第24話 宵闇

 大きな影と小さな影が、篝火かがりびの灯りと月の光が当たらない闇の中でヒソヒソと話している。


「もう今すぐ飲み込むか?」


 中指の指輪を名残惜しそうに見つめながらユサが聞いた。


 ヒルマは首を横に振る。目の上にかかる青黒い前髪が邪魔そうに揺れた。


「いや。明日、日が沈んでから飲むからまだユサが持ってていいぞ」

「日が沈んでから? 何でだ?」


 何か制約でもあるのか。ユサはヒルマにもう少し近寄って耳を近づけた。


 こいつには相手を害そうなどという考えがそもそもないのだろう。それに気付いてからは、大分ヒルマのことは怖くなくなってきた。


 かと言ってくっつきたいかというとこんなむさ苦しい男にベタベタ触られたくはない。まあ、この距離までが限度だろう、ユサはそう自分の中で線を引いた。


 ここまでなら、もう大丈夫。なんだ、自分だって少しは成長してるじゃないか、そう思えてちょっとだけ嬉しくなった。


「この石の光が一番はっきり見える宵闇の時間に飲むと一番効果ありそうだから。今まで何となくそうしてた」


 ヒルマが頭をぼりぼりと掻いて爪の間のフケを横にふっと拭いた。やはり汚い。


「ヒルマも風呂に入れば良かったのに」

「そんな暇なかっただろうが」


 ヒルマはそう言って、大きな欠伸をして首をこきこきと鳴らした。


「朝までここで待つか。ユサ、寝ていいぞ。俺はまあ、寝たし」

「髪引っ張られても寝てたもんな」


 ユサが呆れて笑う。ヒルマが欠伸で滲んだ涙を手で拭った。


「風呂の前で待ってたら、いきなり何か布みたいので口と鼻を押さえられてな。起きたらもうユサの前だったんだ。仕方ないだろ」

「そもそも飲み過ぎなんだよ」


 ユサはヒルマがカパカパと酒を飲んでいた姿を思い出しながら言った。起きれなかった原因は酔いもあるんじゃないか。


「あれももしかしたら何か入ってたのかもしれないなあ」


 ヒルマがのんびりと言う。


「何呑気に言ってんだよ。味で分かんなかったのか?」

「味覚がないからな」

「は? お前旨そうに酒飲んでたじゃねえか」


 それとも、美味しそうに酒を飲んでいた気がしていたのはユサの見間違いだったのだろうか。あまりにも美味しそうだったから、ユサもつい真似て飲み干してしまったのに。


 その後のことはもう思い出したくなかった。


「嗅覚はあるからな。匂いで何となく味を想像して飲んでたが、さすがに苦味とかそういう細かいのは分からん」

「匂いだけで美味しくなるもんなのか?」

「ないよりはマシ。その程度だ」

「ふーん」


 正直よく分からなかったが、こればかりは経験してみないと理解出来ないと思ったので相槌を打つだけで済ませた。


「さ、もう寝とけ。寄りかかってもいいぞ」


 そう言って、鞄からユサの外套を取り出してユサに手渡した。ユサは外套を受け取ると羽織り、胡座をかいて座ったままのヒルマを見た。


 確かに地面にそのまま寝るのは抵抗があったが、ヒルマの正面にも横にも寄りかかりたくはない。でもまあ背中位ならいいかもしれない。


「じゃあ背中貸せ」

「おう」


 ヒルマは素直にユサに背中を向けた。ユサはヒルマの背中にもたれ掛かかると、膝を引き寄せて目を瞑った。


 少し前までこいつの元からどうやって逃げてやろうかなんて考えてたのに、縁とは不思議なものだ。

 


