姫宮姫子のお悩み相談所3

近藤タケル

エース・ストライカー

エース・ストライカー




 私立姫宮高校のグラウンドでは、日々さまざまな部活が練習に精を出している。

 姫宮姫子が暇を持て余しているときは、紅茶を飲んだりお菓子を食べたり、助手の小夜と話をしたりして時間を潰すのが常なのだが、時折お悩み相談所の窓からそういった部活動の様子を眺めていることもある。

 とは言え、運動音痴の姫子には詳しいことは分からない。監督の教師が何やら叫んでいたり、男子も女子も関係なく大声を張り上げていたりするくらいのことしか分からない。

 今日もご多分にもれず暇を持て余した姫子は、窓際から部活を眺めてしばらく経っている。

「なぁなぁ、小夜ちゃん。今度はこっちの問題なんだけどよ」

「あっ、それはね。まずxの係数に注意しながら……」

 後ろでは助手の小夜と薫が、何やら数学の話をしながらノートに向かっている。今日の課題が難しく、薫は小夜に勉強を教えてもらっているのである。これもまた時々ある光景だ。

 そんな二人をちらっと見てから、姫子は横に立っているアリスに目をやった。

 アリスは大きな双眼鏡を構えて、グラウンドのほうを注視している。時々なにかぶつぶつとつぶやいている。

「あんた、スポーツが分かるの?」

 姫子が声を掛けると、アリスは双眼鏡をおろして、眠たげな目で姫子を見た。

「いや、分かんないっす」

「じゃあ、あんたは何をそんなに熱心に見てるのよ」

「気にしないでほしいっす。ウチは掛け算してるだけっす」

 薫がペンを止めて、アリスに言った。

「へぇ。アリスちゃんも数学やってんのかい? こっちに来て一緒にやろうぜ。あたいはさっぱり分かんねぇけどよ、小夜ちゃんがとにかく頭も良くて説明も上手でさ。おかげで今日の課題がもうすぐ終わりそうだぜ」

 小夜が苦笑いする。

「多分アリスちゃんの『掛け算』って、そういうことじゃないと思うなぁ……」

「ん? じゃあ一体どういうことだい?」

わいわいと話す助手たちを眺めて、姫子は大きくひとつため息をついた。

「はぁ。いいわねあんたたち。上手に暇が潰せて」

「姫もこっちにおいでよ。一緒に課題やっちゃおうよ」

「うっ……」

 にこにこしている小夜を見て、姫子はどうしたら課題から逃げられるかを必死に考えていた。

 いつの間にか、アリスがグラウンドに向けていた双眼鏡を姫子と小夜に向けている。

「ちょ、ちょっとあんた。何をしてるのよ」

「いや、ウチの中に新しい数式というか、定理が生まれそうで」

「やめなさいッ!」

「あ、ちょっと! ウチの双眼鏡! 返してほしいっす!」

 どたばたと大騒ぎしていると、相談所の扉が開いた。

「あのぉ、お悩み相談をお願いしたいんだけど……忙しそうだね?」


 こほん、と一つ咳払いをしてから、姫子は依頼人に向き直った。

 依頼人の男子生徒は出された紅茶に口も付けず、部屋の雰囲気に圧倒されてもじもじしている。

「あれっ、サッカー部で三年生の村川先輩じゃないっすか」

 アリスがぼそっとつぶやいた。

「えっ。おれのこと知ってるのか?」

「当然っす。ウチのチェックリストに名前が載ってるっす」

「な、何のチェックリスト?」

 おほん! と先ほどよりも強く咳払いをして、姫子が言った。

「なるほど。あんた、サッカー部の村川っていうのね。身なりからすると部活帰りのようだけど。それに目の周り、ひどい隈ね。どういう相談なのかしら?」

「あ、あぁ」

 短い髪をぽりぽりとかきながら、困り果てた様子で村川は話し始めた。

「そこの子が言ったように、おれはサッカー部三年の村川。実は、今度試合があるんだ。おれは三年生だから、それが最後の試合になると思う。それで、どうしても試合に出たくて、毎日頑張って練習をしてきたんだ。だけど……」

