仮面の下に、淀んだ心。雪降る夜に、きっと君は来ない。
空山 零句
第1話 「灰色」
※
Prologue
あの日の事を、私は今でも覚えている。
あの夜。私の肩にぶつかったあの人は、真っ直ぐにただ誰かを目指していた。
ひどく印象的だったのは、かなしいくらいその人が泣きそうな表情をしていたということ。
その時に、気が付いた。
あれはきっと私に対しての表情じゃない、と。
私より少し年上だったのであろうあの女の人には───あの女の人にも────きっと。
こんな雪降る夜の中でも、
どうしようもなく会いたくて仕方がない人がいたのだと、そう直感的に分かった。
ごめんなさい、ごめんなさい。
そういってくるりと駆け出したあの人はちゃんと、会いたいと願った相手に、出会う事は出来たのだろうか。
もしかしたらこれは、ただの思い込みなのかもしれない。でも、多分だけどこれは当たってる気がしたのだ。
でももし仮にそうであってくれたならばどんなにか、と思う。
どんなにか、救いがあるだろうか。
この残酷な世界の中でも、せめてそれくらいの救いは在ってくれてもいいはずだと、そう強く思う。
願わくばどうか、出会うことが出来ていますように。
頬に触れる冷たい風の中、私は胸の中でそう祈りを込める。
私があの人に出会う事がまだ出来ていないからこそ。
彼女が、どうか会いたいと願う人に会いに行けますようにと。
そう、「彼」の事を思い出しながら、
名も知らない────街の灯の中へ消えていったあの人の背中を眺めた。
_________
雪降る夜に、きっと君は来ない。
◇
空は灰色に澱んでいる。それは彼にとってはもはや見慣れた空だ。
今にも雨が降りそうな光景。
それは少年にとって
どうしようもなく、自分の様な人間には分相応な空だと、彼は思う。
教室の中は、黒板の前で授業をしている男性教師のチョークの音が不規則に響く。
『えーー、2019年度より大流行した新型ウイルスがキッカケになった事件は知ってるな? ここ、テストに出すぞー』
白い文字が黒板に書き記されていくほどに、
退屈だった。それはどうしようもないほどに。
言うならばそれは、毎日毎日似たような授業を受け、鼓膜にこびり付くまでチョークの不規則な音を聞き続けるこの時間が。
『そんなもん誰でも知ってるっつうの』
教師にバレないようにひそひそ話をするクラスメイトの女子達の
『つうかさ、……思ってたんだけどありえなく無い? なに「恋愛自粛令」って。自粛とか草』
『ねー。少子化進ませたいの? って感じ』
『国会で誰がそんなこと考えたん?』
『さぁ』
退屈に耐えかねてか。古びた教室机にノート越しに突っ伏した男子達の、小さないびきが聞こえる。
『まず異例の条例に関しては君達も知ってるとは思うが、20歳以下の男女のみが共通して感染している「特異型コロナウイルス」が原因とされているものだ』
『このウイルスは致死性・感染率も従来のインフルエンザやコロナウイルスに比べ桁違いに高いことは周知の通りだと思う』
『……………おいそこ、聞こえてるぞ。黙ってノートを書きなさい』
『吉原! お前また寝てんな、起きろ!』
やがて彼は窓の向こうの曇り空を眺めながら考える。それは、普段から思う事だ。
どうでもいい。
朝起きてから顔を洗う時、鏡を見て思う事。登校時、変わらない景色を見つめて、溜め息をつく度に冷たい空気の流れに飲み込まれていく白い煙を眺めながら思う事。
自分の様な人間が、
かつて全てを諦めた自分にとっては、これから先ただ
『ったく……続けるぞ。このウイルスはあれから二年が過ぎた今でもなおワクチンの接種は進んでいない』
『それどころか、ここからが本題だが……別冊新規資料107ページを開いてくれ』
『この「特異型コロナウイルス」は共通として、先程伝えた通り何故か「20歳以下の男女にのみ」しか感染しない』
『故に、政府は緊急事態のやむを得ないとして「20歳以下の男女の県をまたぐ移動の自粛」「公な場における20歳以下の男女の恋愛の自粛」を出した訳だが………』