 それに、あんなに笑ったことなんて今まで一度たりとあっただろうか。



 ユサは、自分の中に何か新しいものが確実に生まれつつあることを感じていた。







「ユサー朝だぞー起きろー」


 間延びしたヒルマの声が聞こえる。


「ユサー、おーい。お前本当寝起き悪いなあ」


 大きな手がユサの肩を掴んで揺さぶる。頭がガクンガクンした。瞼の向こうは明るい。


「ユサ、起きろって。人が来るから」

「……まだ寝る」


 酒を飲んでひっくり返った後に寝るには寝たが、二日酔いに久々の大量の食事に更に風呂まで入って、最後にはあの騒動。元々体力のないユサにはかなり過酷な1日だった。


 従って、眠い。目はどう頑張っても開こうとしてくれない。


「ユサーおーい」


 ヒルマがもう一度ユサの肩を揺さぶった。頭が前にガクンと振られ、ヒルマの鎖骨かどこかだろう、骨にガン! と額が当たった。閉じた目の中にチカチカと星がまたたく。


「痛え……」


 目がようやく開いたが、額がジンジンする。目の前には呆れ顔のヒルマがいた。


「ほら、起きろ。何か朝飯食おう。な?」

「……食う」


 ユサがあふ、と欠伸をすると、ヒルマが笑顔でユサの頭をわしゃわしゃと撫でた。


「よーし、じゃあ行こうか」


 ユサが手を振り払おうとしたが、その前にヒルマの手はさっと離れていってしまった。ユサがちっと舌打ちをする。


 立ち上がったヒルマが、鞄を背負いながら口角を下げてユサを見下ろした。


「何で舌打ち?」

「俺は犬じゃねえぞ」

「? そりゃそーだ」


 ほら、とヒルマが手を差し出したので、ユサはそれを掴んで立ち上がったついでにヒルマのすねをつま先で蹴った。ヒルマがびっくりしてユサに抗議してきた。


「ちょっとちょっと」

「仕返しだ」

「何でだよ。何もしてないだろ」


 ヒルマが一歩歩き出す。ユサはその後を追った。


「犬みたいな扱いすんな」

「あー、これ?」


 ヒルマがユサを振り返ると、笑いながらまたユサの頭をわしゃわしゃと撫でた。ユサは今度こそヒルマの手を振り払った。


 大市場はすでに人がチラホラ起きてきていて、あちらこちらから美味しそうな匂いが漂ってきていた。


「だからやるなよ! 対等にするって契約で決めただろ!」

「別に犬だと思ってる訳じゃないんだけど」

「どうだか」


 ふん、とユサが怒った顔をすると、ヒルマはそんなユサを見てくすりと笑った。


「何だよ」


 ユサがぶすっとして尋ねる。


 ヒルマはニヤニヤしている。なにがそんなに可笑しいのか。


「ほんっっと寝起き悪いなユサ。次から気をつけよう」

「うるせえな」


 一歩前を行くヒルマのふくらはぎに蹴りを入れた。ヒルマの、情けない顔。


「前からも後ろからも……いつもそうなのか?」

「蹴る相手なんざいなかったよ。お前だからだ。いいだろ蹴ったってどうせ痛くねえんだから」

「ふーん?」


 またニヤニヤ笑いだ。蹴られて笑う心理はよく分からないが、蹴ったのはユサだ。もうこの話題はやめようと思った。


「で、朝飯ってどこで食えるんだ?」

「その前に、俺らは多分お尋ね者だ。特にユサのその髪の色は目立つと思うから、頭に何か被らないと」


 そう言うとヒルマはスカーフだろうか、綺麗な青の布をピラピラとしてみせた。


「どうしたそれ?」

「今さっきそこで」


 ユサが後ろを振り返ると、台の上に今正に商品を並べている最中の出店があった。綺麗なスカーフが沢山並べられている。


「お前って不器用な癖にそれは得意だよな」


 ユサが感心すると、ヒルマは納得がいかないのかぶつぶつ言い始めた。


「不器用なつもりはないんだけど。大体ユサは俺のことをちょっと馬鹿にしすぎじゃないか? 昨日のことはそもそもはユサが原因じゃないか」

「眠らされたのは誰だ」

「……俺です」


 ヒルマが黙った。無言でスカーフをユサに渡してきたので、ユサはそれを髪を隠すように頭に巻いた。


 ヒルマを呼ぶ。


「これで隠せたか?」

「……おう。いいんじゃないか?」


 ヒルマがまたあの眩しそうな目でユサを見た。その意味はユサには分からない。分からないが、まあ悪いもんでもないだろう。


 そう判断して、ユサは気合いを入れた。


「よし! 食うぞ!」

「はは、食え食え」


 頭に伸びてきたヒルマの手をさっと躱し、ユサは一歩前に出てヒルマを振り返った。


「ほら行くぜヒルマ! 早くしろ!」


 前に向き直って走り出したユサを、ヒルマは温かい目で見ていた。

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