村川は大きな体をしゅんとしぼませた。

「試合のメンバーに選ばれないかもしれなくて……最後の試合の選手は、次の校内選考会で決まるんだ。そのときにしくじったら、もう試合に出してもらえないかと思うと、心配で夜も眠れなくて……」

「なるほどね。それで、その選考会はいつなのかしら?」

「もうすぐなんだ。その日が近づけば近づくほど、ゆっくり眠れなくて……寝不足のせいなのか、今日も監督にどやされちゃってさ。もう毎日つらいよ」

 小夜が姫子を見る。

「姫、受けるよね?」

 姫子は立ち上がりながら、力強く叫んだ。

「あったり前でしょ! この一件、きっちり片付けるわよ!」


 明日、同じ時間に相談室に顔を出すように言ったあと、四人の少女は頭を突き合わせて考えていた。

「元気よく啖呵切ったはいいものの、作戦はあるのかい?」

「当然じゃない。この手のスポ根話には、昔からセオリーというものがあるのよ」

 リモコンのスイッチを押して、執事たちを呼びつける。どこからか風のように執事たちは現れ、姫子の前にかしづいた。

「つまり、あいつが試合で思いっきりいいとこ見せれば、監督やら周りの選手やらも認めてくれるわけでしょ?」

「そ、それはそうだろうけど……でも、どうやって?」

 小夜が首をかしげる。

 ふふん、と自信満々に鼻を鳴らして姫子が話し始める。

「少年漫画なんかだと、こういう苦境のときに修行をするのが普通よね」

「で、でも、もう選考会まで時間がないんじゃ……」

「慌てない、慌てない、小夜。落ち着いて最後まで聞きなさい。確かに小夜の言う通り、選考会まではもう時間がない。漫画の主人公みたいに山にでもこもって、滝に打たれてパワーアップ! とはいかないわ」

「姫っち、何の漫画読んでるんすか……」

「もう、アリスもいちいちチャチャをいれないの。つまり、時間をかけずに短時間でパワーアップする必要があるわ。そこで、こいつらの出番ってわけよ」

 ひざまずいた姿勢のまま姫子の話に耳を傾けていた衛が、落ち着いた声音で応える。

「骨や筋肉に刺激を与えて、短時間で身体能力を飛躍的に向上させる装置……などいかがでございましょう?」

 姫子は満足そうにうなずいた。

「うむ。名付けて『ストライカー養成ギブス』、ってところかしら!」

「なるほどねぇ」薫が唸る。

「あっ、それなら」アリスが続ける。

「ウチを執事さんチームにつけてほしいっす」

 姫子はそれを聞くや、じとっとアリスをにらんだ。

「あんた、仕事にかこつけてこいつらに変なことするつもりじゃないでしょうね?」

 今まで微動だにしなかった執事たちの肩が、一瞬びくっと震える。

「誤解っすよ、姫っち。へへん、こう見えてウチは数学とか物理とか得意っすから。それに昔から人体を描きすぎて、大体どこの骨がどうなってるだとか、筋肉がどう動くかとか、これでも結構詳しいんすよ。お役に立てるっす」

 アリスはそう言って、胸を張ってみせた。

「あら、そうなの。じゃあ決まりね。アリス、あんたは衛たちと一緒にギブスを作りなさい」

「合点承知!」

 アリスは元気よく敬礼をして、上機嫌で執事たちに近づいていった。

「言っとくけど、うちの執事たちに変なことしないでよね?」

(普通、セリフが逆な気もするけど……)

