第22話 朱姫

 リンが楽しそうに笑う。


 本当に胸糞が悪くなる位性格が腐った奴だ。腐りすぎて真っ黒な液体になってるんじゃないか。リンの後ろ姿を顔を床に押し付けられながら見て思った。


 そういやヒルマの中身も黒かったが、匂いはしなかった。だとすると、少なくともヒルマの中身は腐ってはいないということだろうか。


「本当にご存知なかったんですか?それはお可哀そうに」


 ヒルマをユサの夫と信じ切っているリンが、嘲笑しながらヒルマの髪の毛を更に引っ張った。


「あんま引っ張るなよ。髪が抜けるだろ」


 ヒルマが口を尖らせて抗議する。拘束されてる割には偉そうな態度だった。やはりいまいち状況を把握してないのかもしれない。


「強がりを」


 リンはヒルマが痛みを我慢していると思っているらしい。まあ普通はそう考えるだろうが、ヒルマは痛くない。ただ頭皮が引っ張られているのを感じているだけだろう。


 従って、話は噛み合わない。ヒルマは何でもないかのように続けた。実際何でもない。


「それで? 意外だったけど」

「それで……。貴方は気にならないんですか? 紅国こうこくの皇子ですよ?」


 リンはヒルマの髪を掴んだまま驚いている。そこは離す気はないらしい。


「まあ、別に」


 あっさりと返すヒルマに、リンがもう一度溜息をついた。ユサもその気持ちは理解出来た。ヒルマは大して何も気にしない。何故なら考えないからだ。まだ少しの間しか一緒に過ごしていないが、ユサは痛い程それを理解していた。


「く……くくくっヒルマらしい……ふふ」


 背中に人が乗って押さえつけられているというのに、思わず笑ってしまった。笑いを堪えられなかった。こんなに楽しいのはいつぶりだろうか? もう記憶にない。


「お、ユサが笑った」


 ヒルマの不思議な青い瞳が笑いかけた。リンが苛々しているのが見て取れたが、勿論そんなことを気にするヒルマではない。それがまた可笑しくて、ユサの笑いが止まらなくなってしまった。苦しい。可笑しくて苦しい。


「貴方達、今のこの状況をお分かりですか?」


 リンの怒りを含んだ声色もユサの笑いを止めることは出来なかった。背中の上の黒装束の老人が戸惑っているのが感じられた。頭のおかしい奴だと思われているのかもしれなかった。


「あははは……! ちょ、ちょっと待て、笑いが……ふふふふふ」

「楽しそうだなユサ」


 ヒルマもにこにこする。リンがヒルマの髪から手を離した。無駄だと悟ったらしい。


「お、ようやく離したな。禿げたらどう責任取るんだよ」

「問題ありません。貴方にはこれから死んでいただきますから」

「何で死ななきゃならないんだ?」

「……ですから、それを先程からお話ししようとしていたんですが」


 苛ついた表情のリンが、ユサの上にいる爺さんを振り返った。首をくいっと上げると、爺さんがユサの手首を後ろで縛り始めた。また拘束だ。これ痛いんだよなと、まだヒイヒイ言いながら笑っているユサは思った。爺さんがユサの上からどき、拘束された手を引っ張って立たせた。


 ようやく笑いが治まってきた。笑い過ぎて涙が滲んでいるが拭けない。目尻から少し流れた。


「落ち着かれましたか」


 リンが呆れたようにユサを見た。ユサの方に近づいてくる。


 ユサの顎を人差し指でくい、と持ち上げてユサの目を覗いてきた。ユサの顔が歪むが、リンは気にしていないようだった。まるで物を品定めするかのような目付きだった。


「この水色の瞳は忘れられません。美しい色だな、と思ったものです」

「くそったれが」


 顎に触れる指が気色悪い。噛みついて引きちぎってやろうか。そんなことを考えた。


「またそのような悪態を。赤の長い髪が大層美しかったのに、何故こんな男みたいにされてしまったのです? 勿体のない」

「それ可愛いじゃないか」


 横からヒルマが口を挟んできたが、リンは無視した。一切反応を示さない見事な無視であった。


「私達翠国すいこく紅国こうこくとは仲良くしておりましてね。紅国こうこくの皇子がご執心の寵姫ちょうきがある日突然姿をくらました話は伺っていましたが、まさかこの国におられるとは驚きました」


 ヒルマが欠伸をするのが見えた。あまり興味がないらしい。ユサの口の端が上がってしまい、リンが冷めた目でヒルマを振り返り、すぐに視線をユサに戻した。


朱姫あけひめ、貴女には価値があるんですよ。お分かりですか?」

「だから朱姫あけひめなんかじゃねえっつってんだろうが」


 リンが鼻で笑った。ユサの顔を近くから覗き込む。


「私はですね朱姫あけひめ。美しい女性は一度見たら忘れないんです。貴女のその宝石のような水色の瞳があまりにも印象的でよく覚えているんですよ。燃え盛る炎のような赤い髪の中に浮かぶ氷のようだと思いました」


