴミ捨場に置いてある酒類のカンやボトルをひとまとめにして入れた袋のような臭いが鼻を突いた。学び舎にはあまりにも似つかわしくない香りだったので臭いの元を不自然でない程度に視界の中で探ってみると、彼女が机の上に小さめのワンカップやらウォッカやらを5つほど置いて氷の入った水筒の中に移し替えて混ぜて飲んでいる。ここで飲むんだ・・・と思い少し驚いたがその時はそのままその前の通り過ぎて彼女とは右に4席ほど離れた席に座った。「少し離れただけで酒の臭いはしなくなったのでまあ問題はないんだろうな、講義中に暴れたりしなければだけど」、そんなことを考えていたら講義は始まった。


 初回の講義ということでその回では芥川龍之介の『魔術』を扱った。児童向けに書かれた短編作品かつ新思潮派(現実の人間を理知的に分析しようとする文学のジャンル)に属する作品ということでそれなりにとっかかりやすいチョイスらしい。かなり大雑把に内容を説明すると、ある男が魔術師に魔術の教えを乞い、魔術師がその男には適正がないことを示す、という話だった。魔術師曰く、魔術を使うには欲を捨てなければならないが男はそれができていないので魔術は使えない、とのこと。無欲が魔術師としての必要条件であるなら魔術師は一体何に従って生きているのだろうとぼんやり考えつつ、先程のアル中女に視線をチラリと移してみた。彼女は酒気を帯びている人間とは思えない程に講義に集中しているようで、飲む・聞く・書くをただひたすら繰り返している。こういう大胆な行為ができる人間はむしろ欲するものが少ないからこそこんな真似ができるのかもしれないな・・・この教室の中で一番魔術師に近い人間はそこの女かもしれない。教授の声と紙を捲る音だけの講義は粛々と進行していき特に変わったことはなく終了した。


 お勉強道具を鞄に仕舞い終えて帰ろうとしていたところ、「ねえ、激ウマのご飯食べに行こうよ」と声をかけられた。4つ左の席に座っているアル中魔女だった。昼食はまだだったし何より私はおもしれー女が好きなので「いいよ」と応えた。彼女は荷物をリュックサックに押し込むと「着いてきて」と言って教室を出て行く。私は荷物を持って駆け足で彼女の後を追う。彼女に言われるがまま会話もなしに2分ほど歩いて大学の中庭にある学食に着いた。よりにもよってここなんだ...と私は思う。この学食は向上心が全く感じられないことから「バカの飯屋」と学生の間では呼ばれている。そのせいか私達以外には誰も来ていない。というか人がいるのを殆ど見たことがない。大学事務局のお役所仕事のおかげで廃業にはならずに済んでいるようだがこんな学食が放置されているのは何かの癒着なのだろうか。「私はお茶漬けにしようかな」と言って彼女は学食のおじさんに注文したので「私は日替わり定食」と私も続いた。おじさんは冷蔵庫から四角い容器を取り出して電子レンジに放り込んでボタンを押した。次に棚から温めていないのであろうパックご飯をそのまま紙ボウルに押し込んで黄・黒・緑・赤の縞々のド有名なお茶漬けの素を一人前掛けてポットの熱湯を掛けてお盆に乗せた。そうしているうちにチンという音がして、おじさんは電子レンジを開けてその四角い容器を取り出してそのまま別のお盆に乗せた。「お待ちどう!」と威勢が良く言ってお盆を私達に順番に渡した。海水浴場から盗んできたようなパラソルと白いプラスチックの机と椅子の席に私達は座った。アル中は何も言わずにお茶漬けを食べ始めたので私もとりあえず食べようと思って容器の上についているフィルム兼フタを剥がして定食?を開ける。どうやら冷凍の弁当のようなものらしい。電子レンジの最大出力で適当に温めたのだろう、おかずの肉団子の中心の方は氷のままだ。本当にバカの飯屋だ。こんな料理出してるくせに「お待ちどう!」という声だけ威勢が良いのが怖すぎる。

「面白いよね。この学食」と彼女は言った。

「私は初めてきたけどもう来ないかな」。

「え〜また一緒に来ようよ」。

このアル中、馴れ馴れしいな。

「考えとく。私、逢坂 鋏。そっちは?」。

「私は一ノ瀬 糸。よろしくね。鋏ちゃん」。

「一ノ瀬・・・って賢者大ナンバー2の一ノ瀬?」。

「そういえばそう呼ばれてるね」。

馬鹿の天才は紙一重という説はあながち間違いではないのかもしれない。天才と秀才の違いとかははたから見ればよくわからないというのはまあ置いとくとして、このアル中がかなり学問ができるということが判明した。学問の世界のハイエンドはこんな感じの人間ばかりなのだろうか。この大学の学生や高校の時の成績優秀者はいかにもなガリ勉とかはいなくて目の前の女のように飄々とした人が多かったし。そう思っているとこの話を掘り下げたくないのか一ノ瀬が話題を変えた。

