追憶の水底へ……

武州人也

第1話 帰郷

 あれは、陽射しの眩しい初夏の記憶――


 隣の家に回覧板を届けるために、私は一人で道を歩いていた。左右に広がる耕作放棄地の雑草は青々と茂っていて、時折小鳥が降りてきては何かをついばんでいる。隣家といっても田舎なものだから、それなりの距離を歩かないとたどり着かない。


 ふと、前方に人だかりを見つけた。大人たちが集まって、何やら騒いでいる。あそこは、確かがある場所だ――


 なまず池というのは、湖とも見紛う大きな池で、ナマズがやたら多いことからその名で呼ばれるようになったらしい。池のナマズは江戸時代に食用目的で持ち込まれて池に放されたのだそうだ。

 そんな名物池であるが、迷信深いごく一部の老人は「あの池にはヌシがいる。もし池で粗相そそうをすれば三代に渡って祟られる」といって、池には全く近づこうとしなかった。しかし、若い世代や子どもたちにとってそのような話は逆効果であったらしい。寧ろ大きい獲物がいると評判になって、冬が開けると池には釣り人が集まってくる始末だ。なまず池におどろおどろしい印象を抱く地元民は少なく、池には皆親しみをもっていた。

 なまず池には、私もさつきくんとよく遊びに来ていた。皐くんというのは私の幼馴染の男の子で、女の子の遊びにあんまり興味がなかった私はもっぱら彼と野山を駆け回っていた。

 いつのことだったか……近くの用水路でウシガエルを釣った皐くんは「こいつを餌にすればもっと大きい魚が釣れるかも」といって、カエルを餌になまず池で釣りを始めた。すると程なくして、皐くんは大きな手ごたえを感じたようだった。

 皐くんが釣り上げたのは、私たちの背丈とそう変わらないぐらい大きな体をしたナマズだった。皐くんがびびっている隙に、ナマズはさっと池に飛び込んで、そのまま泳ぎ去ってしまった。思えば、流石にそんなサイズのナマズがいるはずはないから、きっと驚きのあまり実体以上に大きく見えてしまったのだろう。

 

「ああ、確か嬢ちゃんは白石さんの……」


 その人だかりの中に、回覧板を届ける先のおばさんもいた。声をかけてきたおばさんは、沈痛な面持ちで私を見つめている。


「皐くんが池に落ちたんだって。皆で探してるんだけど見つからなくて……」


 それを聞いた私は、頭を思い切り殴られたかのような衝撃を覚えた。もう、居ても立っても居られない……気づいた時には、私は回覧板をほうって走り出し、大人たちの中に突進していた。


「嬢ちゃん、危ないから近づくな。俺たちが今探してるんだから」


 大人たちが作った壁に阻まれた私は、ただ声をあげて泣くばかりだった。


***


 初夏の暑さにむせ返るゴールデンウィークの五月某日、私は彼氏の裕也を伴って、故郷の土を再び踏んだ。


 数年ぶりの故郷は、相変わらずの寂れ具合であった。駅前の商店街はシャッター通りで、出歩く人の姿も殆どない。そこから少し離れてしまえば、まばらに立つ古い民家を包囲するかのように雑草の茂る空地が広がっている。風に吹かれた枯れススキが垂れ穂をなびかせる様を見ていると、寂寥の念を禁じえない。

 隣の裕也を横目で見上げると、何だか気まずそうな半笑いを浮かべていた。私の故郷の有り様を見れば、誰だってこんな顔になる。私は却ってその表情に安心感さえ覚えた。

 私が久方ぶりに帰郷したのには理由がある。付き合い始めて二年私と裕也は結婚を決めており、その挨拶のためだ。

 そうして私たちは、「白石」という表札のある古い民家へとたどり着いた。私が生まれ育った実家だ。もうすぐ私の苗字は白石でなくなるのか……そんなことを考えながら、私は実家の門をくぐった。


明里あかりちゃんおかえり」


 母はにこにこ笑顔を浮かべながら、玄関で私たちを出迎えてくれた。裕也は控えめに微笑みながら、うやうやしく礼をした。懐かしい畳の匂いが、実家に帰ったという実感をより強めていく。

 母は私たちの長旅をねぎらって茶を出してくれた。さっきまで庭木の剪定をしていたらしい父は裕也の向かい側に座って、男同士たわいもない話をしている。

 裕也は思いの他早く、私の実家に溶け込んでいた。父も母も、彼に好感を持ってくれたようだ。


 談笑する父と裕也をよそに、私はこっそり家を抜け出た。向かった先は、あののほとりである。

 生まれ故郷がどれほど寂れても、なまず池は変わらずそこにある。「国破れて山河在り、城春にして草木深し」という詩を思い出して、私はしみじみと感じ入った。池の水面が揺れていたので見てみると、五、六十センチはありそうな立派なナマズが二匹重なり、その長い体をくねらせて交尾していた。

 私は池に向かって手を合わせた。哀悼の意を捧げる相手は、この池でわずか十二年の生涯を閉じてしまった皐くんである。


 皐くんは幼馴染であると同時に、私の初恋の相手でもあった。気の置けない遊び仲間であったはずの皐くんとは、小学校高学年に上がる頃には疎遠になりかかっていた。

 やんちゃな少年だった彼は、この頃になると誰もが羨む美少年へと成長を遂げた。「かっこいい」「かわいい」というよりは、「美しい」「綺麗」という誉め言葉がよく似合う、珍しい少年だった。

 彼に対して密かに想いを寄せていた女子は、一人や二人ではすまない。そんな彼に懸想けそうする女子の一人となった私は、気恥ずかしくなって彼から遠ざかってしまった。もう以前のような遊び仲間同士に戻るを、私は持っていなかった。

 彼もまた、同い年の男子とだけつるむようになっていて、すっかり私のことなど忘れてしまっていたようだった。結局のところ、収まるべきところに収まった、とでも言うべきか。幼い時分の麗しい友情は、成長とともに融けてなくなってしまったのである。

 そんなことをしている内に、彼は池に落ちてあっけなくこの世を去ってしまった。池に落ちた、というのは吉村という同級生の目撃証言であって、実際に落ちたところを見たわけではない。しかも池から死体はついぞ見つからなかったものだから、しばらくはどこかで彼が生きているかも知れないという淡い期待をしたものだった。けれどもそれもほんのしばらくの間のことで、彼がいない日常を過ごしていれば、否が応でもその死を受け入れざるをえなかった。


 そうして、私は心の奥底に欠落を抱えたまま、成人し、ここに戻ってきた。裕也に黙って一人で池に来たのは、彼氏の隣で昔の想い人を追憶するのは、何だか不義理なことだと思ったからだ。

 

 そろそろ戻らなきゃ……そう思って顔をあげた、その時であった。


「うっ……」


 突然、強烈な痛みが私の頭を襲った。まるで脳を直接握り潰されているかのような、凄まじい激痛である。立ち上がろうとしたが、脚に力がうまく入らない。私の体はふらりと揺れ、そのまま前のめりになって池に飛び込んでしまった。


 激痛に苦しめられながら、私は必死で手足を動かし池から上がろうとした。しかし手足はうまく動いてくれない。そればかりか鼻から水を吸い込んでしまって、なおのこと苦しむ羽目になった。このままでは、私も池で溺れ死んでしまう――

 そんな私に、何か黒くて大きなものが近づいてきた。目の前に見えたもの―それは、私の頭がすっぽり入ってしまうほどの大口を開けた、巨大なナマズの姿であった。

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