 小夜は口には出さず、苦笑いしていた。

「心配御無用っすよ。ウチは眺めて楽しむ派っすから。ヒヒヒ」

「で、あたいたちは何をすりゃいいんだ?」

 薫がきょとんとした表情で姫子に言う。

「あんたはあいつと一緒にトレーニングよ。時間がないって言ったって、付け焼き刃でも何にもしないよりマシでしょ?」

「なるほど! あたいの得意分野だな!」

「姫、私は?」

「小夜はあたしと一緒に応援よ。美少女のあたしたちが応援すれば百人力になるんだから」

「う、うん……」

「さて、行動開始よ!」

 姫子の声を合図に、それぞれが相談所から出ていった。

 一同に続いて薫が出ていこうとすると、相談所に最後まで残っていた姫子が薫の服の袖を引っ張った。

「ん、どうかしたか? 姫嬢」

「あんたに、もうひとつ仕事があるわ」


 アリスたちは技術室に移動して、早速作業に取り掛かっていた。姫宮高校の技術室はお馴染みの小道具から、何に使うのか分からないような最新の大掛かりな装置まで備え付けられている。

 衛の知識と傑の経験、アリスの助言や妄言。三人はわいわいと話し合いながら作業を進めている。

 少し経って、姫子がやってきた。

「姫っち。どうしたっすか?」

「ギブスはできそうかしら?」

「ご心配なさらず、お嬢様。明日までに必ずや仕上げてご覧にいれましょう」

 未知の装置を作ろうというのに、衛の声には余裕が溢れている。

「うむ」

 姫子は満足そうにうなずいた。

「姫っち。それを言うためにここに来たっすか?」

 姫子は近くにあった椅子に座って足を優雅に組むと、三人に向かってにやりと笑ってみせた。

「ちょっとばかり、あんたたちに伝えておくことがあってね」


 翌日。

 相談所で村川は頭にタオルを乗せて、ひっくり返って目を回していた。

「だ、大丈夫ですか? 村川先輩」

 小夜が心配そうに声を掛けると、息も絶え絶えに村川は応えた。

「あれから、普段の部活の練習に加えて、薫ちゃんにこってり絞られてね……もうへとへとだよ」

 ソファの上でぐったりしている村川を見て、姫子は眉をひそめた。

「あんた、また目の周りの隈がひどいことになってるわ。まるでパンダみたいね。昨日も眠れなかったのかしら?」

「あ、あぁ。結局あのあとも、ずっと選考会のこと考えちゃって……でも、今日も薫ちゃんに追い回されて、さすがに気絶しそうだよ」

「一回気絶しておいたほうがいいんじゃないかしら? きっかけが何であれ、体が休まるじゃない」

「そ、そんなぁ」

 大きな体をぎゅっとしぼませる村川を見て、姫子は少し笑った。

「冗談よ。あんたが選考会を通過する作戦はもうできてるわ。それどころか、試合でも大活躍間違いなしよ」

「ほ、本当かい」

 村川の顔が少しほころぶ。

 姫子がぱちんと指を鳴らすと、執事たちとアリスが村川の前に何やら機械の塊のようなものを置いた。バネやら何やらがいろいろ取り付けられていて、一見するとただのがらくたの山にも見えた。

「な、何だい、これは」

「『ストライカー養成ギブス』よ。それをつけて運動すると、体が強くなって活躍できるってわけ」

 さすがに訝しんで、村川はギブスと姫子を交互に見た。姫子は自信満々に笑っている。

「物は試しってやつよ。さっそくつけてみるといいわ」

「開発責任者として、取り付けるの手伝うっすよ、ヒヒヒ……」

 村川の服をはぎとろうとするアリスを押さえつけている間に、執事たちに連れられて村川は別室へと向かった。アリスはじたばたと抵抗していたが、姫子と薫によって取り押さえられていた。

