終章 未来

第69話 積年

 パタパタと軽い足音が聞こえてきた。


 明るい日差しが差し込む居間。平屋ひらやばかりで高い建物が殆どないこの辺りは、太陽の熱が他よりも近く感じる。


 自分の腕を見た。元々は真っ白だった肌。今もそこまで日焼けはしていないが赤い。どうもあまり強い日差しには強くない肌質の様で、油断するとすぐ赤くなって痒くなってしまう。それを見る度に、火傷に効くと言われている植物の葉を取りに行って、それを煮出した水をサラシに含ませ肌の火照りを冷ましてくれる夫。正に今この瞬間もそれを取りに行っていた。


「ただいま!」


 パタパタの足音の元が家に飛び込んできた。サンダルを突っ掛けた足は砂だらけ。よく見ると服にも砂が模様の様にびっしりと付いていた。


「こら、そんな砂だらけで入ってきちゃ駄目だろ」


 自分の小さな頃に瓜二つの赤茶の髪をした幼女を軽く叱ったが、本人は全く気にしていない様だった。


「父ちゃんと家まで競争してたんだもーん」


 競争してどうして砂だらけになるのだろうか。


「その父ちゃんはどこだ」

「途中でマージに捕まってたよ。だからナナの勝ち!」


 ナナはやった! と両手をバンザイさせた。服の砂がバサッと舞った。ナナがごほっとむせる。


「ナナ、表ではたくから」

「はーい」


 ナナがぴょんぴょん跳ねて更に砂を家中に撒き散らしながら玄関に戻った。わざとなんじゃないか、一瞬そう思ったがナナは基本能天気だ。あまり結果を考えて行動していないからわざとではないのだろう。その辺りは誰かさんにそっくりだ。


 よっこいしょ、とユサは重い体を寝そべっていたソファーから起こした。


 ゆっくりと立ち上がって玄関に向かう。外はいい天気だった。これから夏本番。益々暑くなってくる時期だ。


 ユサの左目が太陽の光を反射してキラリと光った。


 ユサの左目には義眼が入っている。片目になったばかりの頃は視界に入ってくる情報と今までの常識に余りにも隔たりがあってよくふらついていたが、今はさすがにもう慣れた。左側がよく見えないので気を付けないといけないが、これも慣れだ。


 玄関の外でしゃがんで砂の上に指で絵を描いているナナの元へと行く。


「ほらナナ、立って」

「はあい」


 ぴょん、と立ち上がったナナの手は砂だらけ。汚れるのを気にしないのは多分血に違いない。


 ユサはナナの服に付いた砂をパンパンとはたき、ついでに小さな両手を持ってパンパンと合わせて手についた砂も取った。だがよく見るとあちこちに泥が付着している。


「ナナ、父ちゃんとどこに行ってきたんだ?」


 これは薬草を取りに行ってきただけではないだろう。絶対どこか余計な所に寄り道している。


 ナナは曇りの一切ない笑顔で答えた。


「父ちゃんとナナの秘密の道があるの! でも怒るから母ちゃんには内緒!」

「……本当ナナと父ちゃんはそっくりだな……」

「えー? ナナは母ちゃんによく似てるって言われるよー!」

「うん、まあそれでいいや」


 まだ7歳にあれこれ説明したところで分かるまい。ユサは早々に説明を諦めた。


 またゆっくりと立ち上がると、腹の下半分がぎゅ、と縮んだ感覚がした。拙い。固くなった腹を手で支えながら、一旦その場で停止した。


 ナナが不安げな顔でユサを見上げてきた。


「母ちゃん大丈夫?」


 心配させてはいけない。少し頑張って笑顔を作った。


「ああ、横になれば大丈夫だ。心配すんな」

「もう! 父ちゃんこんな時にどこ行ってんのかねえ!」

「はは」


 色々と突っ込みどころは満載だったが、ユサは腹の張りが治るのを待ってソファーへとゆっくり移動し始めた。


 すると噂の主が走って飛び込んできた。


「ただいま! ナナ、ひとりで先に行っちゃ駄目だろうが!」

「だってナナ勝ちたかったんだもーん」

「だもーん、じゃないよ。……ユサ? 大丈夫か?」


 ユサの様子を見て一瞬で不安そうな表情に変わった。こいつはいつになっても変わらない。ユサは苦笑いしてヒルマの青い目を見た。ゆらゆら揺れ動く目。いつまで経ってもユサに少しでも何かあると揺らぐ、綺麗な青。


「大丈夫だ、ちょっと張っただけだ。座るのを手伝ってくれ」

「勿論だ。痛むのか?」

「うん、ちょっとな」

「ほら、ゆっくり」

「うん、ありがとう」


 ヒルマに支えられながらソファーに座る。ふと目に入ったヒルマの手は真っ黒だった。ユサの目が細まる。


「お前ら一体どこほっつき歩いてたんだ」


 ヒルマはしまったという顔をした。背中まで伸びた青黒い髪は後ろにひとつに結ばれている。不器用な夫の為に朝ユサがきっちりと結んでやったそれからは、髪がピンピン跳ね出している。葉っぱも付いていた。

 

