ゼリーフィッシュは漂わない
ゼリーの中に入るみたいだよな、といつも思う。
空調の効いた図書館の空気は自動ドアが開いたくらいではちっとも漏れ出してこなくて、ぼくは今日も熱気と冷気の境目をぬるりと通り抜ける。
外ではちっとも蒸発してくれなかった背中の汗が悪寒みたいな冷たい筋を作って消えていった。
忘れられた傘ばかりの置きっぱなしの傘立て、多目的トイレの入口、注意書きの看板。
横目に流し見ながら通り過ぎて、常に適温適湿に保たれている、本が支配する神聖な空間に入り込む。
新着図書、司書のおすすめ展示、メディアルーム。
すたすたと迷いなく歩いてぼくは自習室のドアに手をかける。田舎の忘れら去られた図書館の自習室を使うような物好きは、ぼくともうひとり――。
「あら、また君ね」
「うん」
同じ高校の同級生、
彼女が読んでいた本に視線を戻すのを待たずに、ぼくは彼女のはす向かいに座る。鞄から参考書を取り出しながら、彼女は余裕で行きたい大学に行けちゃうんだろうな、などと考えた。
学年一頭がいいと評判の彼女はしかしそれでは不満なようで、何をそんなに熱心に知りたがっているのか、いつもいつもここで難しそうな本を読んでいる。勉強をしているところは見たことがないから、宿題とかは家でやってしまうのだろう。
「ねえ、君はどうして毎日ここに来るの」
勉強にも飽きてきた頃。彼女も集中が切れたのか珍しくぼくに話しかけてきた。しかし話題が話題でぼくは言葉に詰まってしまう。
きみに興味があるから、なんて、とてもじゃないが言えるわけがない。
「……そっちは」
「私?」
「うん。ぼくはご覧の通り勉強に追われているけど、きみはその様子がない」
「まだやる必要性を感じないからね」
彼女らしいな。という呟きは胸の内に留めておいて、ぼくは彼女を見つめる。染めていないらしいけど彼女は全体的に色素がちょっと薄めだ。茶色の瞳がひとつ瞬いた。
「そうね……勉強に追われてはいないけど、人生に追われてはいるから、かな」
次はぼくが瞬く番だった。人生に追われている?
「私の名前ってつなげると海・月でしょう」
「うん?」
「海・月でクラゲって読むの。でも私はクラゲが嫌いで」
「えっと、」
「ふわふわ漂っているだけなんだもの。でも私は流されて生きていたくないし、生きていられない」
珍しく饒舌で意味が伝わりにくい彼女の言葉にぼくがまごついていると、彼女は手にしていた本をとんとんと指の背で叩いた。
「考えることが止まらないし、止めたくないの。そして考えるためには知識がいくらあっても足りない。だから」
ぼくがぽかんとしているのに気付いたように彼女がはたと口を閉ざす。
「……話しすぎたわね」
「ぼくはかまわないよ。わからないなりにきみのことが知れて嬉しい」
本音がこぼれたのは彼女の本気にあてられたせいかもしれない。彼女は不思議そうに首を傾げた。
「それなら……いいけど」
少し彼女が照れているように感じたのは、ぼくの都合のいい勘違いかもしれないから言及しないでおこう。
そうしてまたいつも通りの沈黙が流れる。彼女が本に目を落としたのでぼくも参考書のページをめくった。
気付けば閉館時間が近付いて、のどかな音楽が館内を満たしていた。ぼくたちはどちらからともなく帰り支度を始める。
消しゴムのかすを自習室の外のゴミ箱に捨てて戻ってきたら、彼女が鞄を持ってたたずんでいた。
「帰らないの」
「一緒に帰りましょう」
「え」
「結局君の話を聞けていないことを思い出したから」
「……わかった」
ぼくたちは並んで自動ドアをくぐり、熱気に包まれる。まだ暮れきらない夕陽で空は赤く染まっていて、気の早い月が東の空に顔を覗かせていた。
冷気のゼリーの中で、クラゲの名前をもつ彼女は知識の海を泳ぐ。流されて漂うのではなくて、自分の力で前に進もうとしている。
かっこいい、なあ。
暑い夏の日、ぼくは憧れの少女への想いをさらに強くしたのであった。
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