「まったく、おとなしくしなさい! そういえば、昨日帰ったあとに衛たちがげっそりしてたけど、あんた何かしたんじゃないでしょうね?」

「人体の構造を把握するのに、実物が必要だったんすよ。やっぱり、いいっすよねぇ。弾ける筋肉と筋肉……あぁ、甘美。ヒヒヒ」

「あ、あんたねぇ。少しは小夜を見習いなさい。おしとやかで品があって、控えめで。まさに淑女だわ。それに比べて、あんたがそんなに男好きだとは思ってなかったわよ」

「待った待った。誤解があるっす、姫っち。まず、ウチは別に男好きじゃないっす。男同士が好きなだけっす」

「おう。話が合うじゃねぇか。あたいも好きだぜ」

「あんたのはどうせ、戦いの話でしょうが」

「ん? そういう話じゃないのか?」

「二つ目に、いいすか? 姫っち。女子はみんな男同士が好きなんすよ。言わないだけで」

「ちょっと、何を言い出すかと思えば……何とか言ってやってよ、小夜!」

 三人が小夜の顔を見ると、小夜は耳まで真っ赤になって、顔を覆ってしゃがみこんでいた。

「話のし、刺激が強すぎて……」

 小声でそれだけ言うと、小夜は動かなくなった。

 一同がぎゃあぎゃあ騒いでいると、扉を勢いよく開けて村川が飛び込んできた。

「す、すごいよ、お嬢!」

 表情が別人のように輝いている。

「体が羽みたいに軽くて軽くて、すごく動きやすいよ! 今ならどんな動きもできそうな気がする! 着心地も抜群だし、服の上からはまったく分からないし、もう最高だよ! 一体どうなってるんだ、この装置は!」

 もみ合っていた姫子たちは、村川のほうに向き直った。

「当然よ。なんたって特別製のギブスなんだから。今日からそれをつけて練習するといいわ」

「そうするよ! あぁ、体を動かしたくてたまらない! 早速グラウンドに行くよ!」

「あたしたちも一緒に行くわ。ほら、小夜」

 姫子に手を引かれて、石像のように固まった小夜がずるずる引っ張られていく。


 グラウンドに出た村川は、水を得た魚のように動き回っていた。

 走れば薫にも負けないほどのスピードで、縦横無尽にフィールドを駆け巡る。ボールのコントロールも、まるでプロの選手のように鮮やかだ。ディフェンス役の傑を翻弄しながら、村川はゴールに向かって猛進していく。

「すごい、まるで足にボールが吸い付いているみたい……!」

 そんな村川の様子を見て、小夜が声を上げる。

「なかなかいい出来じゃない。アリス」

「へへへ」

 姫子たちが話しているうちに、村川はゴールに肉薄した。ゴールキーパー役の衛と一騎打ちになる。

 村川は雄叫びをあげながら、思い切り右足を振り抜いた。ボールは弧を描きながら、ゴールの角に吸い込まれていく。衛が素早く反応してボールに飛びかかるが、それよりも速くボールはネットに突き刺さった。

「村川さん、お見事ッス」

 傑が近づいてくる。その後ろの薫もサムズアップして歯を見せた。

 衛は無駄のない動きで立ち上がり、近づいてくる姫子に頭を下げた。

「予想以上ね。まさかゴリラばかりか、うちの執事たちを圧倒してみせるとはね。どう? これで安心して選考会に臨めるかしら?」

 村川は笑顔で姫子に応えた。

「あぁ……本当にありがとう。自分が自分じゃないみたいだ。これで今夜は安心して眠れそうだよ」

「選考会にはあたしたちも行くわ。最高のギブスに、最高の美女たちの応援。うまくいかないわけがないわ」

「応援してますよ、先輩!」

「あたいたちがついてるぜ」

「ちゃんといろいろ見てるっすよ。穴が開くほど。ヒヒヒ」

「みんな、ありがとう、ありがとう。おれ、頑張るよ!」

「よぉし、その意気よ。レギュラー絶対にとるわよ!」

『オーッ!』

 一同の声が、グラウンドに響いた。


 翌日以降、部活で村川は目覚ましい活躍を遂げていた。

 他のチームメイトたちは、村川の気迫に満ちたプレーに圧倒されている。

 ボールを自在に操ってフィールドで暴れまわる村川に太刀打ちできずにいた。

 ユニフォームで汗をぬぐいながら、チームメイトたちが話している。

「なぁ、村川のやつ、どうしちまったんだ?」

「気合入ってるよな」

「俺たちも負けてられねぇ。絶対レギュラーをとるんだ」

 そんなコートの様子を、姫子たちは相談所の窓から毎日眺めていた。

 村川は汗をぬぐいながら、日々の練習に打ち込んでいた。時々校舎に目をやると、姫子たちがこちらを見ているのに気づく。大柄な薫の横に、姫子と小夜が並んで手を振っていることがたびたびあった。その横には、双眼鏡を構えているアリスも見えた。ギブスの力に加えて、姫子たちがずっと見ていてくれていると思うと、どんなに疲れていても足が動き出した。

(絶対、絶対レギュラーをとるんだ! これが最後の試合なんだ!)