 まるで詩人のような台詞だが、ユサには変態の戯言にしか聞こえなかった。反吐が出そうだった。背筋がゾワゾワする。


「いっぺん死んどけ」

「遠慮しておきます。貴女、本当に今の状況がお分かりですか?」


 にっこりと笑い、リンがユサの顎から指を離した。


紅国こうこくの皇子に貴女をお返ししたら、皇子はきっと大層喜ばれますでしょうね」

「そんなの知るかよ」

「おや、ご存知ない? 貴女が行方を晦ましてどれ位でしたか? 2年程でしょうか。その間も皇子は貴女を探し続けていますよ」


 女のケツを2年も追いかけているとはご苦労なことだ。ユサの心に重いものが乗っかってきた。忘れたい過去が、今でも忘れるなとユサの上にのしかかってくる。


「なんか随分とねちっこい男なんだな、その皇子ってのは」


 ヒルマが言った。確かにねちっこいかもしれない。一国の皇子がひとりの女をいつまでも追いかけてそれを他国に知られているなど、国の恥でしかないだろうに。


「貴方も口が減らないですね。分かってますか? 朱姫あけひめ紅国こうこくの皇子にお返しするということは、貴方はもうお役御免ということです」

「それは困るなあ」


 ヒルマが呑気に答えるが、リンの苛々がいい加減頂点に達したらしい。ヒルマを抱える黒装束ふたりに顎で指示をした。


「消せ」

「おい、ちょっと待て……あれ?」


 両腕を身体の後ろに捻られ、本来であれば苦痛で叫ぶであろう体勢になったヒルマだったが、なんせ痛くない。力を入れて捻り返そうとしていると、ヒルマの視線がユサの奥に移動した。


「ルーシェ」


 リンとユサ、ついでにユサの後ろにいる黒装束の爺さんもバッと振り返ると、確かにそこにはルーシェが立っていた。ヒルマの鞄を両手に抱え、可愛い顔を恐怖で歪ませている。信じられないものを見るように、リンとユサを見比べていた。


「お父さん……? ユサお姉ちゃんに何してるの?」

「俺もなんだけど」


 ヒルマが抗議するが、ルーシェは聞こえないのか返事はなかった。やはり徹底している。


 リンが顔を歪ませた。


「寝てる筈じゃなかったのか? それにその荷物はなんだ」


 父親の厳しい口調に、リンが怯えたような顔をして答えた。時折ちら、とユサを見る目は困惑していた。


「ユサお姉ちゃんが部屋に戻らないから、僕、どこかに行っちゃったのかなって客間に行ったらこの鞄が置いたまんまだったから、まだいると思って」


 鞄を持って探しにきて、今のこの光景を目にしてしまったということか。ユサはルーシェを今すぐにでも抱き締めてやりたいと思った。その目を覆って、何でもないと言ってやりたかった。


 父親が明らかにおかしなことをしようとしている。それを目の当たりにして、冷静でいられる子供がいようか。


「ルーシェ、ユサさんはお隣の国の偉い方なんだ。この男に騙されてここにいるんだよ」

「いや、騙してないけど」


 ヒルマの言葉はまたもや無視される。あまりにも話を聞いてもらえないからか、段々顔が不貞腐れてきていた。


 ユサはルーシェに話しかけた。


「ルーシェ、俺は自分の意思でここにいる」


 泣きそうになっているルーシェがユサを見た。ルーシェにユサの言葉は届くだろうか。


「俺はお前を信じてる。お前はこうはなるな。ちゃんと自分で考えて、自分が正しいと思う道を進め」

「こうなるなとは失礼ですね」


 今度はユサが無視した。今この男の言葉はこの場には不要だった。ユサをじっと見つめるルーシェの心に刻まれるように、きちんと届けたかった。


「お前はいい奴だ。俺なんかに懐いてくれて、俺がどれだけ嬉しかったか分かるか?」


 ルーシェの大きな純粋な瞳から涙がボロボロと流れた。ひく、ひくと泣きじゃくる。


「自信を持て、ルーシェ。お前はお前でいい」


 こくこくと頷くルーシェを確認して、ユサは相棒を振り返った。


「ほら、何してる。さっさと行くぞ」

「はいはい。仕方ないもんな」


 ヒルマの欠けた物の探索は出来なかったが、この状況ではもう出来まい。であればさっさと逃げた方がいいだろう。幸い、鞄もここにある。


「ルーシェ、またな」

「うう、ユサお姉ちゃん」

「お前はいい男になれよ」

「……うん」


 ユサは微笑んだ。


 リンが呆れたようにユサに向かって言う。


「逃げられるとお思いですか? この男は消す、と先程言った筈ですが」


 ユサがフン、と鼻で笑った。


「お前には出来ねえよ! 来い、ヒルマ!」

「おう!」


 ヒルマが黒装束達の手を思いきり振りほどき、片方の腹を蹴って吹っ飛ばした。


「やれ!」


 リンが叫ぶ。もう片方の黒装束が小さな鋭そうな刃物を取り出してヒルマの脇腹を裂いた。


「あーあ、服破いちゃって」


 切れた服の裂け目から黒い染みが溢れ出す。リンが目を見張る。ヒルマは自分を切った黒装束も思いきり蹴飛ばすと、立ちすくむリンを突き飛ばしてユサの方に走り出した。ユサは自分の手を掴んでいる黒装束に向けて言った。


「爺さん、ルーシェを頼むぞ」

「……!」


 手が緩んだ。そうだと思った。この爺さんはルーシェのことを大事に思っているのだ。


 次いでルーシェを見る。


「ルーシェ、鞄!」

「あ! は、はい!」


 走ってきたヒルマがユサの腰を掴み肩に乗せ、ルーシェが掲げる鞄を引っ掴んだ。一気にスピードを上げる。


「約束だぞルーシェ!」

「うん! 必ず!」


 一瞬でルーシェが見えなくなった。


「ユサ、頭下げてろよ!」

「はは! 分かってるよ!」


 天幕を出た。ヒルマがユサを少し前にずらし、鞄を背負ってユサを両手で抱え直した。ヒルマと目が合った。目が笑っていた。


「とりあえず外れまで行くか」

「任せるよ」


 ユサも笑い返した。


 ちゃんと伝えた。ちゃんと伝わった。それが、嬉しかった。

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