政治経済の教師が、黒板の文字を書き終え、寝ている生徒を大声で起こしている中、それをまるで他人事のように見つめた。
そこに興味など無い。故に彼の瞳には、景色は映っていなかった。
今にもこの空間を飛び出していけたならば。唐突に、そんな事を思う。
それはきっとどんなにか、と。
どんなにか幸せなんだろう。
どんなにか楽なのだろう、と。
消しゴムが袖に引っかかり、机の上から落ちる。地球の中にある、心までも強くつよく引っ張る力に従って、それは緩やかに落ちていく。
涼太は屈みこみ、手を伸ばす。重力がまとわりつくかのように身体が重く感じる。気持ち悪くなってくる。
――――あぁ、頼む。早く、と願う。
彼女の姿を見る事が出来ないのであればこんな席になんて居たくない、終わってくれ、と思う。
瞬間。カチリ、と針の音を確かに聞く。
リズムの良い、それはまるで天使の祝福のような鐘が鳴り響いた。
「お、そうか……今日は普段より5分早い日だったな」 と名前も覚えていない男の教師は
「……まだ話の途中だが、続きは明後日にしようか。この話はできれば君達にはしっかりと伝えたい。今を生きる君達には、特にな」
そして「さて今日はここまでだ、課題のプリントを出すから、次の授業までにやっていくこと」と、彼はやけに手作り感のある穴埋め式の課題プリントを前の席の生徒に列ごとに配り、授業の終わりを告げる挨拶を行った。
終わった。やっと終わった。
ようやく涼太は、肺の奥の奥からドッと溜息を漏らしながら腕の上に顔を埋めた。どこか別の世界の出来事のように聞いていた授業の時間。
それらから解放されるや否や、耳の奥へと現実味のある教室の
クラスにおいて、所謂ヒエラルキーの高い男子達は掃除が始まる直前のこの休み時間に、耳障りな騒ぎ声を毎回挙げる。うるせぇよ黙れ、と苛つく気持ちを抑え込む。
だが、そんな中、ある1人の少女の声だけは―――涼太の耳には、はっきりと届いた。
「え、今度のクリスマス?」
長い事椅子の上に座っていて凝り固まった筋肉をほぐしているのか。 それは、四人の女子のグループと話しながら、窓際で小さく伸びをしている少女の声だった。
その少女の前には、やけに身長が高くて短髪の、見た所スポーツ系女子のような図体をしたクラスメイトが居る。やたらとテンション高めな様子で彼女はその少女へ話し掛けた。
「そうそー、あたしらさ、クリパやろーとか思ってんのよ!」
「男女だと周りからの目とかうるさいけどー、女子同士なら問題無いわけだしさ」
「
窓際から離れた距離の席に座る涼太は、埋めていた腕の隙間から、その様子を
「…………………………」
絶句した。
目を見開く。やがてその様子から、逸らす。確信を持つ。
―――あの笑顔は、知っているものだ。
涼太は彼女達に会話を聞かれていたことを悟られないため、再び顔を腕の中に埋める。
だか彼女の心境だけはどうにも気になってしまう。やがて耳を傾けずにはいられず、聴こえずに眠っている振りを重ねた。
「ねぇねぇ
「そこはほら、公平にジャンケンでいーじゃん」
「さんせぇー!」
先程玲菜に話しかけた遥子というクラスメイトは、制服を着崩し、セミロングほどの髪の毛を巻いた少女―――確か、
その中には、ショートの髪型でおっとりとした雰囲気が滲み出た
その女子達は涼太のクラスの中でも
彼女達の名前は、クラス全体にまで響き渡る程けたたましい笑い声と会話によって否が応でも話の内容が入ってくる。とにかく目にも、耳にも彼女達の存在が望みもしないのに入り込む。
彼にとってそれらの情報に対して価値など無く、
だと言うのに、肝心な『少女』の事よりもその女子達の方が目立つ。それがまたひとつ、彼を苛立たせる。
その時、再びチャイムが鳴った。
掃除時間の始まりを告げる校内放送が、彼の鼓膜を再び揺らす。
はぁ、またこれか。溜め息を思わず小さくつく。
だが自らを納得させるように、重い体を引きずるように、涼太は椅子から立ち上がった。
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