 それからしばらく経って、いよいよ選考会が明日に迫っていた。

 部活後に薫との特訓を終えてもなお、村川は自主トレーニングをしていた。日はすっかり暮れて、あたりには薫たち以外の人影はなかった。

 薫はその様子をずっと見ていたが、やがて村川に言った。

「なぁ、先輩。張り切ってるのは分かるけどよ。今日くらい休んだらどうだい? 明日はいよいよ選考会なんだろう? 今怪我でもしちまったら、それこそアウトだぜ」

滝のように汗を流しながら、村川が応える。

「……もう、サッカーをやるのは最後かもしれないからさ。できることは全部やっておきたいんだ。あとになって『あのときああしておけば』って思いたくない。みんながずっと応援してくれてるのも知ってるから、その想いにも応えたい」

 薫は腕を組んで笑った。

「へへっ。先輩、あんた漢だねぇ。だけどよ、どんなに一流の選手だって、きちんと体を休める時間をとるものだぜ。『あのとき休んでおけば』なんて思うのは嫌だろう? 一流の休み方、ってのもあるんだぜ」

 村川の動きが止まる。薫の口調は乱暴だったが、その言葉に込められた想いを村川は敏感に感じ取った。

「あんた、一流だぜ。一流なら、今日くらいしっかり休んでおきな。勝負は明日なんだからな」

「そうか……確かに、それもそうかもな……」

「おう。じゃ、明日、楽しみにしてるぜ」

 薫は笑顔で手を振ると、その場をあとにした。

 薫が去ったあとも、村川はしばらくベンチに座って考え込んでいた。

(確かに……最近はゆっくり眠れるようになったから、ここのところ無理しすぎたかもな)

 そして、ゆっくり立ち上がる。

(明日で最後なんだ。悔いの残らない試合にしよう。そのためにも、今日はしっかり休まなくちゃ……)

 荷物をまとめ、家路への一歩を踏み出す。

 ギブスが小さく「ギィ」と音を立てたことに、村川は気が付かなかった。


 翌日。

 よく晴れた日だった。

 授業を終えた村川は部室にいちばんに乗り込むと、早速手慣れた手付きでギブスを装着した。

(頼むぞ、ギブス)

 祈るように心の中でつぶやいて、そっと腰のあたりに手を添える。

 その時だった。

 ぶつん、と何かがちぎれたような感触が、手のひらを走った。

 突然のことに、村川は心臓が止まりそうになる。脳裏に嫌な予感が走る。嫌な汗がじわりと体を覆う。他のチームメイトたちがどやどやと入ってきて、それぞれ着替え始める。それはいつもの光景だった。ただ一人、村川だけが別世界に放り込まれたように固まっていた。

はっと我に返り、恐る恐るユニフォームをめくると、昨日までくっついていたはずの部品の一部が真っ二つに割れているのが分かった。その側に取り付けられたバネも、ちぎれて明後日の方向を向いている。ギブスがどんな仕組みなのか全く知らなかったが、壊れていることは明白だった。

(そ、そんな……ここまで来て、ここまで来て……!)

 ピーッ、という笛の音がした。選手たちは慌てて部室から飛び出していく。

 最後に残った同級生が、村川に声を掛けてくる。

「おい、始まるぞ」

(そんな、そんな……!)