「そういえば鋏ちゃんがこの前の学内誌に載せてた論文面白かったよ」。

「読まないでよ恥ずかしいから・・・」。

配られても即ゴミ箱に突っ込まれるあの学内情報誌を読んでる人いるんだ・・・。「いやいや、慧眼は一朝一夕のものではないと私には分かるよ」。

「ナンバー2にそこまでいってもらえるなら教務部に書かされたものとはいえ書いた甲斐があったよ」。

「私は大したもんじゃないよ。なんか色々とおだてられてるけど普通の人間と比べて幸福になる確率が高いわけでも嫌な死に方をする可能性が低いわけでもないしね」。

「そういう認識なんだ・・・」。

「人生なんて極論すれば当人がどう感じるかが全てだからね」。

木で鼻を括ったような口調で彼女はそう言った。一ノ瀬のことを一瞬だけ謙虚な人間だと思ったけれど、どうやらそれは適切な評価ではなさそうだ。

「そのゼリー貰ってもいい?」

と一ノ瀬は聞いてきた。

「え?ゼリーなんてある?」。

一ノ瀬は「それ」と言って豆腐を指差した。豆腐のことをゼリーの一種だと認識している人間なんているんだ・・・と思いつつ

「いいけど」

と返すと一ノ瀬は素早く箸で豆腐を刺して口に放り込んだ。もぐもぐ咀嚼しながら「デリシャスフード」

と彼女とは言った。おもしれー女・・・。

 しばらく自己紹介や世間話をしていたら流れで人生のネタバレの話になった。

「大人がああいう人生のネタバレしてくるの嫌いなんだよね」

と私が言うと

「考えすぎだね」

と糸は短く返した。

「もし鋏ちゃんがそれを解決しようとするならそれは世界そのものとの戦いになるからおすすめはしないしもっと脱力して生きたほうが楽しいよ」

とヘラヘラした糸が言う。この神経を逆撫でる態度と言動は人が人なら既に気分を害していると思うが、今の私にはむしろこれが丁度いい。

「鋏ちゃん泳ぐの苦手でしょ」

と糸は更に言葉を続ける。

「確かにそうだけどそれ今関係ある?」。

「大アリだよ。泳ぐのが苦手な人は妙に頑張ろうとして必要以上に力が入って結局できないから。人生と水泳に力はそれほど要らないんだよ」。

「なるほどね・・・糸はどっちも上手そう」。

なんというか、糸の言うことは何かしらの能力で頭角を現せる人間だけに通用する技術な気がする。他人から目から鱗な助言が出てくることを期待なんてしていないけれど、なんか嫌なこと聞いたな。

「というか糸。口が酒臭い」。

「しょうがないじゃん。飲んでるんだから」。

「大学で飲まなくてもいいでしょ」。

「飲んだほうが脱力できるから学問には丁度いいんだよ」。

「そういうことね・・・」。

「今朝は寝坊してお酒の準備しかできなかったから着替えられなかったんだ」。

「優先順位がおかしい、と思ったけど学問の準備を優先していることを考慮すると学生の鑑ではあるね」。

「話が分かるじゃん鋏ちゃん」。

そう言って糸は立ち上がると座っている私の背後に立って前かがみになり、後ろから私の胸の前に腕を伸ばして交わらせて私と糸の間に背もたれが挟まっている状態で抱きついてくる。

「鋏ちゃんいい匂いするね。私も柑橘系のトップノート好き」。

ダルい絡み方してくるタイプか・・・と思いつつ、仕返しに私は正面を向いたまま糸の髪に手を伸ばして一束を指にとって自分の鼻の前に持っていく。

「糸はなんかちょっといい焼き菓子みたいな甘い匂いする。髪はいい匂いするんだね」。

「家が洋菓子屋さんだから」。

「へぇ・・・」。

「そうだ。今からうちおいでよ。ご馳走するし」。

「・・・いいけど今日はお酒もう飲まないで」。

「飲まないよ~講義終わったし。じゃ、決まりね」。

そういうと糸は私から離れてテーブルの上の容器をひとまとめにしてバスケットボールのシュートのフォームでゴミ箱へ放り投げて、お盆を二枚重ねて持って学食に返しに行った。糸は席に戻ってくると自分のリュックサックを背負い「正面門から出よう」と言って歩いていく。私は立ち上がってロングスカートのお尻の部分を軽く払って鞄を持って駆け足で糸に追いつく。そっちが誘ったんだから少しくらい待って欲しい。正門に続く並木通りを二人で歩いていく。誰かとこんなに会話をして、しかもどこかに一緒に行くなんて随分と久しぶりな気がする。「国立賢者大学 第一キャンパス」と書かれた表札の付いた正面門を通り過ぎて私達は大学を後にした。隣町の「私立クソバカ大学」と迷って結局この大学を選んだけど、今はまあ良かったかなと思う。他人を煩わしく思い利害で結ばれた関係を好む一方で、実利や打算抜きの結びつきを求める。そんな相反する情動と、私は上手く向き合えない。けれど、青春なんて、私の気持ちなんて、そんなもん。

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