第49話 本棚の影

 まずは本棚の中に隠れている物の探索を行なうことにした。


 アキは訳が分からず首を捻って壁の前で様子を見ているが、説明する気は起こらない。こいつは一度ユサを裏切った男だ、もう二度と信用は出来なかった。いくら本人がそれが皇子の命だったと言っても裏切りは裏切りだ。お陰でこの数年どれだけユサが悩んだことか。


「ヒルマ、こっちの方だ」


 ヒルマの腕を掴んで引っ張って行く。業務時間が過ぎたからか、それともアキが言っていた様にこの階に来る人間の数自体が少ないのか、図書室らしき空間には人っ子ひとりいなかった。


 少し先に移動すると、本棚の影に隠れてアキが見えなくなった。ヒルマもそれに気付いたらしく、ひそ、とユサに小声で話しかけてきた。


「なあユサ、本当にいいのか?」


 ユサは小さく頷いた。


「だって、どう考えても怪しいだろその指輪」

「そうかもしれんが、ユサが嫌だろうが」


 そう、この男は知っている。ユサがどれだけ男に触れられることに対し恐怖をいだいていたか。男の怒鳴り声が怖くて動けなくなることも、震えてしまうことも、全部横で見てきた。それが全て紅国こうこくの皇子に由来するものなことも、もう理解しているのだろう。


 だから精一杯の笑顔を作った。


「お互い自由になったらさ、一緒にイカをさばくんだろ? それって楽しそうじゃないか」


 今まで平和で幸せだなどと感じたことはなかったが、ヒルマと過ごす内に楽しいというものが何なのかは徐々に分かってきた。


 裏切らない、搾取してこない男がこの世にいるなど思っていなかった。呼んだら、名前を叫んだら飛んできてくれた。そんな奴、現れると思っていなかったのだ。


 だから、ヒルマが隣にいるならきっとユサは恐怖と対峙出来る。ユサの命を預けたこいつなら、きっとちゃんと守ってくれる筈だ。


「俺は大丈夫だ。さ、とりあえずここの物を探そう」


 ヒルマが何故か泣きそうな顔になっている。やせ我慢しているのはばれているのだろう。でもいい。こうやってしゃんと立っていかねば、この先ヒルマと対等ではいられない。


「な?」


 もう一度、ちゃんと笑った。ほら、ヒルマにならもう笑うことだって出来るんだ、そういう意味を込めて。


 泣きそうな青い目が近付いてきた。またひそひそ話だろうか。耳を少し寄せた。


 ヒルマの口がユサの口に軽く触れた。ユサが目を見開く。そのまま大きな身体に抱き締められた。大事なものを守るように、怖いものから覆い隠すかのように。


「え」


 それしか言えなかった。


 ヒルマの掠れた声が頭の後ろから聞こえる。


「ユサを守る守るって言って、俺の方が守られてるなあ。情けない」


 こいつ、やっぱり泣いてないだろうか。本当涙腺が弱い男だ。人のことで泣いてばかり。ユサにはまだ出来ない芸当だ。


「俺は別にお前のことを守ってるつもりはないけど、まあお前が情けないのは確かだな」


 ヒルマの首と無精髭しか見えない。胸の中でモゴモゴと言った。ヒルマが笑う振動が接触面から響いてきた。


「イカ、絶対一緒に捌こうな、ユサ」

「自分で捌けたら楽しいだろうしな」


 ゴホン、と奥から咳が聞こえてきた。離れた本棚の奥からアキが覗き込んでいた。表情は苛々していた。


「ほら、探そう。あいつ気が短いから怒ると面倒だぞ」

「そうか。残念な奴だな」

「はは、確かに」


 ヒルマの腕から開放された。先程キスをされたのは触れないことにした。そもそも偶然触っただけかもしれないし、それにまあ前に水を口移しもされたし、とすればヒルマと初めてという訳でもないし。そう、きっとたまたま触れただけだ、触れただけ。


 目を合わせないように光を追う。この棚だ。本棚に収められた本を目で追っていく。どれだ。どれから光が発せられている? 1冊の本を手に取った。パラパラとめくると、中に金属で出来た華奢な透かし模様のしおりが挟まっている。


 これだった。


 ぱっとヒルマの方を笑顔で見上げる。


「ヒルマ、これだ!」


 すぐ近くにヒルマの顔があった。また、今度は先程よりも長く長く、長いこと互いの口が触れた。突然のことに目を閉じる暇もなく呆然と前を見ていると、ヒルマの青い瞳が薄く開いて笑った。