 村川がグラウンドに並んだのは、いちばん最後だった。

「では、今から選考会を始める。結果は次の試合の参考にする」

 何人もの体格のいい顧問たちが、それぞれバインダーを持ってチェックをしている。

 ふとグラウンドの横を見ると、そこでようやく大勢の観客がいることに気が付いた。姫高サッカー部の校内選考会はちょっとしたイベントのように知られていて、教師も生徒も応援に来る。サッカー部専用のコートはスタジアムのようになっていて、観客席がしっかり完備されている。何より姫高の選手は他校に比べて質がいいので、プロのサッカーの試合並に盛り上がるのだ。

 その最前列で姫子たちが手を振っている。

(お、お嬢、みんな……)

 村川は少しうつむいて逡巡した。そして、顔を上げた。

 その瞬間、相手の選手が少し後ろに後ずさった。村川の眼光に気圧されたらしい。

(やるしか、ない……!)

 ホイッスルが高らかに鳴った。


 試合は部員をチーム分けして、対抗形式で行われる。

 学年関係なく出場できるので、新入生たちも気合を入れて臨んでいるようだった。

 村川のチームと相手のチームは、実力的にはほぼ互角のように見えた。

 姫子は一進一退の攻防を見て騒いでいる。そんな姫子の両手をぎゅっと握って、小夜ははらはらと試合の行く末を見守っている。薫は黙って腕を組んで動かず、その横で双眼鏡を構えたアリスがきょろきょろしている。

 同点のままロスタイムを迎えたとき、笛が鳴った。観客がどよめく。ペナルティエリアで接触があったようだった。フィールドで村川ともうひとり男子生徒が転がっている。

「ひ、姫!」

 声を上げた小夜は今にも泣き出しそうだった。姫子は小夜の手を握ったまま、倒れている村川をじっと見つめている。いくら姫子といえど、今この瞬間、できることは何もない。

 村川と生徒はよろよろと立ち上がった。駆け寄ってきた顧問と少し会話をしている。観客席から、何度もうなずく顧問と村川が見える。

「大丈夫、どうやらお互いに怪我はないみたい。小夜、見て! 村川がペナルティキックをするみたいよ! チャンスだわ!」

 四人が固唾を飲んで見守る。それは姫子たちだけでなく、この試合を見ている大勢の生徒や教師たちも同じであった。応援の声を出すのも忘れ、吹き抜ける風の音がはっきり聞こえるほど辺りは静まり返っていた。

 村川とゴールキーパーが対峙する。

 残り時間はもうない。ここで決めれば、ほとんど勝敗が決まる重要な場面だった。

(おれに、できるだろうか……)

 一瞬だけ目を閉じると、姫子たちの笑顔、衛から奪ったゴールの瞬間、そして何より、今までサッカーに打ち込んできた日々が、一気に脳裏を駆け巡った。

(外してもいい。すべてをこめてシュートをしよう。おれの、最後のシュートだ!)

 ピッ、と笛が鳴る。

 村川は芝を蹴った。足がどんどん前に出る。

 加速した村川のたくましい足がボールに触れる。

 世界から音が消えてしまったかのように感じられた。

 思い切り足を振り抜く。

 ボールは今まででいちばん美しい弧を描いて、ゴールに飛んでいった。

 キーパーが思い切りジャンプしてボールに手を伸ばす。その指先がかすかにボールに触れて、軌道がぶれるのを視界に捉えて、村川は思わず目を固く閉じた。

 だが、ボールのほうが速かった。ネットを突き破らんばかりの勢いで、村川の鋭いシュートがゴールに刺さった。

 一瞬の沈黙のあと、割れるような歓声が上がった。


 試合は村川のチームの勝利に終わった。

 部室に下がった村川は、呆然とベンチに座り込んでいた。

「お疲れ様」

 掛けられた声に驚いて顔を上げると、部室に姫子たち四人が入ってきたのがわかった。

「なかなかいい活躍だったんじゃない? 小夜なんて、泣いて泣いて大変だったのよ?」

 見ると、小夜はハンカチで口を覆って、まだぐすぐすと肩を震わせている。

 村川は、自分の胸がぎゅっと縮まるような、妙な感覚にとらわれて思わず胸に手を当てた。

「みんな……ありがとう。でも、みんなに謝らなくちゃいけないことがあるんだ」

 村川は自分のロッカーから、ギブスを出して姫子たちの前に置いた。

「今日の試合でギブスは使わなかった、いや、使えなかったんだ。試合前に突然壊れちゃったみたいで……せっかくみんなが力を貸してくれたのに、台無しにしちゃったよ。本当にすまない」