「いや、その、秘密の通り道があってだな」


 にへら、と10年前より少し肌の張りは衰えたが以前より頬の肉が落ち精悍な顔つきに変わったヒルマが笑った。次いでユサの冷たい目線にしょぼんとする。


「手、洗ってきます」

「そうしてくれ」


 ヒルマはナナを連れて洗面所に消えていった。ふたりが見えなくなったのを確認してから、ユサは頬を緩ませた。


 家族を切望していたヒルマはとてもいい夫でとても子煩悩な父親だ。悪戯三昧のナナの面倒も、動けないユサの代わりにとてもよく見てくれている。


 ユサは自身の大きく張り出した腹に優しく手を当てた。ボン、と中から元気な蹴りが返ってきた。さすがユサの子供だ、生まれる前から蹴りは習得しているなとユサは可笑しくなった。


「もうちょっとで会えるな」


 ユサは声をかけた。洗面所からナナが大騒ぎしている声が聞こえた。恐らく床はびしょ濡れだろう。気にしない気にしない、まあヒルマが何とかするだろう。


 ナナを身体に宿した時、ユサにとてつもなく辛い悪阻つわりが襲ってきた。安定期に入れば自然となくなるとマージが言っていたが、ユサの場合は全く変わりなく、ナナが生まれるその瞬間までずっと悪阻が続いてしまった。


 お陰でナナが生まれたことの前に悪阻から解放された事実に感動を覚えてしまったくらいだ。本来だったら産後直後はふっくらな筈の身体は痩せ細り、ナナに母乳をあげるのもギリギリ。結局ユサが何とか回復するまでナナの面倒を全面的にみたのは、あの不器用なヒルマだった。


 ヒルマは目の下にクマを作りながらも、するのはユサの心配ばかりだった。申し訳なくて涙が出て仕方なかったが、それも産後の精神不安定さによるものだったのかもしれない。


 沢山寝て沢山食べて気持ち急いで回復すればいいのよ、そうマージに諭されてからは泣くことも減り、早くヒルマと並んでまたイカを捌くのだ、そう決めて頑張って回復に努めた。


 なんせヒルマはイカがさばけない。あれだけ捌けると豪語していたが、蓋を開けてみたらあれは捌くのではない、引きちぎってぐちゃぐちゃにしているだけだった。


 やり方は見て知っているからてっきり出来ると思ってた、と照れ笑いするヒルマに呆れ返り笑ってしまったのはもう10年も前のこと。只々ただただ懐かしい。


 結局ユサがイカ担当になったが、それでもヒルマは横に立つのは止めなかった。ニコニコといつもユサがイカを捌くのを幸せそうに眺めるのだ。


 ふたりはまだ戻ってこない。バチャバチャと水の音がしているが一体何をしているかを想像すると恐ろしいので考えたくなかった。


 子供は沢山欲しいと言っていたヒルマだが、その後は一切そのことについて触れなくなった。すっかり元気になり、悪阻の記憶も薄れてユサがふたり目の話をしたところ、もうユサが辛いのは嫌だとあの揺らぐ目で泣かれてしまった。


 だが時折町で小さい男の子を見かけると羨ましそうな顔が隠せないヒルマ。馬鹿だな、そう思った。そして愛しくなった。


 だからユサはヒルマに言ったのだ。


「俺は子供がもうひとり欲しいんだ。お前が協力する気がないなら他に相手を探してもいいんだけど」


 と。その時の情けないヒルマの垂れ下がった眉尻と口端は今でも時折思い出して笑ってしまう。そして妊娠した時、今度はまさかの一切悪阻なし。人間の身体とはまこと不思議なものだ。


「母ちゃん! 服びしょびしょ! あはは」


 服から水を滴らせて居間に飛び込んできたナナを、ヒルマが大慌てで追いかけてきた。ぷ、と思わず笑ってしまった。この親子は、本当にもう。


「ナナ、その濡れた服はここで脱いで新しい服に着替えてこい。ほら、クリスティナから貰ったワンピースなんかどうだ?」

「あ! ナナあれ好き!」


 途端ナナはその場で素っ裸になり自分の部屋へと走って行ってしまった。呆れ返るヒルマがナナが脱ぎ捨てた服を拾い、ユサに笑いかけつつ屈むと軽く口づけをした。


「いってくる」

「よろしく」


 そう言うと駆け足でナナを追いかけて行った。


「騒々しいんだから、全く」


 ユサは苦笑した。



 クリスティナには感謝しかない。


 新たな職を模索していた時に声をかけてきたのがクリスティナだった。確実に連れ戻されぬ様、結婚後子供がお腹にいる状態になって初めて実家の白磁国に連絡を取ったクリスティナは、商売を外に広げる話をあっさりと取り付けてきた。それを大陸の南にまで広げたい、その第一歩にとヒルマとユサに絹製品の取り扱いを依頼してきたのだった。


 多分、半分は口実だったのだと思う。怪我がなかなか癒えないユサと、ユサから絶対に離れないヒルマを助けたいと手を差し伸べてくれたのだと思う。


 商売の手解きはなかなかかなり厳しかったが、お陰で今こうして豊かな生活が送れる様になってきた。


 毎年一度、家族の顔合わせをどちらかの国ですることになっている。今年はユサが身重な為クリスティナ達が来る予定になっていた。


 そして到着は今日か明日か。ユサはクリスティナに久々に会えることをとても楽しみにしていた。


 数少ないユサの友達。友達の大切さを初めてユサに教えてくれた人だ。


 すると、開け放たれた玄関の方から賑やかな話し声が聞こえてきた。ユサは声のする方を見た。


「ユサ! まあもうお腹がこんなに大きくなっちゃって! 会いたかったわ!」


 ひょっこりとクリスティナが顔を覗かせて輝く様な笑みを見せた。

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