 慌てて顔を離した。


「ひ、ひ、ヒルマっあのっ」

「消毒だよ消毒。これで俺の方が後だ」

「な、な、消毒ってそのっ」

「ユサ。まずは落ち着け」


 勝手にキスしてきた奴が勝手なことをのたまっている。びっくり、した。いきなりにも程があった。


 だからこれは仕返しだ。


 ヒルマの足を思い切り上からドン! と踏んでやった。痛くないのは分かっているが。


「ユサ、踏んでる」

「知ってる、これはわざとだ」

「本当つれないんだから」


 いつものにへらとした表情をして見せた。もう泣きそうにはなっていなかった。今度はユサが膨れた。


「お前がいきなりあんなことするからだろ」

「じゃあ次から前もって言ってからする」

「そういう問題じゃねえ」

「だって1回目はしても何も言わなかったじゃないか。だからああしてもいいんだなと思って。はは」


 はは、じゃねえ。そう思ったが不毛なやり取りになりそうだったので止めた。栞をヒルマに手渡した。ヒルマがしっかりと受け取る。


「ありがとう、ユサ」

「ふん、俺だって役に立つだろ?」

「勿論だ」


 ヒルマの大きな手がユサの頭をわしゃわしゃと撫でた。


「ユサは最高の相棒だよ」


 ユサは返事はしなかった。だけど、胸の奥から込み上げてくる温かさがユサの顔に笑顔を浮かばせた。


 本棚の奥から再びアキが顔を見せた。ユサの顔に浮かぶはにかんだ笑顔を見て、おのれの顔を歪ませる。


「……もういいですか?」

「ああ、もうここに用はねえ」


 探し物のひとつは無事に見つかった。残るはもうひとつ。ユサが一歩進もうとすると、ヒルマが庇うようにユサの前に立ちアキを睨みつけながら低い声で言った。


「もう裏切るなよ。――次にユサを泣かせたらただで済むと思うな」


 ユサはヒルマの背中を見上げた。ヒルマの声色にふざけたものは一切感じられなかった。やはりヒルマはアキに対しまだ怒っているのだ。ユサを裏切り泣かせた昔の男を、ヒルマは全く信用していない。


「勿論です」


 アキは短く返答した。くるりと方向転換をして出口に向かい、先頭を歩き出す。


「皇子は8階の来賓室に宿泊しております。警護の者が数名おりますが、室内には入れておりません。話す機会は十分にあるでしょう」

「俺も一緒に会うからな」


 ヒルマの言葉に、アキは軽く頷いた。


「貴方が同席された方がご夫婦という説得力も増すでしょう」

「説得力も何も、実際に夫婦だからな」


 嘘もここまで堂々とつけば段々と真実味を帯びてくるものなのだな、とユサは自分のことながら関心しつつふたりのやりとりを聞いていた。


 もうヒルマと夫婦と言われても殆ど違和感がなくなってきている。このまま違和感がなくなってしまったらそのまま気が付いたら夫婦になっていたなんていう可能性もあるのでは、と頭の片隅で想像してしまい、ユサは思わず頭をぶんぶんと横に振ってその考えをすぐに追い出した。いやいやいや、いくらアキを殺していなかったからといって、すぐに人を好きになったりするのは違う筈だ。それに相手はヒルマだ。こいつは相棒だ、相棒。


「ユサ、大丈夫か?」


 頭を振りすぎて少しふらついたユサの腰に手を回して、ヒルマはユサを支え始めた。心配顔をしている。


「だ、大丈夫だ。何でもない」

「無理はするなよ」

「ああ」


 話し声が気になったのかアキがふたりを振り返り、ユサの腰に回されたヒルマの手を見てまたこめかみをピクリとさせた。


「ここは城の内部ですので、あまり大っぴらにいちゃつかないでいただけませんか」

「夫が妻を支えるのに何の問題がある」

「……ユサは何でこんなのが」

「何か言ったか?」

「……いいえ」


 ブツブツ言いながら、アキは先程通った男の前を通り過ぎた。軽く手で挨拶をすると男が会釈で返した。通路に出るとユサとヒルマに向き直り、上を指差す。


「いいですか、この先は一般庶民の立ち入りは禁止されている領域となっています。通路部分だけは登れますが、見咎められると面倒なので騒がないようにお願いします」

「分かった」


 ユサが頷いた。無駄に騒ぐのは大体ヒルマだ。なので、ヒルマを見上げて言った。


「分かったか?」

「おう」

「よし。――じゃあ行こう」


 ユサはアキの進む方に一歩踏み出した。


 ヒルマの欠けたものを手に入れる為に、そしてこれまでずっとユサを縛り付けていた元凶、それから開放される為に。

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