 何を言われるか怖くて目を伏せていたが、村川が四人を見ると、少女たちは顔を見合わせてにやにやと笑っている。それが何を意味しているのか理解できず、村川は余計に困惑した。

「あら、そうなのね。アリス、このがらくたに見覚えはあるかしら?」

 アリスはギブスをしげしげと眺めて、つぶやいた。

「こりゃあ、ひどいっすね。こんながらくた、小学生の工作でも作らないっすよ」

「き、君たち、何を言っているんだ?」

「あんたに渡したこれ、あたしが適当に作らせたただのがらくたよ。着けただけで活躍できるギブスなんて、そんな夢みたいな装置があるわけないじゃない」

 姫子は微笑んで続けた。

「あんた、元からやればできるのよ。本番の試合も観に行くから、気合い入れなさいよね」

「良いシュートだったぜ、先輩。本番もビシッと決めてくれよな!」

「ひっく、ひっく……ファイトですよ、先輩」

「ちゃんと当日も記録を残しておくっすよ、へへ」

 四人は部室を後にした。

 一人残された村川はしばらく呆然としていたが、なんとなくギブスの残骸をそっと撫でて、にっこりと微笑んだ。


 後日。

 姫子たちは珍しく、中庭の芝生広場でサッカーをしていた。

 姫高の中庭は巨大な公園のようになっていて、散歩を楽しむ生徒や弁当を食べる生徒、昼寝や読書をしている者など、さまざまである。

 ジャージを着た姫子が、アリスの蹴ったボールを追いかけてちょこまかと走る。

「姫っち、行ったっすよー! ……あぁ、またこけた。ほんと、姫っちは運動だめなんすねぇ」

 芝生に頭から突っ込んだ姫子は、ぷんすか怒りながらアリスに抗議している。

「あんたのパスが悪いのよ。もっと優しく蹴りなさいよ!」

「優しく蹴りなさいよ、って言われても。つま先でちょんとつついただけっすよ?」

 少し離れたベンチに並んで座って、小夜と薫は二人が言い合っているのを眺めていた。

「ねぇ、ゴリちゃん。今回の姫の作戦って、結局どんなものだったの?」

「あぁ」

 薫は小夜のほうを見て、話し始めた。

「姫嬢に頼まれて、村川先輩の実力を見たんだけどな。別にギブスなんてなくても十分やれると思ったのさ。それを姫嬢に伝えたら『やっぱりね』とかいってふんぞり返ってたんだけどよ。あの先輩、最初に相談所に来たときから妙におどおどしてたろ?」

 小夜は、初めて村川に会ったときのことを思い出した。確かに、体は大きいのに丸く縮こまって小さく見えた。

「そ、そうだったね」

「それで思ったのさ。先輩に足りねぇのは自信と度胸だってな。姫嬢はアリスちゃんにわざとがらくたを作らせて、それで自信をもたせるきっかけを作ろうとしたわけだ」

「ギブスをつけて、実際に運動ができるようになってたのは?」

「それこそ、先輩の真の実力なのさ。あの先輩、くよくよしてろくに休みもとってなかったし、心配しすぎて思い切り動くことができてなかったからな。それを何とかしちまえばいいってことよ」

「な、なるほど……」

「しっかし、姫嬢も悪いやつだよなぁ。作戦を全部小夜ちゃんに伝えないなんてよ」

 小夜は少し考えたあと、笑って答えた。

「きっと、それにも思惑があったんだと思うよ」

 小夜の笑顔からは、姫子への信頼が感じられる。

「……そうだよな」

 薫も笑顔で返す。

「小夜ー! ゴリラー!」

 姫子がこちらに手を振っているのに気づく。

「よっしゃ。あの運動音痴のお姫様に、ちぃと稽古つけてやるとするか」

「うん!」

 穏やかな午後の空が暗くなるまで、広場で姫子たちの声がずっと響いていた。

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